若い頃・デニーズ時代 31

依然としてデニーズの出店ペースは落ちなかった。
埼玉や千葉ほどではなかったが、東京地区にも新店オープンの波は押し寄せ、メールバッグが届けば、何はともあれファスナーを開き、貪るように人事異動と新店情報を探したものだ。

「おっ、出店予定に八王子があるぞ」

橋田UMが見入っている。横顔が真剣だ。

「しかもインストアだ」

インストアとは、独立店舗ではなく、テナントとしてビルの一階等に入るケースである。
デニーズの記念すべき1号店・上大岡店は、このインストアタイプだ。

「それじゃ、街中ですね」
「この頃じゃ八王子も賑やかになったから、結構入るかもな」
「3億行っちゃいますかね」
「そこまではどうだろう」

新店情報は話のネタとして一級品である。自社の躍進ぶりには心も躍るし、マネージャーやリードクックの人事に至っては、他人ごとではない緊迫感が伝わり、大いに盛り上がる。しかし、同時にデニーズという会社には安住の場所はなく、激しい出店ペースに伴う問答無用の人事異動に、身も心も委ねるしかないという厳しい現実も露わになる。

「なあ、木代」
「はい?」
「このAMに昇格した“峰岸”ってやつ、知ってる?」
「店はどこですか」
「新所沢だ」
「もしかしたら、そいつ、私の同期かもしれません」

これには驚いた。あの峰岸だとしたら、恐らく同期ではAM一番乗りだろう。してやられた感じだが、入社1年半で早くも我々の時代が到来したことが実感できて、寧ろ無性にワクワクする。
確か峰岸はUMITになるもの早かったし、一見暗そうなやつだが、上層部からの受けは良いのだろう。

「だけど君にもそろそろAMの話が来るんじゃないの」
「本当ですか!」
「人事の本田さんが言っていたけど、今の出店ペースに沿うように、早急な新店UM候補のリストアップが行われているそうだ」
「それは既存のUMから選ばれるのですね」
「そして既存店のUMが新店へ駆り出されれば、自ずとUMの席が一つ空く。そこを順次AMが昇格して埋めていくんだよ」

秋にオープン予定の八王子店。仮にここのUMに橋田さんが抜擢されれば田無店のUM席が空く。この時点でAMへ昇格していれば、ちゃっかりと私が後釜に座ることも有り得るのだ。
店の成功不成功、すべてに責任を負わなければならないUM。やりがいは大いに感じるところだが、反面、オペレーションへの不安も同様に大きい。

「だからね、同時に既存店UM候補者のリストアップも行っているんだ」
「なるほど」
「そう言えば、、、」
「なんですか?」
「話は全然変わるけど、噂によれば、上西さん、どうやら辞めたみたいだ」
「辞めたってことは、退職ですか」
「そう」

<デニーズ田無店 = 上西帝国>
当時を知る者だったら、誰に聞いてもこう答えが返ってくるだろう。
マニュアルで管理されたデニーズレストランの中にあって、あれだけ自由に立ち振る舞っていたUMは極めて珍しい。とにかく上西UMは、全くと言っていい程仕事をしない。普段はMDを相手におしゃべりをしているか、漫画を読んでいるか、はたまた外出しているかで、ランチやディナーのピークですらフロントに出てこない。たまに出てきたかと思えば、すぐに踵を返し、クリーンキャップを被ってキッチンへ入って、センターの真似事をしつつライスを盛る。
いてもいなくても全く同じ。いや、いない方が効率よく回った。
キッチンは豊田LCが2名の新卒クックとKH達を上手に使って、大きな問題も起こさずそつなく管理していたし、フロントは橋田さんと私とで、一日並びに一週間の完璧なマンニングテーブルを作り上げていたので、正直なところ上西UMが居なくても十二分な店舗オペレーションは可能だった。
よってそれをいいことに、自由奔放な毎日を送っていたわけだ。
良し悪しは別にして、あのやり方は自分で作り上げた田無店だから許された。他の店へ移動してもそのままだったら、間違いなく総スカンである。

この頃、常に感ずることがあった。
デニーズジャパンは1974年にイトーヨーカ堂が新規事業として創設した組織であるが、当然ながら小売業であるイトーヨーカ堂には、コックも含めてレストラン業務の経験者はいなかった。しかし、創設時期のスタッフの面々には、飲食業経験者やそれに付随するような仕事を行っていた人達が多くいて、アメリカから仕入れたマニュアルはあったものの、先ずは経験者を採用して実際に動いてもらい、一日も早く開店~営業という流れを作らねばならないという切羽詰まった状況が容易に読み取れた。
上西さんもその採用された一人ではないだろうか。彼らの中には、きちっとした社風の中で育まれた組織経験者は少なく、寧ろ水商売丸出しが結構いて、異色を放っていた。
彼らのことを云々言いたくはないが、幹部社員である某DM。まんまヤクザのようなテカリのあるスーツを着て店回りをし、

「かわいいMDにシカトされちゃったよ」

なんて、チンピラ口調も飛び出すあり様なのだ。
こんな人が将来取締役になるのだろうかと想像したときは、正直なところ気が滅入った。
しかし、この様な思いを持っている者は決して少なくなかった。なぜなら、誰も言葉には出さなかったが、いつしか私を含めるプロパー(定期入社組)とその他との間で、見えない壁が作り出されていたからだ。

眼科検診

年に一度、武蔵野市から送られてくる“眼科検診”のお知らせ。
最寄りの指定病院で、視力、眼圧、眼底等々の検査を行うものだが、白内障や緑内障のような眼球固有の問題だけではなく、動脈硬化の進行状況等も明らかになるという、中高年者にとってはありがたき内容。還暦を過ぎた我が身にはもはや必須あり、おまけに実費500円は嬉しいところだ。

目はもともと悪い方ではなかった。若い頃は両眼共1.5の視力があり、ずいぶんと自慢にしていたものだ。しかし加齢には逆らえず、近年では老眼が急速に悪化して、度数2.0の老眼鏡無くしては、新聞も読めない状況となっている。それに右目だけ視力低下が進むというのも気になるところ。

受診した病院は三鷹駅北口の「武蔵野眼科」。この病院は何かと移転を繰り返していて、最初に利用した時は三鷹中央通りと五日市街道の交差点近くにあったのだが、気が付くと井の頭通り沿いへと移っていて、更に今は三鷹駅北口とむらさき橋のちょうど真ん中に位置する、メディパーク中町というビルの4階に入っている。
近所には武蔵野眼科を含めていくつかの眼科病院があるが、私がここを選んだのには訳がある。
もう十数年も前のことだが、ゴロゴロとした異物感がなかなか取れず、目薬を差しても流水で洗っても変わることがないので、もはや病院しかないと、自宅から一番近くにあった「みたか○○眼科」へと駆け込んだ。診てくれたのは小太りで厚化粧の女医だった。

「よく調べたのですが、何も異常はないですね」
「えっ、じゃ、なんでしょう、このゴロゴロ感は」
「とりあえず点眼薬を出しておきますので、様子を見てください」

しっくりこない。これだけ気になる異物感があるというのに、何もないとは考えにくい。案の定、処方された点眼薬を一日使ってみたが、何も変わることはなかった。
意を決し、翌日には別の眼科、つまり三鷹中央通りにあった武蔵野眼科へ相談兼がね訪れてみた。
経緯を説明するとさそっく診察が始まった。こちらも女医さんである。

「極微細ですが、錆が二か所付着していますね」
「錆、ですか?」
「埃の中に微細な鉄粉が混ざることがあるのですが、厄介なことにこれが目に付着して錆びてしまうと、水で流しても取れなくなるのです」
「どうすれば?」
「削り取ります」

これには驚いた。目を削るというのだ。

「麻酔をかけて簡単な手術を行います。お時間大丈夫ですか」

既にやる気満々である。

「お、お願いします…」

点眼麻酔をかけ、あとは強い光の中で不安を覚えることなく処置は終了した。あっけなさに安堵を覚えたが、本来の辛さは麻酔が切れた後に襲いかかってきたのである。
何と術前のゴロゴロ感が誇張なしで10倍に膨れ上がり、涙は出っぱなしになった。正直なところ、寝ることもままならない状況になってしまったのだ。
5個ほど処方された“ヒアレイン”と称する点眼薬だが、これを3分毎に点眼してくれという。仮にゴロゴロ感がなくとも、言われたとおりにさしていれば、眠る暇はない。
ちなみにヒアレインは角膜再生効果があるポピュラーな点眼薬。錆を削り取られた傷を一刻でも早く治すにはさし続けるしかないと、辛い夜にトライしたのであった。
この一件以来、目に関しては必ず武蔵野眼科を利用している。

視力0.8
1
眼圧11 mmHg
10 mmHg
SCHEIE(H)
SCHEIE(S)

さて、視力検査、眼圧検査と続き、その後は検査用の瞳孔を開ける目薬をさして、眼底検査を行った。
結果は表のとおり。Scheie分類がH所見並びにS所見も“1度”と出ており、案の定、年齢+α程度の動脈硬化が進んでいるようだ。以前、健康診断のオプションで、頸動脈のエコー検査を行ったことがあるが、その際も粥状硬化を指摘され、この辺が己の健康管理の要になるのだろうと、前々からの自覚はあった。

若い頃・デニーズ時代 30

デニーズはタクシードライバーをはじめとする多くの個人常連客から支持を受けていた。その理由はカウンター席にある。
繁忙時、一人で四人掛けテーブルを占拠するのは、あまり居心地の良いものではない。その点カウンターは一人専用だから、どのような場合でも落ち着いて食事を楽しむことができる。カウンター席はデニーズの全店舗タイプで採用されており、他社にはない個性であり、また強みでもあるのだ。
デニーズのフロアが開放的に感じるのも、このカウンターが大きく影響している。

「あら、おはようございます」
「いつものね」
「はいかしこまりました」

そしてカウンターに腰掛けると、目の前にコーヒーメーカーやウォーターディスペンサーが設置されているので、そこを中心に動くMDに声を掛けやすい。更に田無店のような106タイプになると、オープンキッチンだから、ディッシュアップカウンターを挟んで、クックとMDのやり取りを間近で見ることができ、一人でも退屈することがない。

「いいかい三池さん。覚えることはたくさんあるけど、先ずはグリーティングだよ」
「はい」
「いらっしゃいませ、デニーズへようこそ!を元気に、ね♪」

新人MDの教育第一歩は“グリーティング”。
“いらいっしゃいませ”は簡単に発声できても、“デニーズへようこそ”はなかなか声が出ないもの。しかし三池洋子はよく順応した。笑顔にやや硬さがあったが、何を教えても覚えが良く、動きもキビキビしているので、近い将来、相当な戦力になるのは確かだろう。

「ずいぶんと慣れてきたね」
「そうですか」
「それじゃ、今日は食器の持ち方を練習しようか」

当時のデニーズでは、フロント業務に“トレイ”を使わなかった。ホテルも含め、大概の飲食店はトレイを使って料理や飲み物を運ぶのだが、デニーズではなぜかこれを素手のみで行った。
よってプレートやグラスの独特な持ち方をマスターしないと、運ぶときはもちろん、バッシングにも多くの時間が掛かってしまうのだ。
一般的に二つのコーヒーを運ぶのなら、両手にひとつずつと考えるだろうが、この持ち方では歩き出すとカップが揺れてコーヒーがこぼれてしまうことがある。ところが不思議、左手に二つ持って歩くと安定感が生まれて、結構な速度で歩いてもコーヒーがこぼれることがないのだ。これは水の入ったグラスでも同様である。
ソーサーやプレートを左手に二枚持つことは基本中の基本になり、これが確実にできるようになるまでは、何度も練習を繰り返した。例えば一番大きな10インチプレートを広げて二枚持つと、それはトレイ並みの面積となり、その上に9インチや5インチを重ねていき、更にシルバーやグラスも載せてしまえば、見事トレイ代わりになるのだ。

「うわ~、重たい」
「慣れだよ慣れ。がんばって練習しよう」

上手に二枚を持つコツは、この二枚を可能な限り水平にすること。水平にしなければ、ソーサーに乗せたコーヒーが不安定になり、急に立ち止まった時などは落としてしまう危険性もある。
MDは更に慣れてくると、左手に二枚どころか三枚のプレートを持つ。この三枚持ちをしっかりと安定させる為には二枚の水平が前提になるので、やはり基本は大切だ。

「塩原さん、すごいですね~」
「どうして」
「片手にシェーク二つですよ!」

シェークやソーダフロートをサービスする際はロンググラスを使う。
高さが15㎝もあって重心が高い恐ろしく不安定なグラスなのだ。こいつを5インチプレートに載せて左手に二つ持つのは慣れたMDでも怖いもの。
我々マネージャーでさえそう感じるのだから、新人MDが感心するのも無理はない。
追いかける目線に気づいたのだろうか、シェークをテーブルへ運び終わると、塩原早紀は我々がいる3番ステーションへとやってきた。

「三池さん、どう、慣れてきたかな」
「全然だめですぅ」
「木代さ~ん、ちゃんと優しく教えてあげなきゃ♪」
「おいおい、ちゃんとやってるって」

上西UMがいたころは、よく彼に連れられ銀行入金へ出かけていた塩原早紀。誰が見たって「UM」と「MD」の関係から逸脱しているその行動は、暗黙の裡に壁を作り、他のスタッフ達と表面上は和気あいあいであっても、側面では絶えず“特別なMD”という香りを放っていた。
これは職場の雰囲気に違和感を作り出し、敏感なスタッフは士気も下がる。況してこの状況をUM自身が作り出しているのだから、本当に困り果てた。
上西UMとのその後は分からない。しかし、一時期やや元気がないようにも見えたが、ここのところは彼女本来の快活さが蘇り、機敏な働きぶりを見せている。ヤンキー臭さも心なしか減って、自然な笑顔が店のムードを上げていた。

「三池さん、これからケーキカットするから教えてあげる。いいでしょ木代さん」
「もちろん。塩原さんはケーキカットが上手だからね」
「ありがとうございます。お願いします」

どうやらフレッシュな戦力が一人、定着しそうである。
こうして店は日々新陳代謝を繰り返していくのだ。

写真好きな中年男の独り言