若い頃・デニーズ時代 29

な、なんとその深紅の車は、数年前から大ブームとなっているスーパーカーそのものであり、更に良く観察すれば、数あるスーパーカーの中でもランボルギーニ・カウンタックLP400と人気を二分する、あのフェラーリ・512BBだったのだ。
目の当たりにしたフェラーリは強力なオーラに包まれ、同じ駐車場内に並ぶその他一般の車は、あたかもフィルターをかけられた如くグレーに沈み、まったく目に入ってこない。
ドアが開き、ドライバーが降りてくると、<なに?>どこかで見たことのある顔である。
随分と若そうだが、金持ちであることに間違いはない。なんてたってこの車、豪華な一戸建てを買えるほどの値段なのだから。

「知ってます、あの人?」

背後からの声に振り向くと、いつの間にか佐渡がほうきを抱えて立っていた。

「彼、まさか本物の“池沢さとし”?」
「その本物ですよ」

なるほどね。漫画家もあれだけ売れれば、夢の車も乗り放題ってわけか。
入社2年目のぺーぺーサラリーマンとは住む世界があまりにも違う。

「近くに住んでいるらしいです」
「よく来るの?」
「たま~に」

この頃のファミリーレストランはとてもポピュラーだったようで、我が職場でも有名人達の顔を見ることが屡あった。
西武球場帰りの阪神タイガースの面々、大竹しのぶ・服部清治夫妻、所ジョージ、浅野ゆう子、石橋政嗣と数名の社会党党員、そして伊丹十三、加藤和彦等々だ。
当時はちょっとお茶したり、軽食をつまみながら気軽におしゃべりする場所は少なく、現在のスターバックスのようなコーヒーショップの役割も兼ねていたのだろう。

2~3カ月が過ぎる頃になると、マネージャーの仕事にもだいぶ慣れてきて、一通りのことは橋田UMに頼らずとも進めていくことができるようになった。こうなると仕事はさらに楽しくなり、店舗運営の醍醐味すら感じてくるのだ。但し、人事に関することは、単純に“1+1=2”とはいかないことが多く、頭を悩めるところ。
特に安定的なバイトスケジュールを組み立てるのは容易でなく、スタッフ一人一人との意思の疎通なくして成せるものではない。
例えば高校生スタッフの中間・期末試験が近づいてくれば、勉強したいからと、2週間近くは休まれてしまう。その穴を埋めるべく、前々から主婦や大学生にその旨を伝えておき、過疎になる時間帯をすこしでもリカバリーできるように下準備を行っておくのだ。
但しこの作業も、前述のようにスタッフ達との良好な関係がなければ簡単には進まない。

「来週から高校生が試験休みに入ってディナーが人手不足になるんだけど、1日でもいいんで、夜、入ってもらえませんか」
「いちおう昼だけとの約束ですから…」

これが一般的な展開。
ところが日頃からランチの主婦達にその旨をしっかりと説明しておき、例えば、来春小学校へあがるお子さんがいたなら、筆箱の一つでもプレゼントしておけば、こんなピンチに助け船を出してくれることだってあるのだ。

「わかりました。主人に話して火曜と水曜は出るようにします」

と、こんな感じだ。

そしてもう一つ難しいのが、アルバイトの採用である。
募集広告は本部人事課が随時アルバイトニュース等へ掲載しているので、田無店を例に挙げれば、月平均で2~3人の応募はあった。採用面接は基本的にUMの仕事だが、不在時にはAM若しくはUMITが行う。
しかし、20歳代の若いマネージャーでは人を見極める眼力に乏しいので、容姿上々で採用したMDが、遅刻の常習犯になったり、高校時代は野球部だったと称した健康的な男子学生が、しょっちゅう体調不良で欠勤したりと、水沢慶子のような“めっけもの”には中々出会うことがない。
しかし店舗運営の良し悪しはスタッフのレベルで決まるので、人事管理並びに採用は、全店一環としてマネージャー最重要の仕事として捉えていた。

「木代さ~ん、面接の方です」
「わかった! 4番で待っててもらって」

この日はMD希望の女子高生が面接で来店する予定になっていた。
大概の高校は、公立・私立共にアルバイト禁止の校則があったので、通学する高校が店の近隣だと、MDやDLのような客の目に触れる仕事は危険性があるとの理由で避けられた。

「三池さんですね」
「はい、お願いします」

小柄で随分と日に焼けている。

「何か部活やってるのかな」
「ソフトをやっていましたが、2学期で退部しました」
「受験勉強?」
「いいえ、肩を痛めてソフトができなくなりました」

話し方がしっかりしている。しかも笑みが高校生らしくて爽やかだ。第一印象は頗るいい。
いろいろな項目を聞き出して吟味するより、第一印象だけをを頼りに採用してしまったら正解だったなんてことは意外に多い。
若いマネージャーには人を見る眼力は備わっていないのだから。

「バイトは初めてですか」
「以前ちょっとだけ駅前のマックでやってましたけど、部活が忙しくなったので、、、」
「そうですか。ウェイトレスをやるとしたら、週に何回来られます」
「3回位だったらできると思います」
「週末もOK?」
「土日どっちかなら、なんとか、、、」

ますますいい感じである。
<毎日でも来られます>、<土日は丸々空いています>、<試験中もOKです>等々、
やる気満々なことを述べる人ほど、その通りに来たためしがない。
この傾向は、まず九割方当たるし、この人たちの殆どは飲食店での仕事の経験がない。

「分かりました。それでは早速明日から出勤してください」
「お願いします」
「とりあえず勤務時間は18時~21時で大丈夫かな」
「大丈夫です」
「それと、髪はショートだからそれでOKだけど、香水や装身具の類はNGだからね」
「分かりました」
「それじゃこの就労承諾書を親御さんに記入してもらって、いっしょに持ってきて下さい」
「はい」

こうして新人MDの獲得が成功したが、肝心なのはこれからだ。
そう、彼女・三池洋子を一日でも早く一人前のMDに育て上げることがマネージャー職最大の責務。デニーズではMDやKHの教育スケジュールもマニュアル化されており、何れも13週間で一通りの仕事をこなせるように仕組まれているが、その内容を如何に個々のスタッフへ当てはめていくかは、マネージャーの力量であり、これにはそれなりの経験が必要になる。よってUMITは、UMのアドバイスを受けながら、正に体当たりの試行錯誤を繰り返していくのである。

気持ちをリセット

暗礁に乗り上げた感のある写道楽。フルサイズを生かそうと張り切り過ぎて、逆にぎこちなさを招いてしまったり、はたまたV2の携帯性を武器に、あたりかまわずシャッターを切りまくるスナップ撮影に飽きがきたりと、目的の定まらない小手先ばかりの撮影行は、必然的にマンネリを呼び起こした。
そもそも写真の醍醐味を得たいならば、テーマと目的は設定すべきだと思う。
気の向くままに撮るやり方ではすぐに頭打ちが来てしまうし、たまたま画的に見栄えの良いものが数枚撮れたとしても、その喜びは一瞬のものでしかない。

随分と昔の話になるが、NikonD100を手に入れた頃、せっかくの高性能デジイチなのだから、その性能を堪能しつつ、しっかりとしたテーマを持って、後々まで残せる作品作りにトライしようと、真剣に計画を練ったことがある。
しかしテーマ作りはあまりにも漠然としていて、簡単には絞り込めなかった。
空、海、川ではピンとこないし、写真雑誌にたびたび載る“お散歩スナップ”では食指が延びない。モデルがいないからポートレートも無理だし、花や鳥、そして列車等々は月並みすぎて端からNG。
それならば、興味があるもの、好きなものの中にヒントがあるだろうと頭を捻りなおすと、なるほど、朧気ながらも形になってきた。
出てきたのは子供の頃に住んでいた沼津の風景だった。
私にとってまさに田舎の原風景とはここのことであり、胸の奥にしっかりと沁み込んで揺ない歴史なのだ。
こう考えるといてもたってもいられない。
自宅から沼津までは125Kmと、さほど骨の折れる距離ではないので、すぐにでも出かけることは可能だ。しかし、その前にどのあたりを歩くか決めておかなければ無駄足になる恐れがある。手始めは子供の頃によく遊んだ、“千本浜公園”、“港湾”、“子持川”を中心に、僅かでも昔の匂いが残っているところを巡ってみようとスタートさせた。

夏の初め。こうして千本浜公園の入り口に立った時、<やったるで!>と気分は高揚、D100を持つ手にも気合が入った。
さっそく被写体を探り始めたが、平日の昼前なので広場には人影が殆どなく、あまりに寂しすぎて画にならない。大勢の子供たちが現れてワイワイ始まるのは週末か、平日でも夕方以降だろうか。
港湾も然り。よく釣りをした白灯台の岸壁は、今では完全に埋め立てられ、当時の面影は微塵も残っていない。ノスタルジーを湧き起こそうとしても、現実を目の当たりにすれば、気分は冷えていく一方である。
同じ場所でもこれほど様相が変わってしまえば、思い出が現実の風景へと被さることはなく、ファインダーには単に前方だけが映し出され、感慨のひとつまみも感じ取れない。
<沼津・夏・蝉時雨・潮騒>
求めるイメージは何処へ行ってしまったのだろう。
やや疲れを伴い、港湾を後にする。
最後は、中学生の頃に通学路として毎日歩いた、子持川沿いの小径へと場所を移した。

当時は川の上流に染め物工場があり、そこからの排水で、何と川の水には色が付き、多いときは日に三度も色を変えたものだ。高度成長期に多々見られた工場排水の垂れ流しであり、当然生物が住めるような状況ではなかった。
ところが近年、この川に元気良く泳ぎまわる小魚の群れを見られるようになり、それを狙う鷺も飛来するようになった。自治体総出のクリーンアップ作戦があったのだろうか、ここだけは昔以上に昔をアピールする心象風景へと変貌している。
<海の近くの住宅街>が色濃く出ていて、撮影はリズム感よく進んだ。小径には桜が植えられ、春先はさぞかし賑やかになるだろうと想像しつつ、その他にも様々な植物の開花が見られ、構図を決めるのが楽しくてしょうがない。
暫し夢中になり、ふと気が付くと母校である沼津二中の近くまで来ていた。
この辺を歩くと思い出す。夏休み、バスケット部の練習が終わると、仲のいい友人と連れ添って、通学路から一本入った路地裏にある駄菓子屋へ駆けつけ、そこの焼きそばを食べるのが楽しみだった。僅かな豚肉にキャベツ、これをウスターソースで味付けをしたあっさり味だったが、美味かった。懐かしい思い出である。

千本浜公園~千本浜~港湾、そして子持川と、ぐるり半日回ってきたが、久々の古里漫遊からか、その疲労感は爽やかそのもの。そしてどのような写真が撮れたかワクワクしてきて、今回の撮影行は企画的に成功だったとひとりほくそ笑むのだった。
帰宅すると早速データをPCへダウンロード。一枚一枚じっくりと確認していく。
この作業は実に楽しいもので、ある意味撮影以上の興奮を味わえる。
D100のデータ保存は基本的に「RAW」オンリーだ。Nikon Viewで閲覧した後、気に入ったものをPhotoshopのプラグインである“Camera Raw”を使って現像していく。このフローは現在の愛機D600に至るまで一貫したもので、自分らしい写真を表現できる最良の方法となっている。

「・・・・・・」

どれもこれも単に今の沼津の記録でしかなく、悲しいかな心象風景的なものは一枚も撮れていない。
それなりに工夫したつもりだったが、いざモニターでまじまじと見れば、何の変哲もない平凡なスナップ写真ばかりなのだ。
但、子持川沿いの教会やその周辺は昔とそれほど変わっていなかったので、何となく形にはなっていたが、この時の気分は“残念”というより、寧ろ“難しい”が正直なところだった。ものを見る眼力に力不足があることがありありと自覚でき、写真の奥深さを痛感した。
結果的に満足できる写真は殆ど撮れなかったが、やはりテーマを決めて臨んでこそ、山あり谷ありの醍醐味に遭遇するわけであり、また、達成感の尺度もありありと分かって、次へのステップも見つけやすいと感じた。

前述のとおり、この頃ではD600もV2もカメラバッグの中で眠りっぱなし。ここは一度気持ちをリセットして、再びテーマなりやり方なりを構築した上で、再トライするつもりだ。
落ち落ちなんてしていられない!
盛夏、晩秋、大晦日と、シャッターチャンスは次々に巡ってくるのだ。

精神の浄化

6月22日(木)。久々の山歩きを楽しんだ。最後に行ったのが去年11月の“八丁池”だから、既に8カ月が経過している。
山から遠のいた理由は様々あるが、やはりマンネリ化してきてきたことが一番だと思う。その他にもD600での試し撮りスナップが面白くなったり、はたまたリチャードとの公園巡りが楽しかったりで、以前より目が向かなくなったのが正直なところだろう。
<それじゃあ、なんで?!>
梅雨入りで毎日が不安定な空模様の中、貴重な晴れ予報が出ていたこと、そしていつまで経っても良くならない腰痛に、<逆療法でもくれてやれ!>と、少々やけっぱちな心情が働き、今回の山歩きとなったのだ。
そんなことで、ルートは足慣らしによく選ぶ“御岳山~日の出山”に決定。当日はゆっくりと7時に自宅出発した。

それにしても腰痛の治りが悪い。一カ月以上経ってもほとんど症状に変化がなく、不安ばかりが膨らんでいく。痺れは一切感じないので椎間板ヘルニアではないと思うが、清水さんのお父さんが手術すれすれまで悪化させ、一カ月近く仕事にならなかったと聞いて、今までは放っておけばそのうち治ると強気でいたが、そろそろ病院へ行かねばと考えている。

8時半前に二俣尾のセブンへ到着。道の流れは頗る良い。
さっそく車から降りようとすると、

「うっ!」

重い痛みが邪魔をして、シートから腰を浮かせることができない。座った状態が長く続くと必ず痛みが起きるが、それにしても強烈だ。座面に手をつき、体を支えるようにして何とか立ち上がったものの、これで山を歩けるのかと心配になってきた。
鳩ノ巣の無料駐車場へと車を移し、着替えなどの出発準備を整えた後は、入念なストレッチングで腰の緊張を解した。うっすらと汗をかくまで繰り返すと硬さが取れ、幾分軽い感じになってきたので、予定通りに出発。R411を横断して多摩川に架かる雲仙橋を渡る頃には、何とか痛みも落ち着いてきて、久々の山歩きを楽しもうという前向きな気分になってきた。
幾分水量を増した眼下の多摩川は、いつもながら美しい渓谷美を放っている。
この先の集落を通過すれば、山道の入り口だ。

前日の雨でそうとうにぬかるんでいると覚悟を決めていたが、こちらはそれほど降らなかったようで、山道のコンディションも上々だし、空気感にじっとりさはない。むしろ木々の間を爽やかな風が駆け抜け、その気持ちよさに鼻歌までが飛び出した。
但、山中は新緑を通り越し、猛然な勢いで草木が成長しているので、いたるところで枝葉をかき分け進むことになった。
大楢峠で短い休憩の後は、いつものように御岳山へと向かった。
前回はこの先で巨大な角を持つ牡鹿と遭遇し、腰を抜かした。熊じゃなくて助かったが、鹿でもあれだけでかい奴だと、その存在は恐怖そのもの。
小さな沢と、ちょっとした岩場を超えると、御岳山の集落はもうすぐだ。

「おっ?解体か」

このルートで集落入りすると、最初に出迎えてくれるのが藁葺屋根の古い民家である。ところがその古民家がついに解体の運命らしい。見れば一部の柱と梁を残して殆ど骨組み状態になっている。完全な解体ではなく恐らく修復だと思われるが、親しんだオリジナルが消えてしまうことは寂しいことだ。
それはさておき、ここから始まる石垣はいつも目を楽しませてくれる。なぜなら、この石垣には季節ごとに何らかの可憐な花がいつも開花しているからだ。先回訪れたときには、なんとカタクリを見つけることができた。カタクリと言えば御前山の群落が見事だが、ほかの花にまじってきっちりと咲いている様は、中々の妙を感じる。
ここまでは腰痛の影響もほとんど出ていなかったので、いつも利用する紅葉屋へは寄らずに、このまま日の出山へと歩を進めた。
それにしても、この人影まばらはどうしたことだろう。いつもそこそこの活況を見せている御岳山集落なのに、、、

集落から日の出山までは、尾根道を行くことになり快適だ。
ケーブルカーで上がってきた大勢のハイカーも流れてくる人気のルートでもある。

「こんにちは!」

おそろいの“岳”Tシャツを着こんだ若い人5人組が軽快な速度ですれ違う。
紅潮した頬からは若者ならではのパワー感が漲り、歩き去った後姿を眺めれば、無意識のうちに羨ましさがこみ上げた。悲しいかな、これも歳を取ったせいか、、、

13時過ぎに日の出山山頂へ到着。ややガスっていたが眺望は十分。お気に入りの場所だけに、昼食タイムを兼ねてゆっくりと時間を楽しむことにした。
ここは東から南にかけての眺めが良く、空気が澄んでいる時などは西武ドームがくっきっりと確認できる。大岳山方面も広々としていて、山の連なりが登山心を掻き立てる。
ぐるり見渡すと、東屋に2名の年配男性。手すり側のベンチに年配女性の2人組。西側には年配男性が出発準備の真っ最中。そして向かいのベンチにはやや小太りの30代と思しき女性がガイドブックに見入っている。誰と会話をするわけでもないが、狭い山頂に集っているだけで、なんとなく近しく思えてくるのだから不思議だ。
おにぎり2個とクロワッサン1袋を平らげた後は、入念にストレッチングを行った。
腰に問題はなかったが、いつもの左膝に違和感を覚えはじめたからだ。
多少のアップダウンはあるものの、ここから愛宕神社までは下りとなるので、この兆候は不安材料になる。違和感の本元である腸脛靭帯炎は、下り時にのみ起こる痛みなのだから。

結局、愛宕尾根の下りは涙・涙・涙であった。
山を歩き回るための筋力は殆ど振り出しに戻っている筈なので、これは致し方のないことだが、送電線塔から先の急坂の連続では、ウッと声が出るほどの痛みも走り、情けない気分を通り越して苛立ちを覚えてしまう。特に愛宕神社の長い石段を下る際は、手すりに思いっきり体重を乗せて、一歩一歩だった。
しかし、そんな痛みを差し引いても、山歩きは楽しいものだ。
鳩ノ巣~古里~川井~御嶽~沢井~軍畑~二俣尾と、青梅線の駅で6駅分、路線距離にして10Km以上に登り下りの負荷を加えた山中の道を、自分の足と感覚だけを頼りに歩き切る達成感は、何度味わっても気分がいい。
そして7時間半もの長い間、自然の中に身を置くことは、精神の浄化に大きく寄与すると私は信じている。

写真好きな中年男の独り言