バイク屋時代61 オープンと閉店

 2015年2月。HD三鷹がオープン。見積もりをはるかに超える開店経費に、当初は暗澹たる雰囲気が流れていたが、そんな心配をよそに好調の波が延々と続いた。HDJが毎年評価する<全国ナンバーワンディーラー賞>を、オープン一年目で狙えるのではと店長である阿木の鼻息は荒い。スタッフ皆の頑張りが実ったのはもちろんだが、HDJが推進する新店舗規格に賛同しかねるディーラーが現れ始め、多摩地区の二店が更改を拒否、看板を返納したのだ。そのあおりを受けてHD三鷹の商圏は広がることとなり、車両購入、サービス関連共々、新規客が急速に増え始めた。これにより嬉しい悲鳴はいつしかただの悲鳴になり、オープン一年目を待たずしてスタッフの疲弊はピークに達した。特に工場のオーバーワークは著しく、納車や一般整備にクレームが出るほどの遅延が出るようになった。苦肉の策として、当面の間、一見客の受付を中止にし、既納客のカスタム依頼に対しても、純正パーツ以外の取付けはお断りとにした。これにより客離れも若干出てしまったが、対応としては致し方ないものだった。そして懸念はしていたが、離職が再び相次ぐようになる。

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 HD調布時代に中途採用した営業マンの大島は、ガタイがよくて明るい男。入社以降は俺の下につけて若手営業マンとして頑張っていたが、三鷹店の人手不足を解消するために異動が決まった。彼も三鷹店の様々な噂は耳に入っていたので、通達後は見るからに元気がなくなっていた。
「社長の考えだからしょうがないですけど、大島のやつ、あっちにいかせて大丈夫ですかね」
「今は三鷹のスタッフの負担を考えてやらなきゃ駄目だろう」
 三鷹店の状況を直接見ているわけではないので確かなことは言えないが、スタッフの疲弊を作り出している要因には、なにか内部事情が関係しているように思えてならなかった。一見客を断ったり、クイックを予約にしてもらったりと、できる範囲で仕事量の調整は行っているのだ。
 
 トラックのパワーゲートを操作する音がしたので、工場へ行ってみると、大島が下取の中古車を押して裏庭へ並べているところだった。学生時代にラグビーをやっていただけあって、重量が370kgもある大型のストリートグライドを軽々と取り廻している。もっとも、力だけではああはいかないが。
「おはようっす」
「ご苦労さん。どうだい三鷹の方は」
 三鷹と発したとたんに表情が曇る。大崎社長が言っていたが、大島はよほど三鷹勤務が嫌なのか、社長と会うたびに、いつ調布へ戻れるのかと聞いてくるそうだ。
「忙しさは平気ですけど、なんかあそこ、居辛いんですよね」
「なにがそう感じさせるの?」
 口角を上げるも目は笑ってない。
「どうしても合わない人が二人ほどいるんで」
「誰」
「まっ、いいじゃないですか」
「よくないよ」
 あとからわかったことだが、どうも店長の阿木と先輩営業マンの下田に対して不満があるようだ。大島の言い分だけでは判断しかねるが、阿木は責任感が強く、自他ともに対しとても厳しい男だ。彼独特のストレートな物言いは、なにかと誤解を招く。それとなんにでも首を突っ込むところがあって、不足があれば自分でかたずけようとし、しまいには自滅するという傾向があるらしい。
 下田も阿木とやや似たようなところがあり、波長の合わない相手とは無意識に距離を置くタイプだ。
 一方大島はまじめによく働くが、やや甘ったれたところがあり、仕事であってもその中に人情やウイットを感じないと力を発揮できないという、手のかかる男だ。ただ、お客さん受けはよく、彼目当てに来店する既納客は多い。
「とにかく爆発する前に社長と腹割って話せよな」
「もう導火線に火がついてますよ」
「おいおい」

 そんな中、中古車店の引っ越し先にめどが立った。三鷹店の常連さんが経営している会社の倉庫スペースで、広さとしてはぎりぎりだが、二階部分も使えるらしく、部品庫の心配がなくなり、即契約へと駒を進めた。場所は調布店から甲州街道を西へ約1km行ったところ。間口は南向きで街道沿いとなる。先回の三鷹店、そして今回の中古車専門店と、店舗物件には驚くほど恵まれている。
 そしてこれを機に、大崎社長はドゥカティ正規ディーラーの看板を降ろすことを決めた。長らくドゥカティメカとして頑張ってくれた坂上健治は辞意を固め、家族と一緒に故郷の福島へ帰ることになり、店長の大杉くんも、既納客のフォローに一段落がつけば離職すると社長へ伝えたようだ。
 ドゥカティディーラーの立ち上げを共に汗した二人が去るという現況は、モト・ギャルソンの一時代が完全に終わったことを意味し、言葉にならない脱力感に包まれた。特に大杉くんは、吉祥寺店時代からずっと同じ店で働き、街の小さなバイク屋、大型店舗、そして輸入車の取り扱いと、会社の変革そのものを支えてきた同僚だったので、寂しさはひとしおである。完全にハーレー一色となった職場を改めて見回せば、俺自身、ここから去る日もそう先ではないなと、新たな人生に思いを馳せてしまう。

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 15年前の2011年3月11日(金)14時46分18秒。
 この時俺はHD調布の二階総務部にいた。突然の強い揺れをうけて、社長ディスク脇の本棚が倒れそうになり、慌てて押さえた際に眼下のショールームを見下ろすと、展示車両がゆらゆらと揺れている。
「バイクやばいな!」
 大声を出すと同時に、武井くんが階段を駆け降り、展示台に乗ったバイクを押さえた。しばらくすると商談カウンターにいた社長が二階に上がってきて、安堵の表情を見せた。
「よかったよ、お客さんのバイクが倒れなくて」
 展示車両が倒れた場合は店舗保険の対象になるが、預り車は対象外なのだ。定期点検で預かった百万円ものカスタムを施したバイクを考えればぞっとする。しかしハーレーは車重があって重心が低く、しかもサイドスタンドをかけた状態ではかなり傾くから、揺れにはけっこう耐えた。これは発見だった。あとで聞いた話によると、近くのBMWモトラッドでは、センタースタンドで展示していた車両二台が倒れてしまったらしい。
「この状態じゃ商売にならないから、今日は解散にしよう。すぐにご家族と連絡を取ってください」
 社長に言われるまでもなく、皆必死に携帯を操作している。
「だめだ、全然つながらない」
「あたしも駄目です」
 そんな中、女房の携帯へは二度のトライで繋がった。たいがいのスタッフの携帯はFOMAだったが、俺は依然MOVAを使っていたのだ。少数派だったから回線が空いてて繋がりやすかったのかもしれない。
「今どこにいる?」
「もう会社出て青梅街道を歩いてる」
「わかった。とにかく四面道まできて、そこで待機してて」
 当時、女房のパート先は新高円寺にあったのだ。
 すぐに着替えて自転車を出した。俺は杉並店勤務の頃から通勤に自転車を使っていた。退職まで延べ十七年間、ひたすらペダルを漕ぎまくった。

 甲州街道はすでに交通量が増え始めていた。天文台通りを上がって東八通りに出ても同じ状況だった。こんな時の自転車は機動力がある。歩道を含めてどこだって走れるから、渋滞なんて関係なしだ。
 自宅へ到着すると、すぐに車を出した。井の頭通もそうだが、下りの交通量は急速に増えている一方、上りはそれほどでもなく、女房を荻窪まで迎えに行くにも問題はないと判断したのだ。案の定、青梅街道も上りは動いていたが、下りは早くも強烈な渋滞が始まっていた。目を見張ったのは、溢れかえる歩道上の徒歩帰宅者。初めてはっきりとクライシスを感じ取れた。
 八丁の交差点に近づくと、ガードレール脇にたたずむ女房の姿を発見。クラクションを鳴らす。
「おつかれ」
「ありがとう」
 ハンドルを左に切り、桃井の住宅街へ分け入る。この辺は杉並店勤務時代に掌握しつくしたところだ。ひんしゅくではあったが、一方通行は無視してひたすら住宅街を突き進んだ。途中、青梅街道を横断して善福寺に入り、同じく住宅街をあみだくじのように車を走らせた。帰宅は十九時過ぎと、思いのほか早かった。ちなみに、うちの娘の職場は水道橋にあるのだが、当時彼氏だった今の亭主が車で迎えに行き、連れて戻ってきたのは、日が変わった二時過ぎだった。

 店は翌日から開けたが、当然ながら商談客など来るわけもなく、整備仕事だけを黙々と進めた。ところが物流が止まった影響で、ガソリンスタンドに燃料が届かず、すぐにトラックの燃料タンクは底をつき、立川の車検場へ行くこともままならない。近所のガソリンスタンドが再開後も、燃料を求めた車が長蛇の列を作り、数時間待ちが常態となった。
 揺れが落ち着くと同時にTVのスイッチを入れたが、スタッフ達と一緒に見た津波の恐ろしい光景は、今でも鮮明に思い出すことができる。


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