平標山・天空の花園

 八月一日(木)。ひと月半ぶりの山歩きを楽しんできた。
 行先は天空の花園“平標山”である。
 平標山は群馬県みなかみ町と新潟県湯沢町の境に位置し標高は1983m。谷川岳~万太郎山~仙ノ倉山そして平標山と、谷川連峰の西端になり、三国街道側から容易にアクセスできるところが人気のポイントとなっている。登山口の専用駐車場は有料(六百円)だが、百五十台収容とキャパは大きくハイシーズンでも余裕がありそうだ。

 自宅を午前五時に出発。久々の関越道は流れがよく、登山口駐車場には七時四十五分に到着。見回すと平日だが私の他に十六台の駐車があった。道標がしっかりしているので登山口はすぐに見つかったが、いきなり急な階段の連続が始まり面食う。スタート早々から汗が滴り始め、タオルを首に巻き付けた。すぐあとから登ってきた若い女性ハイカーに涼しい顔でパスされると、その後ろ姿はあっという間に見えなくなってしまう。

 今回は上りが“松手山コース”、そして下山は“平元新道+林道”を使う周回コースで、平標山登山口~松手山(1613m)~平標山~平標山ノ家(山小屋)~平元新道~林道~平標山登山口となる。
 登山口から松手山までは約二時間の急登が続いたが、ずっと樹林帯の中なので、直射日光を避けられヒヤッとした空気感に包まれるのが唯一の救いだ。松手山からはちょっとだけ尾根を、“名もなき頂”の直下からは再び急登が始まる。ただ周囲は開けているので、どこからでも絶景が楽しめ、立ち休みのたびにポケットからRX100Ⅲを取り出し撮影となる。
 この稜線上にある“名もなき頂”。地図には記載がないが、円錐状のきれいな山で、どこから眺めても絵になり、頂上の前後には可憐な高山植物が咲き誇る、まさに天空の花園の中心にそびえ立つのだ。
 “名もなき頂”から平標山までは快適な稜線歩きが続き、遠く北側の山々も見渡せるようになる。絶景と花々に囲まれていると「これぞ登山!」などと思わず笑みがこぼれてきた。 

 平標山へ到着すると、山頂には意外や多くのハイカーが溢れていた。年配夫婦二組、年配女性ペア二組、単独男性と広い山頂は賑やかだ。
 ここから仙ノ倉山方面の眺めは素晴らしいのひとこと。稜線に延びる登山道にこちらへと向かて歩いて来るハイカーが小さく見え、その壮大なスケール感に圧倒される。体力さえあれば谷川岳までの長い稜線歩きにトライしたくなるほど魅力的な眺めだ。

 頂上へ到着と同時に雲が切れ強い直射日光が降りそそいできたので、ここは撮影と水分補給のみとし、早々と山小屋である平標山ノ家へ下ることにした。腹も減っていたが、やはり日陰で落ち着いて食べたかった。
 長い下りの階段からも飽くことのない景色が続く。
 
 平標山ノ家に到着してまず目に入ったのが、いかにも冷たそうに流れ出る“仙平清水”。今回の山行で反省すべきは水の準備量。事前に“てんきとくらす”で山域の気温を調べ、登山口から稜線までは24℃から18℃程度と確認、歩行距離等々を考慮しても1.5Lあれば何とか足りるだろうと判断。ところが思いがけなく前半の急登が堪え、滴る汗の分だけ補水が必要になってしまった。もし山小屋もなく仙平清水もなかったら、下山時は殆ど残量「0」となり、やもすれば脱水症状に陥り、大昔の汚点“長九郎山登山”の二の舞になるところだった。

 平標山ノ家は山小屋設備の他に避難小屋も併設しており、更にテン場もあるところから、あらゆる登山計画に対応できる機能を有してると言っていい。しかも管理が行き届いていて、設備はどこもかしこもとてもきれいなのだ。
 三十分近く避難小屋におじゃまして食事休憩をとり、ずいぶんと疲れが取れた。

 平元新道は殆どが手の入った木の階段になっていてとても歩きやすかった。森の緑も美しく、木々の間を流れる涼しい微風はほど良く汗を抑えてくれる。そんなことで林道に出るまではそれこそあっという間だった。ところがだ、ホッとしたのもつかの間、確認のために地図を広げたらこの林道、実に長い。順調に歩を進めても駐車場まで一時間はかかりそうだ。
 どっと疲れが出てきたが、振り返れば、心躍る稜線歩き、可憐な花々、そして仙平清水と、初めて足を踏み入れた谷川連峰は山の楽しさに満ち溢れ、リピートしたい欲求は大きいものだ。

硫黄岳・初夏

 どうやら週明けから梅雨入りとなりそうだ。当分の間、鉛色の空を見上げながら「山、行きてぇ~な」となるのは必至である。だったらその前に一本、歩いてくるかと山地図を引き寄せた。

 昨年八月の木曽駒ケ岳を最後に低山ばかりが続いていたので、たまには壮大な山岳景色でも拝んでみようと、選んだのは八ヶ岳連峰の硫黄岳(2760m)。
 硫黄岳は十二年前の七月に山友のMさんと登った以来となる。その時は桜平まで車で行き、夏沢鉱泉を経てオーレン小屋でテン泊し、初日に硫黄岳、翌日には天狗岳を回り、2500m越えの山としては蓼科山に続く三座目だった。
 山頂からの広々とした眺望と、赤岳を筆頭とする南八ヶ岳の山々が迫力を伴い眼前に現れたときには、ついに来たんだ!という実感に包まれ感動したものだ。それが強く脳裏へ焼き付いたのだろう、再び眺めてみたくなったのだ。

 六月二十日(木)。雲が出るのは午後からとの予報だったが、朝の中央道から見た西の空はすでにガスが山々を覆い始めていた。標高の高い山なのでちょっと心配である。
 今回のコースは十二年前とまったく同様とした。桜平から夏沢鉱泉、オーレン小屋、夏沢峠、硫黄岳、赤岩の頭手前分岐、オーレン小屋と、ぐるり一周する。
 桜平の無料駐車場は三カ所あって、登山口に一番近い順から、上、中、下と称され、当然“上”が最も使い勝手はいいのだが、webで調べると平日でも満車のことが多々あるとのこと。どのサイトも六十台のキャパがある“中”を推奨していた。
 その“中”へは八時少し前に到着。案の定、七割近く埋まっている。この様子では“上”に空きは期待できない。もっとも登山口までは徒歩で十五分もかからないので、それほど問題にすることではないのだ。

 歩き始めると徐々に昔の記憶がよみがえってきた。山道と並行する鳴岩川の美しい流れは変わらずで、渓流撮りのみの目的で訪れても面白いかもしれない。
 三十分もすると夏沢鉱泉が見えてくる。建物脇の大きな岩にザックを下ろし、甘いチーズパンを取り出し小休止。冷え冷えとした空気感に包まれ瞬く間に汗が引いていく。
 大体のハイカーはここで一服を入れるようで、人影が途絶えない。しばらくすると下山してきた年配男性が隣に腰かけてきた。「お疲れさん」と声をかけると、互いの年齢が近そうなこともあって、ぽつりぽつりと会話が始まった。
「だんだんと雲が出てきましたね」
「昨日は快晴でしたよ。オーレンにテント張って、朝一に硫黄岳登って、今降りてきました」
「失礼ですが、おいくつです?」
「六十六です。七十五まではテント背負って歩き回るつもりです」
「いや~パワフルですね。自分は六十九なんですが、テン泊は十年くらい前からしんどくなってそれからご無沙汰ですよ」
 この男性、自宅は同じ東京のあきる野市。よって奥多摩へはしょっちゅう出かけるが、北アルプスが好きで、その際も必ずテントを背負っていくという羨ましいほど豪快な人だ。

 夏沢鉱泉からオーレン小屋までの林道はずいぶんと整備が進んでいた。場所によっては大規模な崩落があったのか、道そのものを迂回させ、景観までが変わっている。
 オーレン小屋に到着すると、建物に少々のリニューアル跡が見られたものの、十二年前とほとんど変わらない雰囲気に懐かしさがこみ上げた。テン場は右手の一帯にも簀の子が設置され、より使いやすそうだ。登山中継点としては夏沢鉱泉以上に活気があり、テーブルコーナーは途切れることなく利用者が入れ替わる。隣では年配夫婦が山小屋の提供する料理を食していて、見た目からしてうまそうである。登山ルートに山小屋が含まれるときは、こうした利用方法もありだと思った。

 オーレン小屋からは本格的な登山道になるが、ここも整備が行き届いていてとても歩きやすい。北八ヶ岳の特徴である苔の森は美しく、傾斜は徐々にきつくなっていくものの、おいしい空気を思いっきり吸い込めば、まだまだ力が湧いてくる。
 ヒュッテ夏沢が見えてくると、同時に硫黄岳の荒々しい斜面が現れた。夏沢峠はちょうど北八ヶ岳と南八ヶ岳との境界になるという。ヒュッテの脇を抜け再び山道へ入ると、突如シカの親子が現れた。人間慣れしているようで、かなり距離を詰めて行っても平然と何かをついばんでいる。何とか5m近くまで接近すると、彼らが定める許容距離を越えたのか、静かに森の中へと立ち去っていった。

 森林限界を超え、今度はガレ場が続いた。傾斜はさらに増し、呼吸が徐々に苦しくなってくる。そもそも夏沢峠の標高は2430mあるので、酸素濃度は平地の76%しかない。ちなみに富士山の五合目が2400mである。当然そこから先は更にしんどくなるので意識して深い呼吸に努めた。
 頂上が近づいてくると、それまで歩いてきた道筋が見渡せる豪快な山岳風景が広がった。これを眺められただけでも来た甲斐があるというもの。立ち休みもかねて振り返っては幾度となくレンズを向ける。

 頂上直下、最後のひと踏ん張りと鞭を打った。
 硫黄岳の広く平らな頂上へ出ると、な、なんと大勢の若い子たちが屯っているではないか。それも半端な人数ではない。ちょうど男の子が二人近づいてきたので声をかけてみた。
「今日は林間学校なのかな?」
「そんな感じですね」
 話を聞くと、彼らは東京のひばりが丘にある“自由学園”の中等部の生徒で、赤岳鉱泉に宿泊しているとのこと。八ヶ岳登山は学校の恒例行事らしい。
「しばらく休憩してるの?」
「いえ、そろそろ赤岳鉱泉へもどると思います」
 おっとこれはまずい。先に出発しないと大渋滞に嵌ってとんでもないことになる。
「じゃ、おじさんは行きます」
「気をつけて」
 実にいい子たちだ。この素晴らしい山岳景観は間違いなく彼らの脳裏にも強く焼き付き、かけがえのない思い出となるだろう。


 急坂を下りきり、オーレン小屋への分岐を右へと折れる。周囲は深い森で、様相はまさに初夏。一番好きな山の季節だ。若葉が初々しい緑をこれでもかと見せつけ、溢れる生命力に圧倒される。
 分岐から一時間弱で無事オーレン小屋へ到着。今回は右膝の状態もすこぶる快調で、余力を残しつつ桜平へ戻ることができたのは幸いだった。
 改めて八ヶ岳登山の奥深さを確認できたとともに、充実感溢れる山行となったのは言うまでもない。次はルートを変えて天狗岳へトライしようか。

山との関わり合い

 ふとしたきっかけである書籍に目がとまり、即購入。一心不乱に読み進めた。
 その書籍とは、金 邦夫著の【侮るな東京の山】。
 著者は警視庁山岳救助隊員として定年退職に至るまで青梅警察署に所属、他の誰よりも奥多摩の山々に精通していた。その金氏が現役時代に経験した数々の救助活動を詳細に書き綴ったのが本書である。

 自宅から最も近い山域ということで、私に登山の楽しさを教えてくれたのは奥多摩である。おおよそ二十年前から足しげく通っているので、〇〇尾根から〇〇谷を抜けて等々、文中に出てくる捜索現場の七割以上はすぐに情景までが浮びあがる。さらにリアルを深めるために、読書の最中は常に昭文社の“山と高原地図”を脇に開いておいた。
―こんなところを下ったんだ……
―このコース、今度歩いてみるかな。
―何度も歩いたあの登山道から滑落なんて……
―これはありえる。気をつけねば。
―焚火しながらビバークね……
 ページをめくるに従い、文中の世界へと引き込まれていった。

 これから登山を始めようとする人はもちろん、十年、二十年のベテラン組も、ぜひ一度この本を手に取って、まずは普段見ることのない登山の裏側事情を知ってもらいたい。<遭難なんてするわけないよ>と思う気持ちのすぐ隣に“隙”という穴が開いていることを具体例と共に認識できるはずだ。
 後半は急増している中高年の登山者についての記述が中心になる。私も本年七十歳をむかえる高齢者のひとりなので他人事では済まされない。
 体力および判断力の低下、そして持病等々、加齢と共に登山への適応力は確実に減退していく。自分ではまだまだと思っていたが、この流れに抗えるはずもなく、一度真剣に山との関わり合いを再考する必要性ありと痛感した。

金 邦夫(こん くにお)
1947年:山形県生まれ。高校時代から山に目覚め、東北の山々を登る。
1966年:警視庁警察官になり、1970年に警視庁山岳会「クライム・ド・モンテローザ」を設立。
1977年:ヨセミテにおける山岳救助研修に参加。機動救助隊、五日市市警察署山岳救助隊、レンジャー部隊などを経て、1994年から青梅警察署山岳救助隊副隊長として奥多摩に勤務。
2003年:警視庁技能指導官(山岳救助技能)の指定を受ける。警察功労賞、警視総監賞詞、人命救助の功績による警視総監賞など受賞多数。
2008年:定年退職。以後再任用、嘱託員(山岳指導員)として後進の指導にあたる。
2013年:山岳救助隊退任。
2024年3月23日:心筋梗塞により急逝