快適、清里高原☆

 七月早々から猛暑日に悩まされるとは、ほんと、先が思いやられる。
 エアコンをONにして部屋にこもっていれば一応暑さは回避できるが、異常な熱波が町を覆っていること自体が精神的ストレスを生むもの。
 七月五日(金)。てなわけで、久々となる北杜市の清里高原へと出かけてみた。

 今回はちょっと目先を変えた。折りたたみ自転車をPOLOに積んでいき、現地でのんびりとサイクリングに興じようと考えたのだ。この自転車、キャプテンスタッグ製の廉価版だが作りがよく、車で行く一人旅の際には必ずお供にしている。徒歩と比べて行動半径がぐっと伸びるのが撮影行にはうってつけなのだ。
 清里駅にほど近い市営清里無料駐車場なるところを起点として、高原の空気を感じながらペダルを踏めればOKという至ってシンプルなもくろみである。

 中央道で事故渋滞に巻き込まれ、清里に到着したのは九時を回っていた。POLOの外気温度計は28℃を指していた。やはり高原である。
 自転車を組み立てたあと、まずは地図を片手に周囲を見回した。
「あれ……」
 この時、清里の地形についてかなり勘違いしていたことに気づき始めた。駐車場前は県道十一号線で、これを上って行くと美し森方面だが、どえらい傾斜がある。とてもシングルギアの折りたたみ自転車では漕いで行けそうにない。清泉寮へ向かうポールラッシュ通りも同様だ。

 清里は本当に久しぶりだったし、以前訪れた際も絶えずバイクか車を使って移動していたから、高原全体の“傾斜感”を全く覚えていなかったのだ。ぶっちゃけ、キャプテンスタッグではどこへも行けないし、そもそも身動きすら取れない。普段の足である二十一段ギアのクロスバイクか、はたまた電動アシスト付自転車だったら何とかなりそうだが……
 ここは冷静になって再度地図を確認した。すると、すぐ近くにサイクリングロードの入口があることに気がつく。藁をもつかむ気持ちでその入り口とやらまでキャプテンスタッグを押していくと、なるほど、ちゃんと整備された舗装路が森の中へと延びている。この森は県道十一号線とポールラッシュ通りに挟まれるエリアにあり、サイクリングロードはその真っ只中を行くようだ。

 走り出すと実に気持ちがよかった。緑濃い自然林の中なので直射日光が当たらず、体感気温は一気に落ちる。実際のところ、この道がなかったら清里散策は諦めるしかなかった。途中には小川もあって清涼感はどんどん上がっていく。
 走り始めは熊でも出そうな雰囲気もあったが、そのうちに本格的なロードバイクで疾走している人、のんびりとウォーキングを楽しんでいる年配男性等々、意外や利用している人を見かけびっくり。清里まできたかいも少しはあったかなと、気分的にひと安心。ただ、水分補給をしようとザックを下ろせば、背中は汗でぐっしょりである。

 清里駅前から清泉寮方面への標高差はおおよそ200mある。なにしろ右側を走る県道十一号線には登坂車線もあるほどだ。よってサイクリングロードは傾斜を緩くするために九十九折りが延々と続く。小さなカーブをターンするごとに2mは上がっていく感じだ。とにかく長いし、地味に疲れる。


 “あと100mでサイクリングロードの終点です”の看板が見えたので、一気に上り詰めると一般道へ出た。地図ではよくわからないので、スマホのYaHooカーナビを起動して現在位置を確かめると、この道は八ヶ岳高原ラインで、ちょっと行った交差点を左折すれば間もなく清泉寮へ到着するはず。ホッとすると連続したペダル漕ぎのせいだろう、膝に若干の痛みが出ていることに気がついた。

 八ヶ岳高原ラインからポールラッシュ通りへ折れると結構な下り坂。絶えずブレーキを当ててないとどえらくスピードが出てしまう。前方から黒づくめのサイクルウェアーを着た女性が、ヒルクライム然とした苦悶の様子で上がってくる。とてもではないがキャプテンスタッグではこの道を引き返せない。
 清泉寮に到着。テラスに出ると素晴らしい景色が広がっていた。正面に富士山、右サイドには南アルプスの山々がくっきりと見える。さっそく清泉寮ソフトクリームをいただきながら絶景を堪能した。
 ベンチに腰かけると爽やかな高原の空気感に包まれ、それはそれは気持ちがいい。瞳を閉じると寝落ちしそうだ。
 人通りがほとんど見られない清里駅前とくらべると、ここはさすがに人気の観光スポット。平日なのに大勢の観光客が訪れ、賑わいは昔と変わることがない。

 駐車場まではポールラッシュ通りを一気に下った。
 小海線の踏切がある交差点までは信号のない下り坂が続くので、恐ろしいほどスピードが乗る。ホイールベースが短くブレーキがプア、車輪の径も小さい、そしてノーヘル、短パン、Tシャツといういで立ちは、もし転倒したら間違いなく救急車レベル。一時はバイクツーリング並みのスピードも出してみたが、今から考えると実に大人げない。 

 急遽出かけた清里だが、間違いのない避暑地だった。普通にたたずんでいれば長袖長ズボンでちょうどいい。湿度が低く汗をかいてもべとつく感じはまったくない。恐らく夕暮れ以降は肌寒いことだろう。
 ちなみにPOLOの外気温度計は、駐車場を出るときも28℃を指していた。長い坂を下り、須玉ICに到着する手前で35℃へと上昇、中央道の甲府昭和近辺では38℃、談合坂で一旦35.5℃を示したが、八王子料金所で再び38℃に跳ね上がり、それは自宅に到着するまで変わることはなかった。

バイク屋時代 1・好きなことを仕事に

  一九八八年二月一日(月)。新しい仕事が始まった。頑張れねば家族が路頭に迷う。まさに後戻りのできない崖っぷちに立ったのだ。
 モト・ギャルソン三鷹店の営業カウンターに腰を据えると、真正面の見慣れた水道道路が、やけに寒々しく感じた。不安と気負いが胸中を圧迫するのか……
 そんな入社初日から早三十六年の月日が流れた。バイク業界からきっぱりと足を洗い、悠々自適な日々を送る今日この頃。光陰矢の如しとはよく言ったものだ。

 前職であるファミリーレストランチェーン“デニーズジャパン”は二部であれ上場企業である。そこから小さな町のバイク屋に転職するなんてことは、周囲の雑音に耳を傾ければ、無謀、バカだぁ~、もったいね~、生活は?、なんてところが連発するだろう。事実ごく親しい友人にも、
「おまえさ、先々のこと考えた?」
 と、説教じみた嫌みをくどくどと聞かされた。
 世間一般、バイク屋のイメージなんてものは、自転車屋に毛の生えたような小さな店で、汚ねえツナギを着たおっさんが、スパナを握りつつ仏頂面で作業をしてるってなところだろう。どの角度から眺めても、発展性などという力強さは見いだせない絵面だ。
 しかしあの頃のデニーズの生活には、絶えず不満と不安が付きまとい、精神的には八方ふさがりの状態だった。頭の中はいつだって、もういい十分働いた、そして頭の悪い上司と仕事をするのは我慢ならぬ!が、渦巻いていた。
 てなことで、現況から一日でも早くおさらばしたかったが、その前に次の仕事を見つけなければない。先のことを考え、慎重さをもって吟味することは当然だが、素直な胸の内を明かせば、“好きなこと”を仕事にしたかった。よってモト・ギャルソンだったら頑張れると思った理由のひとつに、“バイク好き”がことのほか大きく占めていた。ただ現実問題、給料の手取りがかなり下がってしまったのは頭痛の種ナンバー1だった。間違いなく女房に苦労をかけることになる。新居探しも家賃の上限がネックになり難航した。そしてやっと見つけた物件は築年数が長く、見るからに疲れたアパートで、日当たりも悪く、すえた匂いが気になった。
「いいよ、ここで。なんとかなるでしょ」 
 気丈な女房はそう言ってくれたが、表情には落胆と諦めがありありとうかがえた。俺のわがままが家族に迷惑をかける現実は胸苦しかったが、こんな時だからこそ早く仕事に慣れて、少しでも多くの給与をもらえるようにと鞭を打ち続けたのだ。

 一九八〇年代後半、バイク業界は空前のレプリカブームに湧いていた。レプリカとはレーシングレプリカの略で、サーキットを疾走するレーシングバイクのスタイルはそのままに、公道仕様へと改良したバイクのことだ。これに皮ツナギを着込んで跨れば、気分はグランプリレーサー。俺もイタリア・ダイネーゼ製の皮ツナギを手に入れ、エディ―・ローソンになったつもりで伊豆スカイラインを飛ばしたものだ。ただ、当時の愛車は一九八〇年発売のヤマハ・RZ250だったので、レプリカとはだいぶ異なる地味なデザイン。皮ツナギとのマッチングはイマイチである。
 そもそもなぜレプリカブームが到来したのか。それはワールドグランプリ(WGP)の頂点である500ccクラスの大活況が影響したことにある。


 一九八三年。“キング”と呼ばれた絶対王者ケニー・ロバーツと、若き挑戦者フレディー・スペンサーによる、熾烈極まるワールドチャンピオン争いはその最たるもの。最終戦まで息もつかせぬデッドヒートを繰り広げ、バイク好きの誰しもが、そのリザルトを確認しては一喜一憂したものだ。俺もバイク雑誌の発売日には、何をおいても書店へと駆け込んだ。
「くっそぉ、またスペンサーかよ!」

 出勤初日は朝から強い北風が吹きまくっていた。
「よろしくお願いします」
 スタッフ一人一人へ挨拶をすませ、皆が引き上げた後、配属店である三鷹店のショールームを商談コーナーからぐるりと見まわした。
 店前の展示コーナー左側には色とりどりのスクーターが並べられ、右側には人気のホンダCBX400F、スズキのRG250Γがかっこよく展示されている。その横には修理車らしき二台が置かれているが、商品との混在で見た目が悪い。
 店内に移ると、正面ウィンドウの脇に昨年発売されたヤマハのユニークなモデルSDRが、きらりとフレームに陽光を浴び、いかにも“イチオシ”と言わんばかりに展示台の上に載せられている。
 商談コーナーの右手には、スチール製の展示ラックが置かれ、ヘルメットを中心に、グローブ、レインウェア、バイクカバー等々が並び、左手はこじんまりとしたサービスフロントがあった。メカの武井くんが何やら伝票記入中である。
 商談カウンターの上には、バイク雑誌、最新式スクーターのカタログが雑然と置かれ、吸いさしが山盛りとなった灰皿がそのままになっていて、アバウトな社風をありありと感じさせた。
 それにしてもこのショールーム、空気が悪るすぎる。紫煙が充満してまるで雀荘のようだ。モト・ギャルソンのスタッフにはタバコが好きが多く、特に社長の大崎さんは極端なチェーンスモーカ―。愛煙銘柄はニコチン、タール共に少ないライトタイプだが、驚くことに一日に四箱近くも吸いまくる。出勤してから退社までの間、食事以外は絶えず煙草をくわえている猛者ぶり。私も煙草を嗜むので、最初はそれほど気にならなかったが、呼吸の度に大量の副流煙を吸い込んでしまう劣悪な職場環境は、今時だったら間違いなく訴訟レベル。
 社長より年上で、おばちゃまの下山専務も負けちゃいない。彼女はタバコを吸っていないと会話が進まない性分らしく、特に他人の中傷話が始まると、プカプカ、ペラペラ、プカプカ、ペラペラと絶好調になり、しまいには吐き出す多量の紫煙で彼女の姿は見えなくなる。
 総務の矢倉さんだってなかなかだ。吐く息がむせるほどヤニ臭く、笑った時に見せる歯は見事なタール色。おまけに彼は地黒で顔も黒いから、この笑顔はかなりキモイ。ザクトライオンでもプレゼントしようかと思ったが、嫌みだと思われるのは間違いない。

 さて、こうしてバイク屋の営業スタッフとして新しい生活が始まったわけだが、当然おぼえなければならないことは山ほどある。バイクは趣味として親しんできたので、好きなスポーツモデル関連ならば、素人とは言っても商品知識には自信があったが、スクーターやそれ以外のジャンルは殆ど未知の世界だったので、早急な知識武装が必要だった
 覚えることはバイク本体だけではない。商談が成立して契約書を作るには、車両代以外に諸費用という項目を書き込む必要があり、それは名義変更代、納車整備代、重量税、自賠責保険等々だ。しかも排気量ごとに異なるから容易でない。特に自賠責保険を作成するには損害保険の資格が必要とのことで、近いうちに受験してもらうよと、先日も矢倉さんに言われていた。

 新しい職場も一週間が経つと、ゆとりが出てくるせいか、疑問が次々と出てきた。
 今こうして営業カウンター席に座っているが、特に何かをしているわけではない。初日に大崎社長がこう言った。
「座ってればいいよ。暇だったら雑誌でも読んでれば。雑誌読むのも勉強だから」
 教えに従い今日もモーターサイクリスト誌を開いているのだが、商品や営業マンのイロハ等々はいつ誰が教えてくれるのだろう。店長の松田さんからは自賠責保険の作成方法を聞いたが、社長からのレクチャーは、“在庫車を売る”ことと、至極簡単な注文書の記入説明だけである。デニーズだったらアルバイト相手でも最低一週間はレクチャーの嵐になる。<いらっしゃいませ、デニーズへようこそ!>は、どのような意味を含んでいるかというように、企業のポリシーにまで遡って、スタッフの仕事へ対する方向性に狂いをきたさないよう丁寧に説明していくのだ。

お悔やみサイト

 ふと、中学高校時代にとても仲の良かった同級生の名前が前触れなく脳裏に浮かんだ。
 彼はGという。
 十九歳の時に米国へ渡り、一旦はオクラホマ大学へ入学するが、何故か中退。その後はマイアミで仕事に就き永住権を獲得。フィリピン人と結婚すると子供にも恵まれ、自己所有の家まで手に入れた。
 二十数年ほど前までは、五~六年に一度、両親の住む日本へ帰ってきていたが、それ以降は全くの音信不通。
 コンタクトの術がない中、以前にも一度トライしたことがあるが、Gの名前をローマ字も含めてwebで再度検索してみたのだ。
 先回は全くヒットしなかったものの、今回は一発で引っかかる。
 いきなり彼本人や懐かしいおやじさんやおふくろさんの写真が出てきてびっくり。ところが何か様子がおかしい。実はこのサイト、米国版の“お悔やみサイト”だったのだ。恐る恐る見ていくと、忌日二〇二二年四月十一日とも記してある。狐につまされるとはまさにこのことか。
 同級生は今年で満七十歳を迎える。訃報が相次いでも決しておかしくない年齢とは言え、ここ二年の間で親しかった友人が三人も亡くなってしまうと、正直なところ気が萎える。

写真好きな中年男の独り言