弊社には“バースデー休暇”なるものがある。
スタッフには誕生日月に有給休暇を1日取ってもらい、3連休にして大いにリフレッシュしていただこうという趣旨だ。
そう、10月は私の誕生日月。毎年これを紅葉の撮影に当ててきたのだが、悲しいかなまともな天候に巡り会った例しがない。
ところが今年は違った。休暇申請していた三日間は、週間天気予報で日本列島の一部を除けば概ね晴れと出ていたし、実際に登山決行日の20日(火)は、これ以上望めないと思われる青空が広がったのだ。
目的の山は“瑞牆山”。奥秩父山系にそびえる日本百名山のひとつで、西南に広がる深い森は紅葉のメッカでもあり、登山と紅葉狩りを高いレベルで楽しもうとする諸氏には、絶好のエリアに成ること間違いない。
早朝4時過ぎに自宅を出発。中央道・双葉SAで朝食を取り、韮崎ICで降りるとセブンで買い出しを行った。
今回の登山スタートは瑞牆山荘駐車場。ここから富士見平小屋を経て登るルートは、瑞牆山登山の定番である。韮崎ICからはツーリング時代でお馴染みの広域農道(穂坂路)を通ってR23へ出る。塩川ダムを左へ巻いて、信州峠へ入る直前にある“瑞牆山”の道標に従って右折すれば10分少々で到着だ。因みにこの道は、途中、右側に渓流が見えてくるが、ここの紅葉は見事に尽きる。一瞬、車を路肩に停めて撮影しようとも考えたが、初めての山を前にして時間の余裕は少しでも持ちたいと判断。後ろ髪を引かれつつ先へと進んだ。
瑞牆山荘へ到着すると、“無料駐車場”の看板がすぐに目に入った。舗装された大きな駐車スペースには、平日にも関わらず既に15~6台が停まっている。山域は今まさに紅葉のピーク。これも当然か。
殆ど同時に到着した家族連れ3人と若い衆4人組が、てきぱきと準備を終わらせ、あっと言う間に出発し始めた。
ー おっ、早いな。
ここは登山口が分かりにくい。迷ってはならぬと、慌てて後を追った。
紅葉の森を歩くのは何とも気分がいい。枯れ葉を踏むザクッザクッという感触が堪らない。途中から林道に合流すると辺りの景色も変わり、それまでとはまた違った紅葉が待っていた。
林道歩きにやや飽きがくる頃、右手に山道の入口を示す道標が見えてくる。それに従い急な階段を上がっていくと、ここからが本格的な山歩きになるのだと直感する。
急坂を上がったところで先行していた若者4人組が休憩中だった。富士見平小屋への道標があり、真向かいには木々を通して瑞牆山が姿を現している。
「見えてきましたね」
思わず彼らに話しかけた。
「瑞牆山は初めてですか?」
「そうなんですよ。なんか、岩が多いそうですね」
「ペンキマークに忠実に行けば大丈夫ですよ」
彼らは職場の仕事仲間で、アドバイスしてくれたのがどうやら社長さんらしい。会社が甲府にある関係だろうか、山好きが多いとのことだ。
そうこうしていると、家族連れの母親と息子の二人が上がってきた。
「お疲れさんです。あれ? ご主人は?」
「ちょっと体がしんどいらしくて、小屋へ戻ったんですよ」
小屋へ戻ったご主人。実は相当な写真好きである。
林道を歩いている時に互いのカメラが目に入り、どちらからともなく話が始まったのだ。
ご主人が首から提げていたのは、ニコンFXフォーマット最新機・D750で、私が今最も気になる一台。フルサイズでありながら軽量コンパクト、しかもフリーアングルモニターを装備しているから、狙った被写体を自由なアングルから撮り込める。
「A2までやるんで、FXは必要なんですよ」
と言うことは、15万円は下らない高級プリンターを持っていることになる。
「以前はD800でしたが、連射で露出が変りすぎるのが難点だったな」
一方的な話が進むほどに侘びしくなる自分に気付き、ここで小さな反撃を試みた。
「山でアクティブにやるにはこの大きさと軽さです!」
富士見平小屋に到着すると、一回目の休憩を取った。
ベンチに腰掛け辺りを見回すと、小屋の真ん前が幕場になっているようだ。適度な木々の中、地面もフラットに近いことから、恐らく快適度は高いだろう。今のところは4張りだが、余裕で14~5張りはいけそうだ。
ヤマパンのあんドーナッツをおーいお茶で流し込むと気分が落ち着いてきた。
紅葉に包まれているせいか、森の中なのにとても明るく感じる。
道標を見ると瑞牆山へは小屋の左脇の山道を上っていけばいいらしい。
100円の有料トイレを借りてから、出発することにした。
何度かアップダウンを繰り返すうちに、渓谷へ降りる急坂に出くわす。この先を流れるのが天鳥川だ。山道は不安定な岩が多く、足を挫かぬよう注意して歩く。ここまで来て後戻りは悲しすぎる。
川まで降りて対岸へ渡ると、既に下山してきた2~3名のハイカーが休憩を取っていた。
「こんにちは」
「今日は富士山がバッチリ見えますよ」
「そりゃ楽しみだ!」
こんなやり取りで元気が湧いてくる。
桃太郎岩の右に掛かる梯子を上がりきると、山道の様相が一変した。それまでは奥多摩でも見られるごく普通の道だったのに、眼前に広がるのは大小の岩が作り出すステップの連続で、ぱっと見、かなり手強そうなのだ。
トレポは邪魔になるだろうと、畳んでザックの脇に差し込み、その代わりにグラブを取りだした。今まさに3点支持必須のルートが始まろうとしている。
一歩一歩という表現が最も合う歩み方で、着実に高度を上げていった。
途中、大きな岩を前にして、どこを探してもホールドできるような部分が見つからず、一か八かで小さな岩の切れ目につま先を入れ、身長の高いところを武器にして、えいやーっ!とその上にある太い木の根に飛びつき何とかクリアできたが、その直後、右側に目をやるとペンキマークがあり、そちらが正ルートであることが判明、若い社長さんのアドバイスを再度噛みしめた。
きれいな青空の広がりの中に、にょきっと突きだした巨岩が見え始めると、もうすぐではと気合いを入れ直す。ところがだ、この岩の先から更に上りがきつくなり、行けども行けども難所は続き、終いには太腿が悲鳴を上げだした。
立ち休みをちょくちょく入れ、呼吸を合わせては上がっていくを繰り返し、道標が立つ頂上直下まできたときには額から汗が滴り落ちてきた。
最後の鎖を越えて頂上へ出ると、そこに待っていたのは息を呑む絶景と、想像を超える人数のハイカー達だった。左手には富士山、正面に南アルプス、そして右には八ヶ岳連峰がくっきりと見渡せ、それまでの疲労は嘘のように消え去った。
鋸岩を上から見下ろす断崖はスケールもでかいがスリルもでかい。ここから落ちたら間違いなく楽にあの世へ行けるだろう。
「おい、危ないからそんなところへ立つなよ!」
「写真撮る時、足元に気をつけろ!」
「スマホ落としたら拾いに行けないぜ!」
「お願いだからもっとこっちにきてくれる」
狭い頂上ではこんな声が飛び交っていた。
しかし、これほどの景観を前にしたら、誰でも少なからずハイな気分になるだろう。下山するのが惜しまれるなんてことはそう滅多にあるものではない。
ザックからV2を取りだし、暫しの撮影に取り掛かる。
V2は登山にも全く負担にならないサイズと重さが嬉しいが、やはりこれだけの景観を前にすると役不足を痛感する。特にV2の標準レンズ“10-30mm”だけでは画を切り取るにも限界があり、この機材を使い続けるのであれば、最低でも10-100mmが必要だろう。
但、そうなるとレンズ自体が大きくなってV2のメリットが半減し、山での機材を根本的に考え直す必要が出てきてしまう。何とも悩ましい。
登頂した時から空腹はそれほど感じていなかったので、鮭のおにぎり1個を腑に流し帰路につくことにした。
思いのほか下山は楽だった。心配された左膝が絶好調だったからだ。
一度でも膝痛が起きれば、歯を食いしばりながらの下山になってしまうので、発症を未然に防ぐ為、普段から下りは意識してペースを落とし、頻繁に休憩を入れることにしている。
天鳥川まで降りてくると休憩中の親子連れが目に入った。
「お疲れさん」
「あらっ、お疲れさまです」
それにしてもこのお母さん、年齢は私よりいくつか下だと思われるが、山歩きに慣れているという第一印象で、上りも下りも追いつけないペースにはびっくりした。20代後半から30代前半と思しき息子さんは、笑顔が優しい好青年。絶えずお母さんの後ろを歩き、岩場では何度も指示を出していた。
「ご主人、待ちくたびれているでしょう」
「ですね」
山での出逢いはいつもほのぼのとする。
遠回りになってしまうが、駐車場までは林道をのんびり歩いて森の撮影を楽しんだ。
山行の他にもう一つの楽しみとして“増富温泉”があった。
以前から所在は周知していたので、話の種に一度は訪れてみたいと思っていたが、何かのついででなければ位置的に無理があったので、今回は良い機会だった。
瑞牆山荘から増富までの間には渓流と並行する区間があるが、朝に見た紅葉渓谷美に負けず劣らずの景観は正直驚きで、思わず二度ほど車を停めて撮影を行ってみた。
生まれてこの方、これほど色艶やかで変化に富んでいる紅葉には出逢ったことがなく、ここでも限定されたV2の撮影性能に地団駄を踏んだ。
次回は登山とは別途に計画を練らなければならないだろう。
850円と少々高い入浴料金を払い浴室へ向かう。
浴槽は湯温によって別れていて、まんま水の25度、茶色い湯の30度、35度、37度、そして透明の42度とある。最初は30度に浸かってみたが、登山後の火照りがあってちょうど良い湯加減であり、余り一般的ではない。長く入れて気持ちが良かったのは37度だが、最後は湯冷めのことを考えて42度に暫し浸かった。
効能書きを読むとなんだか効いてきた感じもしたが、湯治として長期間の利用が必要なことは言うまでもない。
すっかりリラックした後は韮崎にある今宵の宿【清水屋旅館】へと向かった。
今回の山行、普通なら日帰りレベルだが、せっかくのバースデー休暇だったので、宿でも取って夜は地元の居酒屋で一杯やり、翌日はゆっくりのんびりと帰ればいいと考えたのだ。
それと奥多摩の紅葉状況もこの目で確かめたかったから、帰路に中央道は使わずに久々となる大菩薩ラインを選んでみた。
チェックインを済ませると、すぐに町へと繰り出した。
時は既に6時近く。夜の帳が降りた田舎の町は薄暗い。適当な居酒屋に入ろうと歩き回るも、怪しげなスナックばかりで適当な店が見つからない。そうこうしていたらいつの間にかJR韮崎駅前まできてしまった。その時目に付いたのが『魚民』の電飾看板。
チェーン店だけどしょうがない。腹も減っていたし、何より喉が冷たいビールを欲していた。
入店後、小部屋に案内されると焼き鳥と中生を注文。運んでくる数分が待ちきれなかった。
ー 自分に乾杯~!
登山後の疲れた体には本当に染み入るようだ。同時に予想以上の勢いでアルコールが回ったきた。
中生一杯を開けただけで瞼がトロンとしてしまう。じっくりと酒を味わおうと思ったのに、15分もしないうちに潰れたらアホである。
「すみません、冷酒と刺身お願いします」
ー このままじゃ帰れない! 今宵を楽しむぞぉぉぉ~~~!
しかし無駄なあがきだった。冷酒を開ける頃には意識も遠のき、気が付けば小一時間ほど寝入ってしまった。
この後、旅館に戻って爆睡できたことは言うまでもない。
やや締まらない結末だったが、初めて登った瑞牆山は最高にエキサイティングだったし、周辺の森の目映い紅葉には驚きもした。新しい山やエリアは必ずといって見聞を広げてくれるし、普段の生活には起きえない見知らぬ人達とのコミュニケーションもまた楽しいものだ。
さて、次回はどこを歩こうか。