秋川渓谷

 つい一週間前のこと。帰宅すると、居間のテーブルに何やらパンフレットが置いてある。
「これなに?」
「あ、それね。三鷹の駅前で配ってたの」
 手に取ってみると、あきる野市が発行する秋川渓谷を紹介した観光案内で、紅葉を楽しむ散策コースを中心に、アクセス、名産品、お休み処等々を羅列した、よく見かけるものだ。
 ただ、紅葉については大菩薩嶺での美しい眺めが依然と頭に焼き付いていたので、三つあった散策コースの中の“紅葉コース”に目を通してみた。JR武蔵五日市をスタートし、ほぼ秋川を沿うように西青木平橋まで行くもので、全長12.1Km、所要時間約三時間とある。恐らく紅葉のタイミングもぎりぎりで間に合いそうだし、全コース歩き切った後は、路線バスに乗って武蔵五日市駅へ戻ってこられるので、あんばいとしてはちょうどいいかもしれなかった。
「なんかこのコース、良さそうだよ」
「いいじゃない、行ってみれば」
 いつもながら女房の一声はそっけない。

 十一月十六日は朝から快晴だった。三鷹駅八時四分発の青梅線直通に乗り込む。いつものことだが、下りと侮れぬ乗車率とハイカーの姿が目立った。結局、拝島まで立ちんぼである。乗り換えた五日市線では何とか座れたものの、その乗客の多さは意外だった。
 西へ進むほどに車窓から見える町並にのどかさが増していく。そして拝島から四つ目の駅“武蔵引田”に到着すると、ええっ!と声を発しそうなほど、殆どの乗客が下車していくではないか。畑のど真ん中の駅なのに、たまらまく不思議に思い、さっそくスマホで調べてみると、駅から歩いて十分のところに“イオンモール日の出”があったのだ。どこのイオンモールでも巨大なショッピングモールに変わりはないはずだから、急ぎ足で降りて行った多数の方々はそこの従業員なのだろう。終点の武蔵五日市で下車したのは、そのほとんどがハイカーである。

 さあ出発。駅前に立つとさっそく地図を広げた。檜原街道をちょっと進むと、秋川の川べりに降りる最初の道標がすぐに見つかったので、それに従い急な階段を下りて行く。秋川橋から眺める紅葉は既に色が落ち始めていてちょっと残念。広い公園を横切り、あゆみ橋から対岸に戻り、川べりの道を行く。澄み渡った空気を思いっきり吸い込めば気分爽快である。周囲は田畑がほとんどだが、古い家、新しい家が点在していて、ここの田畑もその持ち主は高齢者だろうから、ローカルで穏やかな眺めもあと何年というところか。

 小和田橋を渡り、広徳寺へ向かう。昨夜、この寺について少々調べてみたところ、一三七三年に創建された格式あるお寺で、紅葉時は古刹と黄金色のい輝く銀杏の圧巻的コントラストを愛でられ、素人でも息をのむ一枚を撮影できるとの触れ込みがあった。これには当然テンションが上がったので、小山の上に建つ寺までの坂道も苦にはならなかった。
 到着すると、右側にある駐車場は七割がた満杯である。人気スポットに間違いなさそうだ。境内に入ると、なるほど真正面に大きな銀杏の木がそびえ立ち、きれいに色づいている。ところがだ、いかんせん人が多すぎた。様々なアングルを講じてみたが、“息をのむ一枚”は、非力な私には望めそうもない。休憩かねがね数枚を撮って、早々と山を下りることにした。

 そしてこの山を下りるあたりから、パンフレットの地図に疑問を覚え始めるのだ。ひどく大雑把な描き方故に、コースミスを帰したのだ。本来は住宅地を通り抜けて、桂月橋へ向かうはずだったが、なんと前方にはさっき渡ったばかりの小和田橋が見えるではないか。ちょっと遠回りになってしまったが、気を取りなおして先へ進めた。

 狭い急坂を上がり、いったん檜原街道へ戻ると、先の小中野の交差点から再び秋川へと下っていく。沢渡橋を渡ると今度は緩い上り坂になった。登山ではないのに、たび重なるアップダウンで右股関節に痛みが出始めた。この股関節痛、何ともしつこい。夏の編笠山登山のころから違和感は出ていたが、それが治らないどころか、徐々に悪化しているのだ。それなりのストレッチング等々は行っているが、効果らしきものは現れない。今後のためにも、冬の間に一度病院で診てもらおうかと考えている。

 住宅街に入ると更に傾斜が増してきた。これは一山超えて再び秋川へと下っていくのだろうと、徐々に地形全体がわかり始めてきたが、相変わらず地図は頼りにならず、ちょうど左の道路際で草むしりをしているご主人に声をかけてみた。
「この橋を渡りたいんですが、このまままっすぐ行けばいいんですかね」
「あ~、この地図ね。見にくいよね。それにインチキなところもあるよ」
「あらら」
「これ、大雑把すぎる。ほら、あそこ。カーブミラーが見えるでしょ。あれを右だ」
 なるほど、地図には目印の記載が殆どなく、左へ折れてもおかしくない。
「どうもありがとうございました。助かります」
「気をつけてね」
 そもそもこの地図、年寄りには厳しすぎる。大雑把な描き方はもちろん、それを増長させるのが、あまりに小さな記載で文字すら瞬時に読めないこと。観光客増を狙ってのパンフレットなのに、これでは役に立たないどころか反感を食らう。これまでに見かけたハイカーの多くは、間違いなく私より年上の方達ばかり。

 川沿いの道は山間に入り、ぐっと涼しくなってきた。股関節の調子は相変わらずだが、気持ちのいい空気感に助けられ鼻歌も出てくるほど。緩いが登りもやっと終わりに近づき、下った先には施設らしき建物も見えてきた。多分、あのあたりに日帰り温泉の“瀬音の湯”があるのでは。
 広くて整備された道を左折して石舟橋を渡ると、右手に見覚えのある駐車場が見えた。十里木駐車場である。ということは、その先が十里木交差点で、再び檜原街道へと戻ってきたわけだ。腕時計を見るともうすぐお昼。スタートして三時間弱である。

 腹も減ってきたので、何はともあれ温泉施設にある食堂へ行ってみることにした。ところがだ、予測はしていたが、施設の敷地にはこれでもかというほどの人、人、人で溢れかえっている。駅前で配っていたパンフレットの効果かどうかは定かでないが、いくら紅葉の季節と言っても平日である。食堂の入口には案の定多くの人たちが空き席を待っている。とりあえずウエイティングノートを覗いてみると、すでに九組が待ちだ。残念だがここは諦めるしかないときびすを返した。考えてみれば、バックパックの中にはおやつ代わりに持参した小ぶりのクロワッサンが二つだけ。とても腹を満たすことはできないが、今回は車でなかったので、サーモスのポットの中にはギンギンに冷やした麦焼酎いいちこを満たしてきたのだ。うまいこと左側のベンチが空いたので、ダッシュで陣取りすると、クロワッサンを肴に昼呑みと洒落こんだ。

 帰りのバス、そして電車の中では、ほどよい酔いに身を任せて何とも幸せな気分。おまけにこんな一日の過ごし方もあるんだなと、妙に感心してしまい、行楽の季節真っ只中ということもあり、次はどこへ出かけて酔っぱらおうかと、さっそく頭を回し始めるのだ。


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