前線が去ると再び酷暑が舞い戻ってきた。近所のスーパーへ買い出しに行くだけで汗が噴き出る猛烈な熱波の再来だ。こうなると用足しでもない限り、エアコンのきいた部屋から出る気は失せる。そして日がな一日読書やら映画鑑賞になる。ただ、そればかりでは精神的に疲れてくるので、たまには高原のような自然な涼しさの中に身を置くことも大切ではなかろうか。
清里もいいが、久々の上高地も魅力的。しかし週間天気予報を確認すると、何れも曇りや雨とよろしくない。そんな時、ふとレンタルバイクのお客さんとの会話を思い出した。
「今日はどちらまで行かれるのですか」
「時間が許せばビーナスラインまで足を延ばそうかと」
「へ~、あそこは夏限定ですからね。軽装だとちょっと寒いくらいですよ」
ビーナスラインといえば霧ヶ峰。高原ハイキングのメッカでもある。バイクツーリングでは何度となく走ったことはあるが、ぐるりと歩き回ったことはない。しかもラッキーだったのは、清里から直線距離で40kmほどしか離れてないのに、天気予報は晴れを示していたのだ。
八月二六日(木)。五時半に自宅を出発、一路霧ヶ峰へ向かう。中央自動車道の流れはすこぶるよく、朝食を予定していた双葉SAではゆっくりと時間をとることができた。こちら方面へ出掛ける際は必ずといって立寄るSAで、ここでの朝食は四~五年前から完全にルーティンとなっていた。
諏訪ICを降りて国道二十号をしばらく走り、元町交差点を右折する。あとは道なりだ。食料と水は、途中ファミマで買い込んだ。
今回の散策ルートは八島ヶ原湿原駐車場を起点に、奥霧小屋~物見石~蝶々深山~沢渡~諏訪神社~八島ヶ原湿原駐車場と回るもので、所要時間も三時間半とちょうどいい。アップダウンの緩い高原なので、普段の山行と比較すれば体力的にずいぶんとゆとりがでるはずだ。ただ、プラス一時間ほどの撮影時間は念頭におかなければならない。
ビーナスラインへ入ったとき、POLOの外気温度計に目をやると、23.5℃を示していた。すかさずエアコンを切ってウィンドウを全開にする。爽快!これぞ高原の空気だ。諏訪の市街地では37℃だったから、その差13.5℃、まさに天国と地獄。
駐車場へは九時過ぎに到着。驚いたことに平日にもかかわらず七割方埋まっているではないか。見まわすと六~七人ほどのハイカーが今まさに出発しようとしている。私もα6000の予備バッテリーを確認、ビーナスラインの下を抜けるトンネルをくぐって、八島ヶ原湿原へと踏み出した。
最初に待っていたのは胸をすく壮大な眺め。自然の作り出す造形には度々驚かされる。それに今日はスカッと晴れ上がり、天気最高なのだ。もくもくっと夏をアピールする雲が湿原の美しさを際立たせる。ただ、このような風景は、意外や写真に収めようとすると難しい。うまく捉えたと思ってPCで再生すると、悲しいかなスケール感が殆ど出てなく、想像していた画とは全く異なってしまうことが屡々だ。それでも頑張って木道を歩きながらベストビューを模索した。
ひんやりとした微風のおかげで殆ど汗をかかないが、広い高原には殆どといって遮蔽物はなく、もろに直射を浴び続けることになる。ふと両腕を見ると既に真っ赤。どうみても一皮むけそうな感じだ。
奥霧小屋を過ぎると、それまでの木道ではなく普通の山道へと変った。最近雨が多かったのか、いたるところにぬかるみができていて歩き辛い。今回はスニーカーを履いてきたが、登山靴にすればよかったと後悔。目の前のせせらぎが増水し、流れは渡した木の橋の上をなめている。登山靴だったらそのまま行けるが、スニーカーでは間違いなく浸水だ。
この辺りから道は少しづつ上っていったが、登山のような急登ではなく、あくまでも緩やかなので、息が切れることはない。高度が増していくと湿原全体が見渡せるようになり、度々歩を停めてはその素晴らしい景色に見とれてしまった。
物見岩の手前から山道に岩が多くなり、足元に神経が集中する。やっと稜線らしきものが見え始めたころ、ふと顔をあげると、前方から四名のハイカーが降りてくるのが目に入った。先頭は単独の年配男性、次はちょっと間を置いて小学生の男の子を挟んだ家族三人連れだ。そしてその単独男性が近づいてくるにつれ、容貌に目線が張り付いてしまう。理由は、どこから見てもあのシンガーソングライターの“みなみらんぼう”にそっくりなのだ。実はらんぼうさんの住まいは私の自宅のすぐ近くで、ときたま見かけることがある。そんな見慣れた目もあり、おもわず「みなみらんぼうさんですか?」と声が出かかった。しかし寸前で止めた。よく似ていることには違いないが、若干背が低い。らんぼうさんは今年で七七歳を迎える高齢者だが、同年代には珍しく背が高い。その点、単独男性は明らかに体躯自体が一回り小さい。声をかけなくてよかった。期限でも悪くされたら困ってしまう。
単独男性をやり過ごすと間を入れず三人家族とすれ違った。最初は若い奥さん。ぱっと見でもわかるキュートな方だ。続くは息子さんであろう男の子。お母さん似かな。そして最後のご主人が脇をとおりかけたときまたまたどっきり。
実は毎朝六時から三十分ほど町内を回るリチャードの散歩は私の役目であるが、そのルート上にALSOKの事務所があって、そこへ出勤してくる背の高い醤油顔の男性に良く似ているのだ。今回はつばの広い帽子をかぶっているので若干印象が異なるが、伏し目がちなところなど、同一人物と断定してもいいくらいだ。気になる……
ひと汗かいて物見岩に到着。ぐるり三六〇度の展望は見事である。暫しここで休憩をとることにした。清々しい空気に包まれていると、暫くしてうとうととしてきた。サマーベッドでもあればすぐにでも寝落ちしそうだ。
足音に反応し、顔を上げる。数分だが本当に寝てしまったようだ。見れば同年代ほどの男性ハイカーが近づいてくる。
「こんにちは」
「今日は天気がいいですね」
「久々ですよ、こんな日は」
聞けば、彼は地元諏訪の住人で、この界隈へはちょくちょく歩きに来ているらしい。不安定な天候が二~三週間も続いていたので、待ってましたとばかりに早朝から歩き出したというが、その気持ちは十二分に分かる。
一旦丘を下り、車山山頂を見上げる辺りまで来ると、探していた沢渡へ向かう道標が目に入った。ところが近づいても肝心な道が見当たらない。示す先へ目を凝らすと、右手にそびえる丘へ向かうそれらしきものを発見したが、よほど人通りが少ないのか、ふみ跡を直接見ることができないほど草に覆われている。地図でも確認したので間違いはないはずだが、ちょっとだけ不安。車山へと通ずる道には多くのハイカーがいるのに、これから上る丘の方面に人影は全くない。
熊笹をかき分けながら一歩一歩頂を目指した。今回は長ズボンを履いてきたが、これが短パンだったら脛は傷だらけだろう。空がどんどん大きくなってきたとき、右手にケルンが見えた。ルートに間違いはなかったようだ。これで一安心。ここからはビーナスライン方面へ向かってひたすら下るのだ。
ちゃんとした高原散策は今回が初めてになるが、一般的な山歩きとはまた違った楽しさがあり、もっと前からトライしておけばよかったと、ちょっぴり悔しく思った。ここ以外にも、清里、那須等々、調べれば魅力的なところがたくさんあるに違いない。
林道に出て湿原方面へ少し歩くと、左手に建物が見えてきた。脇に小川の流れがあっていかにも高原らしい。看板を見ると「ヒュッテみさやま」とある。入り口の前にベンチがいくつかあって、二組の年配夫婦が休憩中だ。腕時計を見るとそろそろ午後一時になるので、私もランチにすることにした。
二つ目のパンにかじりつき、ボトルに半分ほど残っていたミネラルウォーターを一気に飲み干すと、突如湿原方面から見覚えのあるハイカー達が現れた。物見岩ですれ違った三人家族だ。つまり彼らは私と正反対のルートを歩いてきたわけだ。言葉は交わさなかったが、同じ時間、しかも似たようなルートで互いに霧ヶ峰を味わっているという共通項だけで、ふわふわっと親近感が湧いてくるから面白い。
久々に楽しい一日を味わえた。