カラオケが大ブームとなっていた昭和五二年の暮れ。あまりにしらけた大学生活の反動で、膨らむ一方だった【一刻も早く社会へ出たい!】という願望が、のんべんだらりな己に喝を入れ、卒業する為に必要な単位の取得へと奔走させていた。
必修単位の二つ、ドイツ語Ⅱと幾何学を落としてしまい、このままではめでたく就職を果たせても、並行して学校へ通い単位を取らねばならず、これを何とか回避する為に対策を講じる必要があったのだ。ドイツ語担当は獨協大学の教授で、春休み中にレポートを同大まで持参すれば済むというなので問題はなかったが、幾何学は少々面倒な話になっていた。
「おまえたち。単位が欲しいなら、明日の夕方俺のアパートへ来い」
幾何学の担当は岡田という東大生研から出向していた若い講師で、牛乳瓶の底そのもののような分厚いレンズの奥からは、四六時中いただけない熱血光を放っていた。
「い、行けばもらえるんですか?!」
「そんなに甘くない。俺の目の前で問題をといたら単位はやろう」
とある下町のアパートは6畳に台所が付いたシンプルな間取りで、照明は電球を使った古くさいもの。かぐや姫の神田川でも流れようものなら、嵌りすぎて笑いが出てしまいそうだ。
集まった該当者4名は、当初互いの緊張した顔を見回していたが、僅かでも卒業への希望が湧いてきたのか、それは次第に笑顔へと変っていった。
それにしても午後6時頃から始まった問題解きは厳しかった。全員に同じ問題を出されたが、授業をろくに受けたことのない面々だから、互いに相談することができず、行き詰まって岡田に助けを求めると、
「そんなもん、本を開いて調べろ」
と、こんな感じである。
「どの辺でしょうかね、、、」
「二章以降だ」
数学アレルギーがある者なら卒倒しそうな数式が並んでいる。
我々はその数式の読み方から入らなければならないレベルだったから、進行には膨大な時間がかかっていった。
それでも日が変る頃から何とか流れを掴めるようになり、岡田に相談すれば渋々だがポイントを教えてくれた。面々も互いにあーだこーだと意見を出し合えるようになり、朧気にもゴールが近づくのを実感した。
「俺はちびちびやってるから、朝までには終われよ」
いつのまにか燗瓶に酒を入れてストーブへのせている。
わざとらしい熱血ぶりで鬱陶しい奴だと思っていた岡田だが、こうして深夜まで付き合ってくれるところを見ると、彼は本物の熱血漢なのかもしれない。
どうしても好きにはなれないタイプだが、ちょっと分かったような気がしてなぜか嬉しくなった。
常磐線の始発に乗り込んだ時、ふと笑みが出た。
ー 俺も最後は学生やったかな。