若い頃・デニーズ時代 78

荷造りもなんとか形にして、あとは引っ越し屋に託すのみ。
すっかり空っぽになった部屋を眺めていると、ちょっぴり切なくなった。無理もない。初の一人住まいだったし、短い期間だったが、沼津ではたくさんの良い思い出が作れたのだから。
地元東京の武蔵野市以外で、ずっと住んでもいいかなと一時でも思ったのはここだけだ。そんな気持ちになるのは子供の頃に過ごした4年間の体験と、何より漂う空気感が妙に肌に合うからだと思う。
遥か西の彼方まで続く千本浜と千本松原。賑やかな沼津港と大河・狩野川の流れ。雄大な富士山と伊豆半島の遠景。干物の香りに潮騒。そして出会えた多くの温かい人々。
何もかにも心に残る。

身の回り品だけをセリカXXに積み込み、私と麻美は沼津を後にした。

「どうなるかね」
「頑張るしかないさ」

故郷を離れ、未知の土地での生活を考えれば至極当たり前のことだが、やはり心なし麻美も元気がない。

東名高速は順調に流れた。西宮の新居までは沼津から大凡400km。休憩をしっかり取っても6時間あれば辿り着けるだろう。
名古屋を通過し、道はやがて名神高速へ。少々疲れも出てきたので、養老SAで休憩することにした。車を降りて周囲を見回すと、やはり関東系のナンバーはぐっと少なくなり、遠い地へ近付きつつあることを実感する。

「あれ、どこも屋根が黒いね」

そろそろ京都というあたりまで来た時だ。麻美の何気ないひとことに、左方へ目を走らせると、なるほど、見渡す限り殆どの建物が黒っぽい瓦屋根になっている。古都へ近づきつつあることが実感できる一瞬だ。西宮から京都は近いので、修学旅行以来となる旅を楽しめれば最高だ。

「この地図、しっかり見てて」
「わかった」

長かった高速道路も終わりに近づいてきた。インターを降りてからマンションまでの道順は何度も地図を見て確認していたが、なにせ未知の土地だから不安はある。
その新居、実はどの様な交通手段を使っても非常に便利なところに位置していた。
もうすぐ降りる西宮ICからだと距離にして3km、10分はかからない。電車だったら徒歩2分で阪神・武庫川駅がある。大阪空港を使うとなれば171号線を15km走れば空港駐車場に入れられる。

「とにかく国道2号線の北側なんだよね」

すぐ近くだとは分かっているが、住宅街に入ると道は急に狭くなり、目印となるような商店等々は殆ど見当たらない。

「あっ、左の先に公園が見えた」
「それだよ、それ。だぶんマンションはその突き当り右だ」

新居のすぐ近くに小さな公園があるのを地図で確認していた。
大家さんによれば、引っ越し荷物の搬入は既に終わっているとのことで、到着したらすぐに開梱してセットできるとのこと。但、手に入れなければならないのが家電。炊飯器と電子レンジ、それにアイロンは結婚のお祝いでいただいたものがあるが、冷蔵庫と洗濯機はすぐに必要だ。これも大家さんに相談すると、近所の家電販売店「ミドリ電化」を教えてくれた。

「これ片付けたらミドリ電化へ行こう。その後で夕飯だな」
「神戸屋でも行ってみる」
「いいね」

ミドリ電化は新しい職場となるデニーズ西宮中前田のすぐ近くだった。かなり大型の店舗で殆どの家電製品はここで手に入れることができそうだ。

「このくらいの大きさがあってもいいよね」

麻美が選んだ冷蔵庫は、背が高く冷凍室が大きい薄いグリーンのサンヨー製。

「家族が増えるんだからいいんじゃないの」

ずいぶんと先の話になるが、実はこの冷蔵庫、なんと30年間も使うことになったのだ。恐るべき耐久である。

神戸屋レストランはデニーズから北へ1km弱のところにあり、おまけにすかいらーくも近くに発見。こうしてみると今度の店は激戦区の真っ只中なのかもしれない。気を引き締めてかからないとしっぺ返しを食らいそうだ。

「すごい盛況ね」
「パンのレストランだけあって、なんとなく品のあるお客さんが多いな」

初めて入った神戸屋レストランは、御三家のどれとも異なるハイソな雰囲気に溢れ、これがそのまま神戸の印象に繋がりそうだ。それにしても平日のディナーだが、ほぼ満席である。
お代わりがいくらでもできるパンは、さすがに看板品。いろいろな種類を試食したがどれも頷ける味。栄喜堂のディナーロールも美味しいが、ここのパンはより嗜好性の高いもので、店のカラーが鮮明に出ている。

「パンが美味しいからついついいっぱい食べちゃったけど、これじゃ肝心の料理が入らなくなるね」
「俺も同じだよ」

おすすめメニューとのことで注文したビーフシチュー。さすがにワンランク上の味わいがある。しかもパンと一緒にいただけば、ソースの一滴も残さずに完食できるからいい。スプーンでカシャカシャやるよりよっぽどお上品。
それにしても、久しぶりの満腹である。

長距離に及ぶ引っ越し、セッティンク゛、買い物と、久々にぐったりとした我々は、早々にベッドへもぐりこみ、慣れない部屋にも関わらず、爆睡できたことは言うまでもない。
明日からは当面クンロク(9:00~18:00)で入り、先ずはDMと一緒に警察と保健所への挨拶周りだ。


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