吉祥寺アロファフェス

 五月六日(こどもの日)。今年も【吉祥寺アロファフェス】が華やかに開催された。
 そもそも吉祥寺という街は、吉祥寺音楽祭を筆頭に、文化芸術活動が妙に映えるところがあり、それがエリアの魅力の一端を担っているのは間違いないだろう。
 いつものことだが女房の練習には熱が入っていた。最近私もバンド遊びを始めたので、ステージにかける気合いはよくわかる。本番が近づくにつれ、表情に緊迫感が現れるところなど、己を見ているようで笑ってしまう。
 ハワイアン音楽は物心ついたころから好きなジャンルだったが、ある一件以降、それは決定的になった。
 中学二年の夏。心焦がした片思いの子と、なんとリゾートホテルのプールでデートを果たしたのだ。
「長岡にあるホテルのプールの無料券が四枚あるんだけど、女の子誘って行かないか」
 親友のEは目を輝かせながら、四枚のチケットを扇状にしてひらひらさせた。
「おまえ、K子好きなんだろ」
「ま、まあ…」
「だったらチャンスじゃんか!」
 K子はクラスメイト。色白で純和風な顔つきを持ちながら、スタイルはクラス、いや学年ナンバーワンと言っていいほど男の目を引き付けるものを持っていた。バスケット部に所属していて、長い手足が華麗に躍る様を見ようと、下校組の面々が毎日のように体育館へ集まっていた。
 K子の一番の仲良しはT枝。私はなぜか以前からT枝と気軽に話のできる仲だったので、これを利用してまずは彼女にプール行の話を持ちかけ、その時にK子も誘ってもらおうという作戦に出たのだ。どうやらEのやつ、T枝にほの字らしい。
「おれを利用しやがって」
「はは、まあまあまあ」
 当日、四人は沼津駅発、長岡温泉行の東海バスへ乗り込んだ。一時間以上かかる道のりだったが、話題はともかく、なんだかんだでK子とおしゃべりがうまく弾み、到着まではあっという間だった。
 海パンに着替え、プールサイドに出ると七月の陽光が眩しすぎて、目を開けていられないほど。ざっと見まわせば客は十数人。ちょうどいい感じだ。しばらくたつと、更衣室のある通路から出た女子二人がこちらへ向かって歩いて来るのが目に入った。
 ビーナスとは斯くの如く。どちらかと言えばT枝もスタイルのいい方だったが、K子のそれは別次元。姿勢、肉付き、バランス、色白と、どれをとっても百点満点であり、特に胸のふくらみが発散する色気の眩しさは夏の陽光にも負けてない。
 男二人、暫し絶句である。
「ほらほら、ビーチベッドふたつ、キープしといたよ」
 場所取りのために置いていたタオルを戻すと、まずはK子が腰を掛けた。私の隣である。頭に血がのぼり、言葉が出てこない。十数分、四人はただただ寝そべって、大きく広がる青空を見つめるのみだった。この間、ずっと流れていたのが、スチールギターが主となったハワイアンミュージック。何ともこのシチュエーションに馴染むサウンドで、気がつけばその甘いメロディーが体の奥深くへと染み込んで行ったのだ。
 以来、甘酸っぱい思い出は、ハワイアンを聞くたびに胸の内で広がるようになった。


「吉祥寺アロファフェス」への4件のフィードバック

  1. 中学二年の時、K子は髪が長く妖精のように透き通った輝きを発していた。WはK子の妹に好意をいだいていた。私はWとどちらが先に声をかけるか?を争った。私は青山学院大学の前にある歩道橋の下の公衆電話でK子に電話をかけた。心臓が喉から飛び出るとはあの時のことをいうのだろう。たぶんお父さんが最初に出たのだと思う。その後彼女が電話口に出てくれた時は夢のようだった。それからは中学からの帰り道は毎日青山の自宅まで送った。我が家は学校のすぐそばだったのでわざわざ一時間以上の遠回りだ。手もつながない、でもあれは本当の恋だったんだ。Wとの賭けは私が勝った。
    2017年8月。K子が肺がんで亡くったとW経由で聞いた。WはずっとK子の妹と年賀状のやり取りをしていた。K子な亡くなった時、独身だった。
    Wと二人でK子の墓へ行った。本当の恋はK子の手にも触れずに終わった。

    1. 中学二年生。
      お互い青い時代のまっただ中で、“胸キュン”、していたのですね。
      ほろ苦く、また懐かしく思い出されます。

      1. 今、66歳。中学2年は13歳とすると53年前ですね。その時の記憶が今の自分に残り、また今の自分を形作っていることを不思議に思います。青学の向かい側に当時アパートがありました。彼女はそこに住んでいました。そのアパートはその後壊され今は児童向けの施設になっているのでしょうか。青学の前に246に歩道橋があり、その下に公衆電話がありました。今はその公衆電話はありませんが歩道橋は昔のままです。883スポーツスターで朝、その歩道橋をくぐる都度に今はない公衆電話を追います。50年前と今。私の中は何も変わっていません。

        いつもいい刺激をありがとうございます。素敵な奥様が羨ましい。

        1. 人生経験がまだ少なかったころ、右を向いても左を向いても未知なことばかり。
          それでも若い脳は好奇心の塊だったのでしょう、彷徨の時期とはよく言ったものです。
          中学生の頃の私は、絶えず「見たい」「知りたい」「触りたい」の欲求に駆られ、叶った時の感動はそのまま心の餌になるのですが、心はすぐに腹を空かせるので、まるで野生動物のように日がな一日餌をもとめ続けていたように思い出されます。
          ところがある日、その欲求が徐々に萎んできていることに気づいたときは、意外や消沈しました。今だったら気にも留めないできごとも、若いころは強烈に脳裏へと焼き付いていましたからね。
          そんなことで、何かにトライすること、見聞を広げることは、この歳になったからこそ必要かなって思う今日この頃です。

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