編笠山

 八月十九日(金)。曇りや雨ばかりが続いていた八ヶ岳に、やっと快晴の予報が出た。このチャンスを逃したらもう夏には登れないだろうと、初となる編笠山を目指した。
 編笠山は八ヶ岳山塊の最南端にそびえる、標高2,524mのきれいな円錐状の山で、山梨百名山にも選定されている。中央道を西へ向かって甲府盆地まで至ると、正面右手に八ヶ岳が姿を現すが、その連なりの一番左に位置する山。頂上は三六〇度の眺望が開け、特に富士山、甲府盆地、南アルプスの眺めは息をのむ。後ろに振り向けば、八ヶ岳の山々が見渡せ、まさに“展望の頂上”と称して過言でない。

 自宅を四時半に出発。途中双葉SAで食事をとり、登山口がある観音平駐車場へ到着したのは七時半ちょっと前。びっくりしたのは平日にもかかわらず駐車場が満杯。仕方がないのでUターンの後、少し戻って路肩に止めた。出発準備をしていると次から次へと車が上ってきて、瞬く間に私の前に五台が並んだ。
 ほぼ同時に停めた直前の車から、男子二名、女子一名の、恐らく大学生と思しき若い子達が降りてきて、いきなりおしゃべりの花が咲きだす。彼らのいで立ちからすると、登山よりややトレランに近いもので、女の子はショートパンツに生足という軽快ではあるが、やや危なっかしいスタイル。今日のルートはそのほとんどが岩場なのだ。
「お尋ねしますが、登山口って、いけば分かりますかね?」
 彼らの印象から、ここは初めてじゃなさそうだったので訊いてみた。
「すぐにわかります。僕一度登ったことがあるんで」
 とても快活で感じのいい子たちだ。
「それじゃお先に」
「気をつけて」
 
 彼の言ったとおり、登山口はすぐに見つかった。慌てずいつものゆっくりペースで歩きはじめる。最初は樹林帯の中のフラットな道がまっすぐ続く。観音平ですでに標高は1,560mあるので、長袖シャツの上に重ねて半袖Tシャツだけでは肌寒かったが、山道にごろごろと大小の岩が目立ち始めると、合わせるように傾斜はきつくなり、気が付けば半袖Tシャツまで汗が染み出ていた。この岩の道は八ヶ岳独特のものだが、如何せん歩き辛い。大きなステップが多く、奥多摩のハイキングコースに慣れ切った太腿が、歩き出して三十分も経たないのに早くも悲鳴を上げだす。
 その時、後方から足音が聞こえたので、振り返ってみると、さっきの若者三人組が追い付いてきたのだ。
「どうも」
「お先に!」
 それにしても歩くペースが半端じゃない。しかもずっとおしゃべりしているのに、息切れしている様子もない。くそっ!俺だってと勢いをつけて歩きはじめるが、見る見るうちに離されていき、数分でその後ろ姿は見えなくなった。因みに私の歩行スピードは、昭文社の『山と高原地図』に記載されているコースタイムを基準にすると、大凡1.0~1.1ほど。これに対し、彼らのスピードは恐らく0.5か遅くとも0.6ほどのハイペースなのだ。言い訳がましいが、私も10年前までは0.8~0.9レベルで歩き回っていた。

 急登の始まるスタート地点である、押手川で休憩。年配男性が一人で倒木に腰掛けていたので声をかけてみると、どうやら話し好き。今は定年退職して完全リタイヤの身だが、住まいが甲府なので、しょっちゅう山を歩いているという。先日も仲間三人で北アルプスを二泊三日で楽しんだそうだ。
「パワフルですね、見習わなきゃ」
「体力を維持するのに、一時間半のウォーキングを日課にしてますよ」
 いやはや脱帽。やはり普段からそのくらいやってないと、息は切れるし、膝はガクガクしてくるのだろう。楽しいはずの山歩きが苦行になったらつまらない。
「そこ、左へ進んでくださいね。右に行っちゃうと青年小屋だから」
「ご丁寧にありがとうございます」

 いよいよ編笠山名物“急登”の始まり始まり。
 歩き進めると徐々に傾斜がきつくなっていくのがよく分かる。山道を埋め尽くすほどに岩が多くなっていき、一越え二越えするにもどっこいしょっと難儀。しばらく行くと、年配夫婦らしき二人に追いついた。歳は私と同じくらいか、ちょっと上かもしれない。奥さんのペースに合わせてご主人が追尾する感じだが、このお尻の大きな奥さんが頑張っている。胸の高さまである大岩を乗り越えようとする際、足をかけるポイントが見つからず四苦八苦が始まると、ご主人が両手で彼女のお尻を下からググっと持ち上げクリアする。それでも無理やりご主人につき合ってるのではないと思う。山が好きというか、山にトライするムードが全身から沸き立っているのだ。奥さんがこれだけ頑張っているのだから、私も負けてはいられない!と、気合を入れなおした。ただ、地図のコースタイムを見れば、押手川から頂上まで一時間半と記してあるので、まだ一時間を残しているわけだ。この急登にそんな長い時間張り付いていなければと思うと、やはり萎えてくる。

 “ん?なんだ?”
 右の足の裏が攣りだした。左もちょっとおかしい。これまでに味わったことのない症状だ。長い急登に驚いたのか、はたまた老化か……
 長めの立ち休みをとって、足の裏をストレッチ。若干よくはなったが、この先が不安である。この頃嫌になるのが、全ての物理的、精神的な引っ掛かりを、老化、加齢等々という言葉で、いとも簡単に括ってしまうことが多くなったこと。
 しょうがないと言ってしまえばそれまでなので、物事に対してはなるべく前向きに考えるようにしているが、経年に連れ、体力の衰えをはっきり自覚でき、悲しくなる。
 おっしゃぁ!と再度気合を入れ、岩をつかむ。

 ふーふーはーはーしながらも、上方へ目をやれば着実に青空の面積が大きくなっていき、もうひと踏ん張りで頂上だとラストスパートをかける。森林限界を超え、眼前に大きな岩がごろごろと見えてきた。到着だ。ただ、頂上は岩だらけなので、全く気が抜けない。油断をすれば足をつっかけ、すっころぶこと間違いなし。
 それにしても素晴らしい眺めだ。よく聞くセリフ、“それまでの辛さやきつさなど吹っ飛んでしまう!”は真実。頂上にいる十数人のハイカー達も皆同じ思いに違いない。ただ、三六〇度の視界が開けているということは、遮蔽物が全くないことを示し、吹く風はダイレクトに体に当たり、汗が冷えて一気に寒さが襲ってきた。それでもウィンドブレーカーを取り出すことも忘れて、SONY・RXのシャッターを切りまくったのは、この上ない景観のせいだ。
「きゃっ!!」
 突然の叫びに振り返ると、年配女性がひっくり返っている。ケガもなさそうで良かったが、この頂上は本当に油断大敵。気をつけなければ。

 撮影が大方完了したので、名残惜しいが下山することに。
 先ずは青年小屋まで下り、そこから編笠山の巻き道を使って観音平を目指す。先ずは頂上からの急坂をひたすら下っていくのだが、昨日までの雨で道は滑りやすくなっていて結構神経を使う。しかも小屋へ行きつくにはめちゃくちゃ歩き辛い岩場を超えていかなければならず、急登で疲れ果てた両脚には厳しいセクションだ。
 喘ぎながら小屋の前庭へ到着すると、多くのハイカーが休憩中。空いていた平らな岩を陣取って、栄養と水分の補給をする。途中、小淵沢のセブンでおにぎりを買ったのだが、疲れ果てたせいか、重くて喉を通り辛かったので、ドーナッツ、チョコレート、そしてカロリーメイトを水で流し込んだ。三十分ほど休んだろうか。だいぶ元気も戻ってきたので、出発することに。ここからは一本道だ。
 
 巻き道の傾斜は往路のそれと較べれば小さいが、ここも岩だらけに変わりなく、足元の悪い大きなステップが連続して、瞬く間に体力を奪っていく。後方から歩きの速い人たちが追い付いてくると、すぐに道を譲った。プレッシャーをかけられて転んだら、怪我は免れない。
 それにしても景観に変化のない樹林帯をひたすら下っていくのは、精神的にしんどい。気が付けば立ち休みの回数は増えていき、それと同時に水の消費が激しくなる。高所なので奥多摩のような熱波はないが、トータルで七時間もきついルートを歩き続ければ、体力的な消耗は大きく、水分消費も想像以上に増える。まっ、これもいい経験だ。

 ヘロヘロになりながらも無事に駐車場まで降りてこられた。重い足取りで路肩に駐車したPOLOへたどり着くと、あの若者三人組が登山を終え、今まさに着替えの真っ最中。あれだけ足の速い彼らのことだから、恐らく権現岳まで回ってきたのだろう。
「お疲れさん!」
「あっ、どうも、お疲れさんです」
「回ってきたね、権現岳」
「はい、行ってきました」
「さすがだよ。僕は編笠山で限界」

 正直なところ歯ごたえのある山行だったが、やはり八ヶ岳は馴染みの奥多摩とはワンランク上回る雄大さが魅力であり、久々に登山の妙味を感じる一日だった。
 ただ、己の貧弱な体力が悲しいほど良くわかり、少なからずへこんでしまった。若者三人組は端っから比較の対象にはならないが、同年代と思しき人達にもやけに元気な歩きをする人がいて、しかも一人や二人ではない。山歩きの頻度を高めれば解決できるかもしれないが、仕事を持っているうちはこれも難しい。
 さっ、次はどこへ登ろうか。

大汗!!白岩の滝コース

 七月二十七日(水)。おおよそ一か月ぶりに山を歩いた。
 気温が高く、終始汗が噴き出るしんどい山行だったが、やはり森の中は別格の居心地だ。馴染みの麻生山へはいつも白岩の滝スタートなので、上り始めはずっと渓流沿いだから涼しくていいが、麻生平の光が見え始める頃になると、瞬く間に熱気が襲ってくる。ポリエステル100%のKappaのポロシャツは、既に乾いた部分が全くない汗みどろ状態。絞れば間違いなくジャーっと滝のようになる。いくら速乾性とはいえ、これだけ汗を吸い込めば、山にいる間に乾くことなんてありえない。ただ、百八十度の視界が広がる麻生平へ出ると、山々を舐めまわす風が体を包み、スーッと冷えていき気持ちがいい。

 空にはいかにも夏らしい雲が広がって、これを眺められただけでも価値ありと思った。そもそも夏の空っていうのはアートなのだ。入道雲をはじめ、うごめく生き物のようだ。夕方になればそれに茜色が加わり、大空はまさにキャンパスと化す。
 麻生山から日の出山に向かう尾根を歩いていると、辺りが急に薄暗くなりはじめた。やばいと思いつつ歩を進めていると、案の定ポツリポツリと落ちてきた。雲の低さと黒さから、夕立並みの雨になるのではと、急いでカッパを取り出すと、殆ど同時に大粒の雨が森を騒めかすほどに振り落ちてきた。一瞬視界が薄れる激しさだったので、山道から逸れ、枝葉が密に折り重なっている場所を探して、暫しやり過ごすことにした。すでに北の空には明るさが戻ってきている。ほんの十分ほどで振りはだいぶ和らいできたので、水たまりを避けながらふたたび歩き出した。

 日の出山分岐まで来ると完全に雨は上がり、新たな青空が広がった。分岐にあるいつものベンチに腰掛け、休憩である。それにしても静かだ。ここまで会った人といえば、スタート直後に下山してきた年杯男性一人だけ。ところがさすがに人気の日の出山だけあって、おにぎりにかじりついていると、二組の親子連れが頂上方面から降りてきた。

「こんにちは。雨、やられませんでした」
「おかげさんで、その時は頂上の東屋で雨宿りですよ」
 どうりで、涼しい顔をしているわけだ。親子連れはそれぞれ別組で、最初に降りてきたのは、お父さんと中学生ほどの娘さん。その後の組がお父さんと小学校中学年ほどの男の子だ。夏休みにお父さんと一緒に山歩きなんて、仲の良さがうかがえる。ふとうちの娘を考えた。虫が大の苦手で、疲れるのは嫌と、女房と全く同じ性分。山へ誘ったことはないが、どうころんでも無理っぽい。あと十年たったら、ラストチャンスで孫娘を誘ってみるか。その時まで山へ入れるように、体を鍛えておかないと。まじめに考えると、こりゃ大変だぁ!!

 白岩の滝コースは、休憩と途中の写真撮りを含めても、四時間あれば回れるハイキングレベルだが、渓流あり、尾根歩きありと、そこそこの変化も楽しめる。体への負担が小さいから、ちょっとした運動不足の解消手段としても刈寄山と並んでおすすめだ。ところが今回、慢性化している膝痛は全く起こらなかったのに、右の股関節に嫌な痛みが出始めた。あそこが治れば次はここと、これも加齢の宿命なのだろうが、ここは真摯に受け止めて、少しでも悪化しないように対策を講じる必要がありそうだ。

元気な方たち・刈寄山

 六月二十三日(木)。休日にやっと晴れ間が訪れた。それも“大晴れ間”だ。午後には気温がグッと上がって35℃に達するという。ただ、午前中は雲が垂れ込め、猛暑など予想もできない過ごしやすい空気感。こうなると森の緑が恋しくなる。時刻を確かめると既に七時を回っていたので、こんな時は馴染みのマイトレーニングジムである刈寄山が一番と、POLOを走らせた。

 睦橋通りへ入るころには、気温も28℃まで上昇、雲の合間から青空も出始め、朝の天気予報が現実味を帯びてきた。それにしても数日前までは梅雨冷さえ感じる毎日だったのに、この大きな変化はやはり体に堪えそうだ。数年前の八月、大楢峠経由で御岳山へ登った際、びっくりするほどの大汗をかいて、下山までに総量4L近くの水を必要としたときのような状況になったら、今の自分が果たして歩き続けられるかどうかは微妙なところだ。
 今日のいで立ちはショートパンツと速乾Tシャツ。素足は虫刺されや恐ろしいマダニの脅威、そして転倒時の怪我等々と、リスクも大きいが、猛暑に対抗するにはこれが一番と判断。遥拝殿からは軽快な足取りでスタートを切れた。

 先回の刈寄山は冬枯れの残る二月上旬だったので、先ずは山中の様変わりにびっくり。緑はより濃くなり、行先を阻むようにこれでもかと草木が伸びだしている。この時点でショートパンツは失敗だったと後悔。脛や腿にその草木が触れて、痛いやら痒いやら。しかも山道のいたるところに蜘蛛の巣が張っていて、顔、腕、脚にくっつき不快この上ない。まるで昨年夏の臼杵山のようだ。やはり山歩きには長ズボンとアームガードは必須。それでも花や小動物が目を楽しませてくれ、生命の季節が到来したことがよくわかる。
 
 今熊神社を過ぎるころからTシャツは土砂降りにでもあったかのようにぐっしょぐしょの汗まみれ。気温も気温だが、それ以上に湿度が高く、予想以上に体力を奪っていく。慣れた山道だし、ゆっくり歩いても往復四時間弱の行程なので不安はないが、やはり実年齢は絶えず念頭に置かねばと痛感。ちびりちびりと頻繁な水分補給を行い、脱水症状にならぬよう気をつける。
 今年からペットボトルの水は買わずに、550ccと1000ccのリバーズのボトルを利用しているが、今回のように35℃に近づく猛暑日には、少なくともあと1000ccほどは必要になってくると思う。

 スタートから人影なしの静かな山行だったが、頂上へ到着すると一組の年配夫婦が休憩中だった。
「こんにちは」
「こんにちは。いきなりすみませんが、ライターお持ちですか?」
「ありますよ。どうぞ」
 どうやらストーブの点火部分が壊れているようだ。
「助かりました。これで暖かいものが食べられます。ありがとうございました」
 このやりとりで会話の口火が切れた。夫婦共々山好きで、特に奥さんは同好会に所属していて、多い時は月に五回も登るという。ご主人はキャリアが長く、今でも夏はアルプスを歩くが、メインの遊び方は“藪漕ぎ”。道なき道を突き進むことが大好きで、ザックの中にはロープも忍ばせていた。そんなことで、山地図に載ってないルートにはめっぽう明るく、今熊神社へ戻るルート上から、金剛の滝へ至る獣道がある等々、鼻息の荒い話が飛び出した。

 ご主人、御年七十六歳、近々喜寿を迎えるという。奥様は恐らく一回りほど下ではなかろうか。元気で仲の良いご夫婦である。
 それにしても大したものだ。八十間近というのに、このパワーはどこから湧き出してくるのだろう。リタイヤしてしょっちゅう山へ入っているとは言っても、凄いことに変わりはない。ふたこと目には「もう棺桶に片足突っ込んでますからね~」を連発するが、その表情からは結構な余裕をうかがえた。