気持ちをリセット

暗礁に乗り上げた感のある写道楽。フルサイズを生かそうと張り切り過ぎて、逆にぎこちなさを招いてしまったり、はたまたV2の携帯性を武器に、あたりかまわずシャッターを切りまくるスナップ撮影に飽きがきたりと、目的の定まらない小手先ばかりの撮影行は、必然的にマンネリを呼び起こした。
そもそも写真の醍醐味を得たいならば、テーマと目的は設定すべきだと思う。
気の向くままに撮るやり方ではすぐに頭打ちが来てしまうし、たまたま画的に見栄えの良いものが数枚撮れたとしても、その喜びは一瞬のものでしかない。

随分と昔の話になるが、NikonD100を手に入れた頃、せっかくの高性能デジイチなのだから、その性能を堪能しつつ、しっかりとしたテーマを持って、後々まで残せる作品作りにトライしようと、真剣に計画を練ったことがある。
しかしテーマ作りはあまりにも漠然としていて、簡単には絞り込めなかった。
空、海、川ではピンとこないし、写真雑誌にたびたび載る“お散歩スナップ”では食指が延びない。モデルがいないからポートレートも無理だし、花や鳥、そして列車等々は月並みすぎて端からNG。
それならば、興味があるもの、好きなものの中にヒントがあるだろうと頭を捻りなおすと、なるほど、朧気ながらも形になってきた。
出てきたのは子供の頃に住んでいた沼津の風景だった。
私にとってまさに田舎の原風景とはここのことであり、胸の奥にしっかりと沁み込んで揺ない歴史なのだ。
こう考えるといてもたってもいられない。
自宅から沼津までは125Kmと、さほど骨の折れる距離ではないので、すぐにでも出かけることは可能だ。しかし、その前にどのあたりを歩くか決めておかなければ無駄足になる恐れがある。手始めは子供の頃によく遊んだ、“千本浜公園”、“港湾”、“子持川”を中心に、僅かでも昔の匂いが残っているところを巡ってみようとスタートさせた。

夏の初め。こうして千本浜公園の入り口に立った時、<やったるで!>と気分は高揚、D100を持つ手にも気合が入った。
さっそく被写体を探り始めたが、平日の昼前なので広場には人影が殆どなく、あまりに寂しすぎて画にならない。大勢の子供たちが現れてワイワイ始まるのは週末か、平日でも夕方以降だろうか。
港湾も然り。よく釣りをした白灯台の岸壁は、今では完全に埋め立てられ、当時の面影は微塵も残っていない。ノスタルジーを湧き起こそうとしても、現実を目の当たりにすれば、気分は冷えていく一方である。
同じ場所でもこれほど様相が変わってしまえば、思い出が現実の風景へと被さることはなく、ファインダーには単に前方だけが映し出され、感慨のひとつまみも感じ取れない。
<沼津・夏・蝉時雨・潮騒>
求めるイメージは何処へ行ってしまったのだろう。
やや疲れを伴い、港湾を後にする。
最後は、中学生の頃に通学路として毎日歩いた、子持川沿いの小径へと場所を移した。

当時は川の上流に染め物工場があり、そこからの排水で、何と川の水には色が付き、多いときは日に三度も色を変えたものだ。高度成長期に多々見られた工場排水の垂れ流しであり、当然生物が住めるような状況ではなかった。
ところが近年、この川に元気良く泳ぎまわる小魚の群れを見られるようになり、それを狙う鷺も飛来するようになった。自治体総出のクリーンアップ作戦があったのだろうか、ここだけは昔以上に昔をアピールする心象風景へと変貌している。
<海の近くの住宅街>が色濃く出ていて、撮影はリズム感よく進んだ。小径には桜が植えられ、春先はさぞかし賑やかになるだろうと想像しつつ、その他にも様々な植物の開花が見られ、構図を決めるのが楽しくてしょうがない。
暫し夢中になり、ふと気が付くと母校である沼津二中の近くまで来ていた。
この辺を歩くと思い出す。夏休み、バスケット部の練習が終わると、仲のいい友人と連れ添って、通学路から一本入った路地裏にある駄菓子屋へ駆けつけ、そこの焼きそばを食べるのが楽しみだった。僅かな豚肉にキャベツ、これをウスターソースで味付けをしたあっさり味だったが、美味かった。懐かしい思い出である。

千本浜公園~千本浜~港湾、そして子持川と、ぐるり半日回ってきたが、久々の古里漫遊からか、その疲労感は爽やかそのもの。そしてどのような写真が撮れたかワクワクしてきて、今回の撮影行は企画的に成功だったとひとりほくそ笑むのだった。
帰宅すると早速データをPCへダウンロード。一枚一枚じっくりと確認していく。
この作業は実に楽しいもので、ある意味撮影以上の興奮を味わえる。
D100のデータ保存は基本的に「RAW」オンリーだ。Nikon Viewで閲覧した後、気に入ったものをPhotoshopのプラグインである“Camera Raw”を使って現像していく。このフローは現在の愛機D600に至るまで一貫したもので、自分らしい写真を表現できる最良の方法となっている。

「・・・・・・」

どれもこれも単に今の沼津の記録でしかなく、悲しいかな心象風景的なものは一枚も撮れていない。
それなりに工夫したつもりだったが、いざモニターでまじまじと見れば、何の変哲もない平凡なスナップ写真ばかりなのだ。
但、子持川沿いの教会やその周辺は昔とそれほど変わっていなかったので、何となく形にはなっていたが、この時の気分は“残念”というより、寧ろ“難しい”が正直なところだった。ものを見る眼力に力不足があることがありありと自覚でき、写真の奥深さを痛感した。
結果的に満足できる写真は殆ど撮れなかったが、やはりテーマを決めて臨んでこそ、山あり谷ありの醍醐味に遭遇するわけであり、また、達成感の尺度もありありと分かって、次へのステップも見つけやすいと感じた。

前述のとおり、この頃ではD600もV2もカメラバッグの中で眠りっぱなし。ここは一度気持ちをリセットして、再びテーマなりやり方なりを構築した上で、再トライするつもりだ。
落ち落ちなんてしていられない!
盛夏、晩秋、大晦日と、シャッターチャンスは次々に巡ってくるのだ。


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