「吉倉!彼女は?!」
「一応大事を取って救急車を呼びました」
「そうか」
吉倉からの連絡は、事故後30分ほど経ってからだったようだ。
介抱したり必要なところへ連絡したりと、こんな一件はそう簡単にさっさと終わるはずもない。
見れば警察による現場検証もそろそろ終わりそうだ。
「あの~、マネージャー」
「うん?どうした」
吉倉が道路の向こう側へ指を指している。
「あの方、どうやら若村さんのお父さんみたいです」
麻美のお母さんは、交際が始まると同時によく店へ来てくれていた。どんな相手なのかチェックの目的だっただろうが、話し好きで笑顔を絶やさない社交的な女性というのが第一印象。趣味はゴルフで、夫婦揃って沼津ゴルフクラブの平日会員だそうだ。来店するときは大概打ちっ放しの帰りで、ゴルフクラブを持っていた。いつもカウンターに座り一言二言以上の話をしていた経緯もあって、お母さんからは暗黙のうちに交際の了解をもらっていた。
反面、お父さんはこれが初対面。一気に緊張が高まる。まさかこんな状況下が初顔合わせになるとは夢にも思わなかった。
交通量の減ったリコー通りを走って横断、会釈の後、覚悟を決めて近づいていく。
「はじめまして、店長の木代と申します。お嬢様にはいつもお世話になってます」
「・・・・・・」
な、なぬ、、、
は、反応がない、、、目も合わせてこない、、、
完無視か、、、
「大事にならなくて本当に良かったです」
「・・・・・・」
くそまずい雰囲気だ、、、どーしよー、、、
「これからもよろしくお願いします」
「・・・・・・」
するとお父さん、軽く右手を上げると、踵を返して駅方面へと歩き去っていったのだ。
どうなってるの??
良くわからないが、東京から来た11歳も年上の男が、二十歳になったばかりの小娘を手玉に取っているんじゃないかと、猜疑の目で見られていることは確かだろう。話ができればもうちょっと状況は変わったと思うが、完全な一歩通行では次の一手が出し辛い。
まっ、それにしても結果的に殆ど怪我がなかったことは何よりだった。歩道に放置され、まだ撤去されていないリードを見るとぞっとする。フレームがちょうど真ん中からひしゃげて、シートの先端とハンドルの付け根がくっついているのだ。結構な衝撃がなければこのような状態にはならない。不幸中の幸いとはこのことだろう。
一安心すると酒が入っていることを思い出した。あとは吉倉に任せてアパートに引き返すことにしよう。
「お騒がせしました」
ちょうどランチピークが終わった14時頃。バツの悪そうな様子で麻美が姿を見せた。どこにも怪我らしき手当の跡がないところを見ると、本当に何もなかったようだ。
「おいおい、大丈夫かよ」
「大丈夫です」
「お父さんに怒られただろ」
「別に何も」
お母さんにはあれこれと小言をもらったらしいが、お父さんには「気をつけろ」との一言だけだったらしい。
「仕事はできそうかい」
「大丈夫だけど、一応レントゲン検査の結果が今日出るんで、それ聞いてからになります」
「シフトには恵ちゃんが入ってくれるってさ」
「頼みましたから」
我々のやり取りを遠目からも興味津々としていたランチメンバーがぞろぞろと集まってきた。
「やだー、麻美ちゃん大丈夫?!」
「すいません、お騒がせしちゃって」
「体は平気なの?!」
「おかげさんでピンピンしてます。でもスクーターが完全に壊れちゃいました」
「いいのよそんなの、マネージャーに買ってもらったらいいじゃない」
「そうよそうよ」
突如話が変な方向へ向いてきた。
「え~~~、買ってくれます」
「おいおいおい、ちょっとまってくれよ」
このあと、スクーターの件は一旦ペンディングになったが、麻美がラストに入った時だけ、森嶋または吉倉が車で自宅まで送ることになった。歩いては帰ることのできない距離があったし、そもそも防犯上よろしくない。それとさすがに地方都市とあって、バスの便もラストの30分前で終わっていたし、最寄りの停留所も自宅からかなり離れていた。
こんな騒動の一週間後、結婚を前提とした交際の許しをもらうため、意を決して麻美の実家へ訪ねていったのである。香貫山と狩野川を挟む静かな住宅街だった。
お父さんは事故の時と同様に、最初は一切口を開かなかったが、持参したウィスキーを飲むうちに、雪解けのごとく少しづつ少しづつ胸の内を顕にしてくれた。そう、麻美のお父さんは大の酒好きで、飲むと明るくなり饒舌になる。こんなに早く嫁に出すとは思わなかった、何にも用意していない、料理一つもできない等々を噛みしめるように話してくれたが、最後は“よろしく”との一言をいただけ、辛うじて新しい人生へのスタートができたのである。
「ねえねえ、スクーターの件、ほんとに?」
「いっしょになったら、俺も乗れるしな」
「でしょ♪」
てなことで、真っ赤なヤマハのJOGをプレゼントすることになったのだ。
三鷹下連雀店で1998年頃、半年ほどアルバイトをしていました。私の入った頃は半調理された冷凍品を仕上げるイメージでしたが、さらに昔のデニーズ が皆手作りだったことに驚きました。ただサービスは素晴らしく、皆プライドを持って接客をしていました。当時のイメージで既存店にたまに行くと、レイアウトも変わっていてちょっとがっかりもします。ドリンクバーも個人的には残念です。
お便りをいただきありがとうございます。
アルバイトをなさっていた三鷹下連雀店は、現在回転寿司の「銚子丸」になっていますね。実はここ、私の自宅から近いんです。
“ただサービスは素晴らしく、皆プライドを持って接客をしていました”とのこと。デニーズの発展は間違いなくパートアルバイトさんのモラルの高さが大きく影響していたと思います。
そう、私もドリンクバーはあまり好きではありません。きちっと教育されたMDが笑顔でサービスすることで、ひとつひとつのドリンクに付加価値が付くのではないでしょうか。
最後に、、、
カスタードプリンを始め、昔はローストビーフも手作りだったのです♪
これからもよろしくお願いします☆
返信いただきありがとうございます。実は木代さんの書き綴っている「若い頃・デニーズ時代」の大ファンでして、1から全部あっという間に読んでしまい、新しい記事はいつか?と楽しみに時々訪れておりました。
デニーズ でアルバイトをするきっかけは、当時私も三鷹下連雀店から歩いて5分ほどのところに住んでいて、朝のランニング後に時々朝食を食べに行っていたのですが、あまりのサービスの良さに衝撃を受けたことです。当時はホテルのレストランでバリバリと働いていましたが、街場のお店でこれほどのサービスをしていることに衝撃を受け、ホテルでの仕事の合間に働き始めました。そのホテルの仕事は今も続けておりますが、当時のデニーズ のハイレベルなサービスは未だに深く印象に残っています。ただ店長さんの過酷な勤務状況は当時も聞いたになりました。
銚子丸、三鷹から引っ越した後に一度だけ行ったことがあります。決して悪い店でありませんでしたがデニーズ を思い出して寂しく感じました。プリンやローストビーフまで手作り、素晴らしいですね。今のファミリーレストランとは真逆です。できることなら数店舗だけでも原点回帰して欲しいです。
嬉しいお言葉をありがとうございます。執筆を続ける原動力になります。
さて、当時のデニーズ三鷹下連雀店は優れたスタッフが揃っていたのでしょうね。ホテルにお勤めの長崎さんがそれほどの評価をするのですから本物だと思います。
私が在籍していた頃は、ファミレス御三家である、すかいらーく、ロイヤルホスト、そしてデニーズが三つ巴の激戦状態にあり、互いに敵地視察なども行っていました。
当時、すかいらーくに勤める知人がいて、オープンに話すことも屡々あったのですが、彼曰く、デニーズは女性の持つ優しさと明るさをうまく使っている。そして、うちやロイヤルにはない独自のアメリカンメニューが際立っているといつも言ってました。
今でもこのふたつは原点であり、強みだと考えています。
長崎さんのおっしゃる通り、数店舗のトライで構わないので、最高の笑顔と“ザ・アメリカン”たるメニューを復活して欲しいものです。