若い頃・デニーズ時代 14

さすがにオープン前日ともなると、店は戦場さながらと化す。

「おーい、ペーパータオルの補充がないぞ!」
「Tジューは1本でいいのよ」
「ロールパンは明日の朝一に入れて」
「ビールはバックで2ケースだよ」
「髪の毛、後ろで結んできなさい!」

こんなやり取りが夕方近くまで飛び交い、否応なしに緊張感が膨らんでいく。
一方、キッチンは西條さんが陣頭指揮をとり、てきぱきと準備が進んでいった。

「要はね、解凍だよ」
「ハンバーグはドロアーに2シート、あとはウォークインですね」
「OK。パティーは様子を見よう。それとミックスチーズはワンインだよ」
「準備できてます」

きちんと解凍のできていないハンバーグではまともな調理はできない。開店早々に品切れなど出したら、首が飛ぶ。

「そしたらサラミとハム、それとパンケーキミックスをやって終りにしよう」
「ました!」

当時のデニーズでは、ピザのトッピングとして使うサラミやハムを、肉屋が使っているものと同じ電動スライサーで薄切りにしていた。サラミだったら5本ほどを束にして紐で結わき、それを台座に固定して、回転する刃に何度もスライドさせてカットしていくのだ。
先輩クックの小田さんが慣れた手つきで淡々と進めているが、回転刃の切れ味は恐ろしいレベルで、この作業には最大の注意を要する。

「うわ~、凄いな~」

気が付くと西峰かおるがシンクの脇からスライス作業に見入っていた。

「きれいに切れるんですね
「んっ? えへへ」

顔を真っ赤にした小田さんは、“えへへ”しか発しない。女性に対して相当な照れ屋のようだ。
“人が良さそう”を絵に描いたような小田さんは、周囲の緊張感を和らげるキャラがあり、そのせいか新人MDからも良く声をかけらる。同期の下地はちょっとした仕事の質問等は、西條さんではなく小田さんに訊いているほどだ。

「私にもできるかな~」
「んっ?、、、えへへ」

やはり“えへへ”だけである。

「やっぱりレストランはコックさんで決まりですね」

その時、

「そんなことないさ。西峰さんのような可愛いMDがいなきゃお客さんはこないよ」

わおっ! 根暗だと思っていた村尾の奴、結構ストレート。

「えぇ~、そうですかぁ?!」
「絶対そうさ、なあ下地」
「あはは、いきなり俺に振るなって」

下地がずいぶんと動揺している。たまに西峰さんをチラ見しているところから、案外“ほの字”かもしれない。
若い男女が多数在籍するデニーズでは、壮絶な争奪戦も日常の光景だ。

「それより西峰さん。ウェイトレスステーションの準備は終わったのかな?」
「はい。残りは明日来てやるものだけです」
「そっか、そりゃご苦労さん」

その時、突然スイングドアが開いて、井上UMが現れた。

「西條君、キッチンはどうかな?」
「バッチリです」
「そうか、フロントも完了のようなんで、そろそろ全員引き上げよう。明日から大変なことになるだろうから、早く帰って休もう」
「ました!!」

浦和太田窪店の営業時間帯は朝7時から夜の11時。基本勤務シフトは早番(6:30~15:30)と遅番(14:30~23:30)だが、双方の補強と円滑な繋ぎのために中番(12:00~21:00)というシフトも設定している。
オープンのフォーメーションは、早番に西條リードクック、村尾、KHの西さん、応援スタッフ。中番には小田さん、応援スタッフ。遅番は下地、応援スタッフ、そして私という布陣だ。
応援スタッフには本部のお偉方から近隣店舗のベテランクックと、技量的に優れた人達が参加することになっていて、彼らは各々1週間から1ヶ月の期間で店に張り付き、キッチンの実作業をメインとしながら、KHの指導教育にも目を光らせる。
もちろんフロントにも近隣店から5~6名のMDが応援に駆けつけてくれ、レストラン運営が滞らないよう全員で接客サービスに当たるのだ。
よって応援スタッフがいる間に、店として一本立ちできるようにしなければならないことは言うまでもない。

よっしゃぁ、寝て起きたら本番だ!

若い頃・デニーズ時代 13

デニーズ

初めて体験する新店オープン。辞令が出た時は期待と不安で胸苦しささえ覚えたものだが、実際に動き出してみれば目眩がするほどの忙しさに翻弄され、そんな感覚は瞬く間にどこかへ消え去ってしまった。

新店舗の引き渡し後、真っ先にやらなければならないことは掃除と磨き上げだ。フロントにはクリーニング業者が入って絨毯クリーニングと窓ガラスの清掃を行い、それが完了すると新人MD達がひとつひとつのテーブルにワックスを掛けていく。そしてケミカルの匂いが充満したフロントの3番ステーションでは、本部からやってきたオープニングスタッフが、4~5名のMDを相手に接客トレーニングの真っ最中である。

「いらっしゃいませデニーズへようこそ!」
「はい、もう一度」

新店だから当然アルバイトスタッフ達は皆新人。キラキラと眼を輝かせながら一生懸命トレーニングに励んでいる姿は実に生き生きとしていて、微笑ましくもあり頼もしい。ウエイトレスステーションのルーバー越しにお辞儀の練習が見えたとき、俺も頑張らねば!と気合がった。

そしてキッチン。
プレート棚、シンク周りの拭き掃除を行うと、次は大小多数のインサートをディッシュウォッシャーマシーンで洗い、所定の場所へセットしていく。新品のすのこも油がコーティイングされているので、磨き上げは念入りに行わなければならない。

「グリル板って、最初はこうなってるんだ!」

使っては磨きを繰り返していた小金井北のそれと較べると、これは単なる鉄板だ。このままではまともなパンケーキなど焼けるはずがない。

「びっくりしただろう。 それ、俺と交代で磨こう」
「ました。でも、結構しんどそうですね」
「いい汗かけるよ」

グリルストーンで円を書くように白絞油を伸ばし、その後は縦横交互にムラなく磨いていくのだが、ざらついた表面が平らになるまでには相当な腕力と時間が必要だ。
それでも表面が一枚剥けてきれいな地金が見え始めると、無性に嬉しくなる。

「次は火を入れるよ」

ここからだ、灼熱地獄は。
点火して徐々に熱が入ると、磨き上げた表面が黒っぽく変化していくので、それをまた擦り取るようにグリルストーンをかける。瞬く間に額が汗ばんできた。

「いや~、しんど」

いつの間にか外でスノコ磨きをやっていた下地が汗だくになって戻ってきた。
彼は村尾と同じく同期入社で、見た目こそ華奢だが、よく動き回る快活な男だ。もともと埼玉が地元で、ここへ来る前は上福岡店で勤務していたそうだ。

「マネージャーが休憩入れろってさ」
「OK、休もう休もう」

その時、タイミングよくMDの西峰さんがウェイトレスステーションに入ってきた。彼女は専門学校へ通う19歳。くりっとした大きな目にショートヘアーがよく似合う実にキュートな女の子だ。人気者になることは間違いないだろう。

「西峰さん、コーラ4つ、1番テーブルへお願いします」
「は~い」

しかし、こんなかわいい子と仕事ができるなんて、なんてGooな職場なんだ。思わず頬が緩んでしまう。
前掛けを外して手を洗い、下地と一緒に1番ステーションへ向かうと、井上UM、西條さん、そして初めて見かける小柄な男性がテーブルで向かい合い、何やら雑談の最中だった。

「おお、座れ」

飛び出してしまうのではと心配になるほどのギョロ目が特徴である井上UM。恐ろしいことに笑う時でもその目は大きいままだ。

「皆に紹介する。昨年入社のクック小田君だ。オープンメンバーの一員として今日から一緒にやることになった」

小柄でやや小太り、一見目線は優しく感じた。しかし実際はどんな人だろう。

「神奈川の上大岡から来ました小田です。よろしくお願いします」
「ました!お願いします!」

今日はたまたま村尾は休みだが、これでリードクックの西條さん、担当クックに今季入社組の3名と小田さんが加わり、総勢5名の社員クック体制となったわけだ。キッチンヘルプもデイシフトに既に1名入る予定があるらしく、小金井北と比べれば随分とゴージャスな布陣である。
これならどんなに凄まじいオープン景気が起きたって何の心配もない筈だ。
新店オープンは大変だとずいぶん周りから脅かされてきたから、なんだか少々気が抜ける思いである。メンバーの顔つきを見回せば、皆同様な安堵感に浸っているのだとすぐに分かる。
ところがだ、、、
この万全と思えた体制に、少しづつだが段階的にひびが入っていこうとは、当然ながら誰も予想だにしなかった。

若い頃・デニーズ時代 12

デニーズがイトーヨーカ堂内のインストアから郊外へ向かって本格的な多店舗攻勢をかけ始めた頃、その店舗スタイルは、ウェイトレスステーションのない“オープンキッチン”だった。
フロントの開放感はデニーズの大きな特徴として他社との差別化を図り、オレンジ色を主体とした明るい内装でアメリカンポップを演出、そしてスタッフの快活なグリーティングとコーヒーおかわり自由が、既存国内レストランの概念をぶち破ったのだ。
デニーズは何もかもが新しかった。
当時、コーヒーと言ったら喫茶店で飲むレギュラーコーヒーを指し、午後の一時、または洋食の後など、特別な時間に楽しむものだったが、デニーズのアメリカンコーヒーは、堅苦しいことなしに、“いつでも気が向いたときに何杯でも”をキャッチコピーとして着実に広がっていった。
その昔、アメリカ人は一日に10杯も20杯もコーヒーを飲むと聞いたとき、レギュラーコーヒーしか知らなかった私は、アメリカ人はなんて胃が丈夫なのだろうと感心したものだが、彼らが親しんでいる元祖アメリカンコーヒーは、焙煎が浅く、極めてライトタッチな飲み物だったのだ。単にレギュラーコーヒーを薄めただけだったら、とてもではないが何杯も飲むことなどできるはずもないし、況して食文化にはなり得ない。
幾種類にも及ぶ卵の焼き方、付け合わせのハッシュドポテト、トーストの上にローストビーフをのせたホットローストビーフサンド、マクドナルドのハンバーガーとは一線を画く手作りの味わいが人気を博したデニーズコンボ等々、デニーズレストランは、見て知って驚くアメリカ文化の固まりだったのだ。

そんなある日、事務所に呼ばれると、加瀬UMからついに異動の話が出た。

「決まったよ。浦和の新店だ」
「埼玉ですか…」

覚悟はしていたが、いざ東京を離れるとなるとちょっと寂しい。最初はどうなるかと心配していた槇さんとのコンビネーションも今ではいい感じで息が合い、平日のディナータイムなら二人でほぼ完璧にこなせるようになっていたのだ。

「通えない距離じゃないけど、オープン作業で何かと大変だろうから、入寮の手続きも取っておきなさい」
「ました」

異動先である新店の名称は【浦和太田窪店】。
浦和競馬場の東側を通る産業道路沿いだ。全く不慣れな地だったのでロケーションは想像もつかない。

「店長は井上さんという、結構厳しい人だぞ」

まいった。脅かさないで欲しい。

「だけど直接の上司は西條といって、うちの石澤も一目置く優秀なリードクックだから、きっといい経験ができると思う」
「ところでオープンはいつですか?」
「ちょうど1ヶ月後かな。寮は準備できてるから、次の休みにでも様子見兼ねて、寝具だけでも運んでおけばいい」
「分かりました。行ってみます」

何とも急な話である。

「これは準備会議の予定も載っているオープニングマニュアルだ。しっかり目を通しておくように」

めくってみると新店の地図やスタッフの面々、そして事前会議の予定が目次付きでびっしりと羅列してある。特にノーイングの搬入からキッチンのセットアップまでは、タイムテーブル形式で綿密なスケジュールが組まれていて、読み進めれば新店オープンの大変さが現実味を帯びて伝わってきた。

その日帰宅すると、すぐに愛用の首都圏地図を開いて浦和太田窪店の位置と行き方を調べた。
井の頭通りから環八へ入り、そのままオリンピック道路を進んで笹目橋を渡り、右折して蕨市を通過すると産業道路へぶつかるので、そこを左折すれば建物が見えてくるはずだ。
交通量によってまちまちだが、恐らく所要時間は1時間前後を見なければならないだろう。十数分で到着する今の小金井北店を考えると、通勤に掛かる負担増は計り知れない。やはり寮生活になってしまうのだろうか。

加瀬UMに言われたとおり、直近の休みに浦和太田窪へ行ってみることにした。既に走行距離12万kmを突破している愛車セリカ1600GTVは、快調にオリンピック道路を疾走し、1時間弱で完成間近の新店へと到着した。
駐車場の一番奥へ車を入れて店へ向かうと、業者のトラックとは別に、誰のものか、母屋の脇にヤマXS750が停まっていた。人気のバイクである。
裏口のドアを開き、そっと中を覗いてみたら、何やらシンクの前でクックが作業を行なっている。

「おはようございます」

突然の声掛けに驚いたのか、そのクックは肩をすくませながらゆっくりと振り返った。

「なんだよ、びっくりするじゃねーか!」
「すみません!今度お世話になる小金井北の木代です」

訪れた経緯を説明すると、彼はそれまでの強ばった表情から急に人なつこいニヤケ顔へと変った。

「そっか、俺は西條です。よろしく」
「リードクックの西條さんですね。こちらこそよろしくお願いします」

加瀬UMから聞いていた“優秀なクック像”とはやや異なる第一印象だが、その優しい笑顔は人を包み込み引き寄せた。神経質で暗い人だったらどうしようと心配していたので、先ずはほっと一息。店を統括するのはもちろんUMだが、職場環境に於て直属長の存在は大きい。
年齢は小金井北の石澤リードクックよりひとつ上というから、私と較べれば二つ年下だ。

「寮へ行くと同僚になる村尾さんがいるはずだよ」
「ありがとうございます。寝具を持ってきたんで、すぐに行ってみます」

店の裏手にある寮は住宅街のど真ん中で分かり辛く、見つけるのに苦労した。迂回やらUターンやらで、歩けば5分もかからないところを車で10分以上も右往左往してしまったのだ。
袋小路へ車を停めると、布団袋を担いで階段を上がった。
見たところ、各階一世帯のアパートは築10年というところか。

「こんにちは」

ペンキの剥げた手摺りや、ひびの入ったモルタル外壁等々、それなりの生活感が染みついている。

「だれ?」
「小金井北の木代です」

黒縁の眼鏡と鷲鼻、そして華奢に見える体つきが、神経質な第一印象を醸し出していた。

「どうも」
「布団、こっちへ置いていいですかね」

仕切は襖だけ。ここは寝る以外に使えそうもない。

「村尾です。よろしく」
「ここを使うのは俺と村尾さんだけ?」
「そうゆうことかな」

それにしても表情に欠ける男だ。
これから色々接するうちに分かってくるところもあるだろうが、何となく取っつきにくい感じを受ける。いっしょのシフトは組みたくないタイプだ。しかし新店オープンにはチームワークこそが重要。新しいスタッフとは当たって砕けろの精神でコミュニケーションを計らねば。
5日後に迫った完全移動。
この際こまかいことは考えず、やるべきことを一生懸命やるだけだ!