若い頃・デニーズ時代 48

「ちょっと大変かもしれないけど、高田馬場へ行ってくれ」

なに?! 高田馬場って、あの高田馬場のことか?!
高田馬場店は全国約100店舗中、売上第3位を誇る都心部の旗艦店である。
年商4億、社員数7名、パートアルバイト数100名は、これまでの実務経験にない規模であり、日々の売り上げが平均100万円を越えると聞いても悲しいかなピンとこない。
DMは簡単に言うが、“ちょっと大変”てなレベルじゃないことは確かだ。

「なぜ俺ですか?」
「そんなこといちいち聞くなよ。もう決まったことなんだから」
「ずいぶんと荒っぽいですね」
「会社とはそうゆうところなの」

相変わらずのメッセンジャーボーイぶりである。
これだけの説明だったら、わざわざ来る必要もなかろうに。心身共々デニーズに洗脳されていた頃なら、これは素晴らしく栄誉なことと涙を流して喜んでいただろう。なにしろUM経験たった1年のひよっこが、全店ベスト3に入るフラッグシップ店の長を任されるのだ。
出世コースまっしぐらとはまさにこのこと。
同期生にだって胸張って自慢できる内容だ。
ところがどっこい、会社や首脳部へ対する不信感は募るばかりで、どう考えても俺は「手駒」にしか見られていないということが最近よくわかってきた。いいように使われて、いらなくなったらポイっと捨てられるのが落ちなのだ。

「それっていつ頃ですか?」
「詳細は追って連絡する」
「もう全部決まってるんですね」
「ほんとうるさいよ、お前は」

たったこれだけのやり取りで帰ってしまった。
この後、焦点の定まらないぼーっとした感じがしばらく続いた。脱力感はやはり否めない。
やる気は失せ、頭の中をどのように整理していいものか全く見当がつかない。これがサラーマンだよと言われれば無理やり納得するしかないだろうが、皆と共にゼロから立ち上げてきた立川錦町店のことを思えば、悔しさと寂しさが込み上げてくる。仕事のやりがいとは一体何だろう。
相変わらず同期入社の離職が後を絶たない中、ここは上司に頼らず、何とか己の力で考えを切り替え、その上でモチベーションを高めていかなければ、近いうちに自分も潰れてしまうのだろう。

ノックの音にハッとする。

「マネージャー、いいっすかね」

佐々岡の奴、ずいぶんと心許なげそうだ。そりゃそうだろう、店長の目線が宙に浮いたままだったのだから。

「うん。どうした?」

額にしわが寄り、眉毛が八の字になった表情からして、いい知らせではなさそうだ。

「坊屋が会社を辞めたいって言ってるんです」
「なんかあったの?」
「よくは分からないですが、ちゃんとした調理人の修行をしたいとかで、、、」
「そんなこと言ってるんだ。分かったよ、この後すぐに話してみる」

どうしたことだろう。坊屋の奴、誰の目から見ても前向きな仕事をしていたと思うし、懸念されていた女性問題も気配さえ見せなかった。元々口数の少ない男だったから、コミュニケーションを十二分にとれていたかと言えば苦しいところだが、退職まで考えていたなんて想像もつかなかった。

以下は坊屋と話した内容である。
佐々岡も言っていたが、デニーズに入ったことにより調理の楽しさを覚え、毎日が勉強となってそれは楽しかった。
LCの水上からは特に親身な指導を貰っていたこと、そしてオープン後、二度の来店があったアドバイザーの三頭さんからも、すじがいいと褒められた等々で、将来は調理の道を極め、何とか自分の店を持ちたいと思うようになった云々。
話すときの目は真剣そのもので、全てが真意であることに間違いはなさそうだった。
快諾し、その旨を今田DMに伝えると、一度のDM面談で退職が決定した。
錦町はキッチンも余裕の布陣だったので、坊屋の後釜に社員クックは回してもらえなかったが、オープン以来のメンバーが一人でも欠けると急に寒々しい空気を感じてしまうのは私だけではないはずだ。

そして坊屋事件はこれだけでは終わらなかった。
坊屋が退職すると、その後を追うように立川錦町の看板DL“窪田紀子”が、卒論に集中したいとの理由で突如店を去る意を示したのだ。余りのタイミングに引っかかるものを覚え、彼らと懇意にしていた数人のスタッフから情報を入手してみると、この二人、だいぶ以前から付き合いがあったらしい。まさかの灯台下暗しにショックは隠せなかった。
店が順調に運んでいる時ほど部下への目配りはきちっと行わなければならない。田無の橋田UMが何度も指摘していた鉄則を忘れていたのだ。
この件をきっかけに、マネージャー三人は討議を始めた。
各自持ち場シフトのスタッフ達と定期的に面談を実施し、不満、要望、悩み等々は何でも聞かせてくださいという店の姿勢をアピールすることを決定。面談の内容は逐次UMが取りまとめ、これまで以上に目配りを重視する方向性を店内に打ち出した。
この方策がどれだけの効果を上げられるかは不明だが、スタッフ達に少しでも店側の気持ちが伝われば、ある程度のレベルで“成功”とみなして良いかもしれない。


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