十月六日(水)。紅葉のチャンスを逃してはならぬと、数年ぶりとなる北八ヶ岳を歩いてきた。
北八ヶ岳には小沼が多く点在し、秋になれば鮮やかな色合いでハイカーを迎えてくれる。特に亀甲池、双子池は秘境感も十分あって、何度訪れても飽くことはない。
登山の起点は、蓼科スカイラインにある大河原峠駐車場。五時半過ぎに自宅を出発した。関越自動車道、上信越自動車道と順調に進み、下仁田ICで降りた。ここから一般道をひたすら一時間半走ってやっと装着。日帰り登山の距離的限界かもしれない。途中、上里SAで朝食をとったり、下道ではセブンで水と食料の買付やらと、なんだかんだで登山開始は十時近くになってしまった。
大河原ヒュッテは蓼科山をバックに、燦々と降り注ぐ陽光の下にあった。森の色付きは申し分なく、昨年の瑞牆の森といい、ここのところ紅葉撮影はジャストタイミングが続いている。
今回は池巡りが目的であるが、最短ルートで回ると、三時間弱ほどのハイキングレベルで終わってしまうので、せっかく来たのだからと、蓼科山荘経由の大回りルートにトライした。登山地図で確認すれば、所要時間五時間弱とちょうどいい。
ところが歩き始めて早々に、蓼科山界隈の特徴を忘れていたことに気がつく。
― やっぱり最短ルートでいいかな…
と弱音が出る。特徴とは、殆どの山道がゴロゴロ岩でできていて、おまけに急峻で大きなステップだらけなのだ。つまりのことタフで且つ非常に歩きにくい。特に下りでは細心の注意が必要になる。足を乗せた岩がゴロッとくれば捻挫だってありうるのだ。佐久市の最高標高地点(2,380m)まで上がってきた時は、気温十五度以下なのに既に全身汗まみれ。それでも蓼科山荘へたどり着いたときはまだ余力があったので、休憩は入れず、そのまま天祥寺原へ下ることにした。
― こんなに急坂だっけ?!
下りのラストには水なしの河原歩きまである、一瞬の油断もならない急降下が続く。気も使うが大腿筋の稼働率100%なので、大げさではなく、池巡りのまえに膝が笑い出しそうだ。ところが蓼科山は人気の山。この激坂を下りきるまでに八名のハイカーとすれ違う。その中には明らかに七十歳を超えている男性三人組がいた。汗が噴き出した顔面には苦悶の表情だけだ。黙々と上っていく彼らのガッツを見ると、これしきの山歩きで弱音を吐いたら罰が当たると、ふんどしを締めなおす。
天祥寺原まで降りてくると、その素晴らしい紅葉風景に疲れも吹っ飛ぶ。本当にいいタイミングてきたものだ。ちなみに新しいDeuter にはヒップベルトにポケットが付いていて、GRデジタルがうまい具合に入る。だから被写体を見つけたら、サッと取り出して撮影できるのだ。一面のクマザサ野原の上に浮かぶ蓼科山や北横岳が望める天祥寺原は最高のハイキングポイント。
少し歩くと亀甲池への道標が見えてきた。以前、亀甲池を訪れたのは盛夏だったから、その違いが大いに期待できそうだ。
しばらく上りが続くが、そのうちに平たんな道となり、ここでも紅葉を愛でながらの歩きを楽しめた。
前方にちらりと水面に反射する光が見えた。待っていたのは怖いほどの静けさだ。池の周囲に十五、六人のハイカーで賑わっていた記憶とは全く異なる、まるで静寂の画のようだ。もちろん色付いた木々もあるが、それより広い水辺にただ一人佇む贅沢な時間に、瞬きをすることも忘れていた。
そのうち日の傾きに気がつくと、否応なしに気分は急く。カロリーメイトとポカリでパワー充填。双子池へ向かう。
北八ヶ岳は白駒池周辺を代表とする苔で有名だが、亀甲池と双子池の間に広がる苔の森も素晴らしい。大小の岩と木々が作り出す特異な景観は、まさに自然が作り出したアートといった趣で、できれば腰を据えて撮影したいところ。ただ、今日は時間がない。次回があればぜひ時間を取りたい。
双子池に到着すると、午後の様相はさらに深まっていた。
池の周囲はキャンプエリアになっていて、色とりどりのテントが十張り近く立っている。今頃のテント泊は最高だろう。嫌な虫も少ないし、気温もちょうどいい。しかも池の畔というSituationがなんともたまらない。ヒュッテの前まで来ると雄池が見える。池の周囲は鮮やかな黄色と赤に彩られ、それは見事のひとことに尽きた。ここも時間をかけてレンズを向けたかったが、ささっと三、四枚だけ撮って、最後の目的地である双子山を目指して出発した。
双子山は大河原峠からのアクセスは容易だが、ここ双子池からは急登を強いられる。今回のルートの最後の上りだけあって、体力的にはしんどい。歩み出すと一度引いた汗が再び滴り落ちてきた。しかしこの坂、どこかと雰囲気が良く似ている。頭をひねってみると、二年前に歩いた根子岳から四阿山の上り返しにそっくりだ。急斜面は深いクマザサに覆われていて、山道は大きなステップと太い木の根が多く、よっしゃと気合を入れながら一段一段上がっていく感じなのだ。背後から来た四十代と思しきカップルに、いとも簡単に抜かれてしまうが、とてもではないが追尾していくスタミナは残ってない。体と脚に鞭を入れ、最後の上りをクリアしていく。
暫くすると鬱蒼とした樹林帯の先に青空がちらつき始めてきた。頂上は目と鼻の先だ。
三百六十度の視界は想像以上だった。パノラマとはこのような景観をいうのだろう。特に浅間連山へは遮蔽物がなく、ダイナミックな眺めが広がっている。時間は押していたが、この絶景を端折って下るわけにはいかない。カメラを手に持つことも忘れ、ただひたすら眺め続けた。較べることではないが、普段歩く奥多摩とはあまりにスケール感が違い、改めてここは八ヶ岳なのだと実感した。
人の気配を感じて振り向くと、大河原峠の方からピンクやブルーのウェアをまとった若い女性三人組がちょうど上がってきたところである。案の定、全員感嘆の連呼だ。
「すごーい!」
「ねえねえあそこ!町が見える!」
「絶景絶景!」
その気持ち、わかる。
「こんにちは」
「こんにちわぁ!!」
この時間から上がって来たということは、今夜は双子池ヒュッテに泊まるのだろう。夕暮れ時、そして朝靄がかかる双子池が見られると思うと、素直に羨ましい。
風が冷たくなってきた。素晴らしい景色に後ろ髪をひかれつつ下山することにした。
急峻で岩だらけの山道、シラビソの森、豊かな苔、ひっそり佇む神秘的な池、そしてでっかい空とでっかい景色。久々の北八ヶ岳は、これでもかと“らしさ”をアピールしていた。