若い頃・デニーズ時代 19

その日は朝から落ち着かなかった。
プリパレをしていても集中できず、計量を間違えたり、インサートを落としたりと、普段のリズムが戻らない。
無理もない。一介の平社員の進退話に対して、会社の大幹部がわざわざ聞きに来てくれるというのだから。ふと何かとんでもないことをしでかしたのではと、胸がざわつく。

「木代、RMがお見えだぞ」
「は、はい」

クック帽を脱ぎ、前掛けをはずして、田岡RMの待つ3番ステーションへと向かった。
一瞬の緊張は走ったものの、既に胸の内は割り切ったものが支配していたので、なんとか正常心で話せそうだ。

「おはようございます!」
「おうっ! オープン以来だな」
「はい」

細面な田岡RMは、小柄で痩せていて、一見迫力に欠けるが、目つきだけは異常に鋭く、怒るとその雰囲気は一変する。
オープン前日に来店したときが凄かった。駐車場のぐるりに植えられた植木の一部が、散水不足だったのだろう、既に葉が枯れ始めていたのだ。それを見つけたRMはすぐさま井上UMを呼びつけ、

「管理不足だ!! どこに目をつけて仕事をしている!!!」

と、ダイナマイト級のかんしゃく玉を落としたのだ。

「まあ、掛けたまえ」
「失礼します」

話す内容は整理できていた。どの様に捉えてもらえるかは定かでないが、全て吐き出せばスッキリするし、停滞している気持ちも動き出すに違いない。
個々の負担が大きいこと、長時間勤務が常態化していること、そして先々の展望が見えないこと等々を一気に述べてみた。
頷くだけで暫し無言だった田岡RM。しかし、一呼吸おいて出てきた言葉は、

「木代。東京へ戻るか」
「えっ?!」

意外な一言に思考回路が一瞬停止。
冷静になれば、それは用意された回答だと理解はできたが、“東京”という一節と、優遇措置としか捉えようのない内容に、退職という選択肢は瞬く間に薄らいでいった。

「戻していただけるんですか?!」
「頑張り続けるなら戻してやる」

本当は辞めたくなかったのかもしれない。引き留めてもらいたい気持ちは潜在的に存在していたのであろう。
但、下地や村尾達のことを考えると素直に喜べないし、世話になりっぱなしの西條さんを裏切るような展開を思うと抵抗感すら覚えた。
ところがだ。そんな心の内を見抜いたようなRMの話は素直にありがたかった。

「いいか。これはあくまでも会社から発せられた辞令だ。お前の要望を考慮したものじゃない」

それから三日後。本部より正式な人事異動が発令される。
その内容を見ると、当たり前だが、単に私が出て行くだけではなく、ついに西條さん一人となってしまった
太田窪店のキッチンへは2名のクックが配属と記されていた。それにしてもオープンから2ヶ月余りで殆どのクックが入れ替わってしまうとは…

「寂しくなりますね」

ブレークに入った西峰かおるが、左手に持ったグラスを見つめながらつぶやいた。

「こればっかりはな、、、しょうがないって言えばそれまでだけど…」
「せっかく親しくなれたのに、みんないなくなっちゃうんだもん」

太田窪店オープンにあたり、がっちりとスクラムを組んだスタッフ達。この仲間だったらやれそうだと、湧き上がるやる気に体が熱くなったものだが、まさかこんな終局が待っていようなど夢にも思わなかった。

「落ち着いたら遊びに来るから、西峰さんも頑張ってね」
「は~い」

51096JA4QJL実際、寂しかった。
一方的だったかもしれないが、西峰かおるとはオープン当初から不思議に波長が合い、私にとっては頼りになる“相棒”だった。特にクックとMDの橋渡し役では嫌な顔をひとつも見せずに尽力してくれ、このことは明るい職場づくりの立役者として店の誰もが認めていた。
それに正直言うと、明るく笑顔が抜群の彼女にはちょっぴり“ほの字”だった。
今回の異動は心理的にずいぶんと揺れ動いたが、これは田岡RMからいただいた最後のチャンスと解釈し、その期待に応えるべく、次の職場へ向けて強制的に気持ちを切り替えていくのだった。

異動先は『立川店』。既に歴史のある三多摩地区の中堅どころだ。
新店とは異なる既存の環境に不安は隠せないが、突っ走る覚悟はできていたし、これを機に次のステップを狙おうと心に決めていた。
この夏、サザンオールスターズが『勝手にシンドバッド』でセンセーショナルなデビューを飾り、一気にスターダムへと加速。何を言っているのかわからない歌い方だったが、なぜが心にズキュンときて、日本のPOP界も変わっていくのだろうと強く感じた。

熊 被害相次ぐ!

5月30日(月)付けの読売新聞に、昨今の熊事情を紹介する記事が載っていた。
私も含め、山歩きや山菜採りなどを楽しんでいる方々にとって、熊は脅威なる存在の筆頭であるが、5月に入ってから全国各地で相次ぐ目撃情報が入ってきているというから心配になる。しかも複数の死傷者が出ていて不安は膨らむ一方だ。特に5月21日(土)、22日(日)に秋田県内でタケノコ狩りの為に山へ入った男性二人が死亡しているのが見つかった際、その外傷から、いずれもツキノワグマに襲われたものと断定されたのはショッキングだ。
岩手県で40年以上狩猟を続け、何度もツキノワグマに出くわした経験を持つ、大日本猟友会会長の佐々木洋平さんは、
「子供を連れた熊は特に警戒心が強く、猟師でも手に負えない時がある」
と警鐘を鳴らす。
ツキノワグマの体長は1.0m~1.5mほどだが、一般人が襲われたらひとたまりもないとのことだ。

熊の被害数は年ごとに大きく異なる。
日本ツキノワグマ研究所理事長の米田一彦さんによれば、熊のエサとなるブナの実(ドングリ)が、昨秋まれに見る豊作で、母熊の栄養状態が良く、今年は熊が親子で活発に移動するケースが多いとみられる。
米田さんは、
「夏から秋以降、成長した小熊が人を襲う恐れもある」と指摘した。
環境省や自治体は、入山時に対策を怠らないよう呼びかけている。
長野県軽井沢町で熊の追い払いなどを行うNPO法人ピッキオの田中純平さんは、
「普通なら熊が人間を避ける。鈴をつけるなどして自分の存在を知らせることが有効」と語った。

一方、紀伊半島や四国など五つの地域ではツキノワグマが減少傾向にあり、環境省のレッドリストで地域的に絶滅する恐れがありと言われている。特に四国のツキノワグマの生息数は10頭~数10頭と推測され、世界自然保護基金(WWF)ジャパンなどが保護のために正確な生息数調査を行っている最中だ。
島根県では熊の食害対策で、柿園が自治体などに連携して、熊が近づけない防除柵の設置などに取り組んでいる。
WWFジャパンの担当者は、
「人口減少や高齢化で、里山の田畑の管理が行き届かなくなり、山から下りてきた熊との遭遇が増えている」と指摘して、互いの領域を侵さないような共存策を考えたいと話している。

img006北海道に住む国内最大の陸生動物・ヒグマの動きも活発化している。
北海道庁によると、2006年度に511件だった目撃数は、2015年度に1,200件に膨らんだ。毎年のように人が襲われ、1989年~2015年の間に14人が死亡、20人が負傷した。
山の幸を求めて山奥に入った際に遭遇することが多く、事故の38%が山菜狩りの盛んな4~5月に、35%はキノコ狩りのシーズンである9~10月に集中している。
北海道庁は昨年12月、ヒグマの2012年度の推定生息数を10,600頭と発表したが、これは1990年度と比較して約1.8倍の増加になり、近年では市街地や幹線道路でも多々その姿を目撃するという。
多数のヒグマが生息する知床半島で自然ガイドをしている若月識さんは、昨年7月に地元の国道で人の乗った乗用車にヒグマがのしかかり、車体を揺らすというのを目撃した。体長1.6mの母熊で、付近には2頭の小熊がいたとのことだ。その後、乗用車が走り出すと3頭は森の中へと消えた。
15年間のガイド生活で始めて見る光景だったようだが、一部終始を目の当たりにした若月さんによると、乗用車の方からヒグマに近付いたように見えたという。
若月さんは、
「共存していく為に、人間はヒグマにプレッシャーを与える距離まで近付いてはならない」と語った。

6月にもなると山々の新緑は更に色濃くなり、開花する植物も一気に増えていく。
そう、待ちに待った夏山シーズンの到来なのだ。
しかし前述にある通り、山奥へ分け入ることは野生動植物の領域に足を踏み入れることであり、縄張りへの侵犯とも捉えることができる。
これを念頭に置き、周到な準備と真摯な気持ちをもって“おじゃま”しようではないか。

※以上は、5月30日読売新聞の記事より抜粋し記述した。

若い頃・デニーズ時代 18

「クソ暑いから大変だな」

早番のスノコ磨きは、夏の午後、最も気温が上がる時間帯に行なうことが殆どだ。
はた目以上に力を使う作業なので、炎天下では大汗が吹き出し、しんどいことこの上ない。薄い半袖シャツは瞬く間に透けてピッタリと体に吸着してしまう。

「寮の冷蔵庫にぎんぎんに冷えたビールが入ってるから、この後、ぐびっとやるさ」
「そりゃいい」

裏の大樹から発する壮大なセミ時雨が酷暑を増幅させた。

「ところで村尾、この頃元気がないってみんな言ってるぞ」
「そうかい」
「俺もそう感じる」

デッキブラシを持つ手を休めると、急に真顔になり、

「今の仕事、選択ミスのような気がしてさ、、、ついこの間、何気に西條さんへ話してみたんだ」
「そうなんだ」
「全然ゆとりないし、いつまで続くかって思うし。それと下地は気の毒だったけど、あいつ、あの怪我でやめたじゃんか、、、なんだかそれが羨ましく感じるんだよ」

この後、村尾は淡々と話し始めた。
こなすだけのシフトと長時間労働。まったく予定の立たない休日。考えていたものと異なる仕事内容。そして何よりもっと落ち着いて将来を考えたいこと等、止めどなく出てきたのである。
話の内容に頷ける部分は多々あった。しかし、節々には既に退職の決意が込められた言い回しが感じられ、終いにはこっちまで暗澹な気分に堕ちいていくのであった。
このやり取りから二週間後。村尾は退職願いを提出し、実家のある名古屋へと帰っていった。
これで太田窪のキッチンメンバーは西條、小田、KH西、そして私の四名になってしまったが、幸か不幸か相変わらず入客状態は良かったので、ひとりひとりの負担はピークに近づき、いつしかキッチンからの笑い声は消え去った。
そしてとどめは予定通り行われた小田さんの異動。
これを機に休日を取ることもままならない最悪な状況へと進んでいったのである。

「木代さん、いいから上がりなよ!」

早番固定となっていた私は、西さんとタッグを組んで太田窪のモーニングとランチを何とか切り盛りしていた。
一方、基本的にディナータイムは西條さん一人の戦いが続いていた。適時井上UMや神谷UMITがフォローに入るものの、週末になれば大挙をなす来店客があり、落ち着き始める21時頃まではキッチンから離れることは到底不可能になる。よって土日は6時出勤21時退出の15時間拘束が当たり前のようになっていた。もちろん遅番の西條さんもランチのことを考慮して出勤は昼前だったから、彼も13時間以上の労働を強いられていたわけだ。
但、忙しい時は辛いとか大変だとか感じている余裕すらなく、ひたすらディッシュアップし続けるだけだったが、本当にしんどいと思えたのはウィークデーに上がる時だった。
平日でも団体客が入ることはちょくちょくあり、そうなれば一人でキッチンを動かすのは容易ではない。遅くなったディッシュアップでクレームが出ることも屡々なのだ。
よって、上がる際は毎度後ろ髪を引かれる思いだったが、平日までもディナーに付き合っていたらそれこそ体がもたなくなり、自滅することは必至。西條さんを一人残して帰るしかなかった。
体力的、そして精神的な疲労が蓄積していったのだろう、いつしか仕事の楽しさは完全に消え失せていた。

「木代さんまでもってこと、ないよね」
「どうかな」

一日一回、西峰 かおるは心配そうな顔をして聞いてきた。
ちょっと前までだったら、“何言ってんの”の一言で終わったところだが、この頃では問いかけられるたびに考え込む自分がいた。
切羽詰まっていることは自覚していたし、このままでは駄目になるとも感じていたから、ここは思い切って西條さんへ相談することにした。
入社して半年でこんな状況下に置かれるとは夢にも思わなかったし、一人で判断するには余りにも社会生活の経験が少なかった。

「俺はさ、好きなんだよね、この仕事」

私の話を一通り聞いた後、西條さんの開口一番だ。

「木代さんはどうなの? 今の仕事」
「さっきも言いましたけど、こんな環境じゃ好きなものも好きになれないですね」
「そうだよね、しんど過ぎるかもしれない」
「西條さんは辛くないですか?」
「この状況がいつまでも続くとは思ってないよ。このエリアは今、山なんだと思う。俺ね、この店を軌道へ乗せたらマネージャー職の試験を受けるんだ」
「推薦もらったんですね!おめでとうございます」
「ははっ、ありがとう。それでね、受かったらUMITやって、そしていつかUMになった時、このままやるかどうかを考えるつもりなんだ。とにかくそこまではやるつもりさ」
「目標ができてるんですね」

それまでうつむき加減だった西條さんは、徐に顔を上げ、

「まっ、話は分かった。何れにしてもこの後マネージャーに相談しなきゃ」
「分かりました。そうします」

ギョロ目がさらにギョロ目になった井上UM。
怒りたいのか、呆れたいのか、さもなければ叫びたいのか。何れともとれる微妙な表情が数秒続いた。

「どいつもこいつも、、、」
「すみません」
「RMに連絡して来てもらうから、思いっきり話しなよ」
「RMですか、、、分かりました」

RMとはリージョナルマネージャーの略で、広い範囲を受け持つエリアマネージャーのことだ。営業本部長直下の立ち位置であり、その下には数名のDM(ディストリクトマネージャー)が配置されていた。
つまり平社員の私から見れば、組織の大物であって、普段は個別に話をすることもままならない。
これはあくまでも推測だが、普通に考えて、一社員の離職相談にRMが駆り出されることは考えづらい。ということはこの埼玉エリアに予測を超える離職騒動が勃発しているのではなかろうか?!
今、太田窪店に起きている惨状は、恐らく近隣の新店でも同様なのだ。
ここは井上UMのいうとおり、真摯な気持ちを包み隠さず思いっきり吐き出した方がよさそうだ。
理解されなければ辞めちまえばいい!

写真好きな中年男の独り言