突然、海を見たくなった。
潮騒、海鳥、磯の香…
沼津育ちにとっては、体に染みついた望郷の要素。やはりたまに海辺に立たないと、なにか物足りなさを感じ、心の潤いが薄れていくような気がしてくる。
真鶴半島は前々から気になっていた。自宅からやや遠いが、カメラを提げてハイキングするにはもってこいのロケーションに思えたからだ。半島と称しても、規模からいえばちょっと大きな岬。そしてwebサイトで調べると、“真鶴周遊ウォーキングコース”なるものを見つけ、読み進めると、散策をしながらのスナップにはちょうどよさそうなのだ。
十一月四日(火)。真鶴駅までは、まず三鷹から中央線で東京へ。そこから上野東京ラインの熱海行へ乗り換えれば、一時間半ほどで到着する。途中、電車の車窓からは相模湾が見渡せ、それだけで心が躍った。やっぱり海はいい。
駅前を走るR135を横断。まずは荒井城址公園を目指す。
住宅街の中を網の目のように伸びる道はどこも坂がきつい。公園へは上り坂が続き、気温はそれほど高くないのに、背中に汗をかき始めたのでウィンドブレーカーを脱いだ。セーターだけになると、網目を通る風が心地いい。
誰もいない静かな公園には一部紅葉も見られたが、春の桜が有名だと、園内整備を行っていた高齢の男性が教えてくれた。彼が乗ってきた軽トラを見ると、どうやらシルバー人材センターの方らしい。
公園からはしばらく下りが続き、そのうちにバス通りへ出た。住宅の合間からは所々で相模湾が見渡せ、誠に羨ましい。ふと西宮に住んでいた頃の芦屋を思い出した。六甲山裾野の斜面には高級住宅が立ち並び、どこの家からも大阪湾を見下ろせ、夕方になると神戸から大阪へ広がる夜景が加わり、それはそれはすばらしい眺めなのだ。
二つの美術館を過ぎ、間もなくして前方に交差点が見えた。すると左手のちょっとした森の中から四~五名の年配者たちが現れた。皆さんそろって双眼鏡を持っている。バードウォッチングだろう。これまで単純な舗装路ばかりだったので、彼らが出てきた森の中へと入ってみると、よく整備された登山道ってな感じだ。最初は急な上りで、その後だらだらと下っていくと、前方にちょっと変わった小屋が目に入った。近くまで来ると、なるほど、野鳥の観察小屋である。さきほどの方たちが利用していたのだろう。
再び周回路に出る。右手岬方面と案内板が出ていたので、向かっていくと正面に休憩施設である“ケープ真鶴”が見えた。ここはパスして、左脇の遊歩道へ入り、海岸へと向かう急な階段を降りていく。この階段、間違いなく帰りは厳しいものになるだろう。
途中から三ツ石が見え、大海原が広がる。風もそれほどなく、日差しが強いので暑いくらいだ。遠く右の岩場では磯釣りに勤しむ人たちが見える。今は引き潮なのだろう、三ツ石まで歩いて行けそうだ。
「こんにちは、いい天気ですね」
「ほんとですね、汗かいちゃいました」
私と同年代と思しき男性が声をかけてきた。笑顔の絶えない優しそうな人だが、二言三言話すと、待ってましたとばかりに、マシンガンお喋りが始まった。
「ここへはよく来るんですか?」
「以前は登山が好きで、たいがいなところは登りましたよ。アルプスは制覇したし、八甲田山もよかったな~、でも歳取っちゃったからね。あっ、ここですか? 六~七回は来たかな、駅からね、時計回りで歩いたもんですよ、でもこれが最後かな~」
「お住まいはお近くです? 私は東京から来ました」
「東京じゃないですよ。相模原です」
「いやいや、東京は私…」
「ああ、ちょっとだけど東京にも住んでたな。タクシーの運ちゃんをやってた頃はよかった。バブルでね、銀座なんて客がザクザクですよ。ぼくの知り合いで個人タクシーやってたやつなんて、年収1000万ですよ。休む暇もないほど次から次に客がね~、東芝で半導体もやってました。リーダーでね、はは、懐かしいな。その頃にマンション買ったんですよ。今じゃ隣にタワマン建っちゃって、億ですよ億。相模原で一番高い建物ですね」
「へぇ~~」
「でも、だめだな。帰りはバスかな。そこの公園でおにぎり食べてます、年金暮らしだから」
「そうですか、それじゃ」
「カメラやるんですね、下でも年配夫婦がパシャパシャ撮ってましたよ、あはは、どうもどうも、ありがとうございました」
世の中、いろんな人がいる。
ゴロゴロ岩の海岸に出ると、視界が広がり開放感抜群である。さっきの男性のおにぎりが連想したのか、何枚か撮るうちに腹が減ってきた。時計を見るとちょうどお昼を過ぎたところだ。
帰りのルートは東海岸へ出て、大昔スクーバダイビングで潜った琴ヶ浜を通る。案の定、ロードサイドの飲食店は軒並み海鮮である。ただ今日は刺身っていう気分じゃなかったので、スルーしてこのまま進み、駅前に出ればラーメン屋でもあるのではとピッチを上げた。
最後の坂を上り、大きな右カーブを曲がりきると真鶴駅である。R135との交差点右角にピザ屋がある。窓から店内を覗くと、午後一時を回っていたせいか、それほど客は入ってない。ドアを開ける。
「いらっしゃいませ」
「一人だけど」
「カウンターへどうぞ」
がたいのいい顎鬚の男性がマスターなのだろうか。もう一人年配の女性もいる。もしかしたら親子かもしれない。
「おすすめは?」
「干物を使ってる、この“あじとうずわのマリナーラ”と“さばみりんとリコッタチーズ”でハーフ&ハーフなんていかがですか」
「じゃ、それで」
「お飲み物は?」
「ジンジャエール」
しかし干物のピザとは珍しい。地場の食材を利用したわけだ。もともとアンチョビのピザは大好物なので楽しみである。
真鶴ピザ食堂KENNY
ジンジャエールを半分ほど飲み終えるころ、焼き立てが目の前に置かれた。なんといっても香りがいい。ずばり干物の網焼きである。ピザそのものの食感もよく、とてもおいしくいただけた。それにアップダウンを伴う10km強の道のりを経て、もう腹ペコはピークに達していたのだ。それと25cmのピザをストレスなく平らげたのも、断酒のおかげがあるのかもしれない。