バイク屋時代64 見えてきた潮時

 うちも含め、バイク業界はなんとかコロナ禍を乗り越えた。最も被害が大きかった宿泊業や飲食業と較べればかすり傷程度ではなかろうか。リーマンの時もそうだったが、バイクも特に輸入車やオーバーナナハンクラスになれば、完全に趣味の範疇であり、不況には比較的影響されにくいカテゴリーに入る。日常品には節約の意識が生まれても、趣味や好きなことに対しては金を惜しまないのが人の常。簡単に諦めがつくものではない。

 プライベートな話になるが、コロナ禍が徐々に落ち着きを見せ始めたころ、施設に入っていた親父が、誤嚥がもとで容体が急変、三鷹にある総合病院へ救急搬送された。老人に多い誤嚥性肺炎である。症状は比較的軽かったが、さすがに九十五歳の体には堪えたようで、日が経つにつれ嚥下がままならなくなり、急速に体力が失われていった。担当医師から胃ろうの相談も受けたが、こんな状態で生きながらえても、本人はもちろん俺も含めた家族の心情は辛くなるだけ。むしろ親父には良い意味で楽になってもらいたいという一念から、この話は丁重に断りを入れた。それから十日後、いつも通りに出勤すると、先に来ていた海藤くんが、
「ほんの五分前にご家族の方から電話があって、すぐに病院へってことです」
 死に目には間に合わなかったが、頬に手を当てると、まだわずかなぬくもりが感じられた。
 それから一年後、九十歳になるおふくろが同じく老衰により永眠した。
 納骨式が終わって一息つくと、これからの人生を考える自分がいた。
 もう充分働いた。娘も結婚して幸せな家庭を持った。あとは悠々自適にやればいいだけ。俺も今年の十月が来れば満六十九だ。

 三十四歳から三十五年間、がむしゃらに働けたのは、飯よりも好きだったバイクを扱える仕事に就けたからだ。もちろん職務上のことで落ち込んだことは幾度もあるが、バイクと接していると、いつしか笑顔が戻り、気持ちも和らいだ。
 良き時代の国産四メーカーや、輸入車のビューエル、ドゥカティを扱えたことは本当にラッキーだった。現在はハーレーを中心に中古車を扱っているが、たまに最新鋭のレプリカモデルや、一昔前のドゥカティSSなどが下取りで入ってくると、性懲りもなく嬉しくなる。
 大昔、友人たちと三人で伊豆の白浜にテントを張り、高校生活最後の夏を謳歌したことがある。遊泳中であろうと何をしていようと、バイクが海岸通りに入ってくると、発する排気音に反応し、岬の先に消えるまでその疾走する姿を追ったものだ。俺たちは電車とバスを乗り継いでここまできたが、バイクで海へ行くなんて、なんて羨ましいことかと、出るのは溜息ばかりだった。
 大学へ進学し、一時は車にのめり込んだが、社会人になって資金に余裕が出てくると、二輪車免許を取得して、中古車だが欲しかったヤマハ・RZ250を入手。その年の末に公開された映画『汚れた英雄』を弟と二人で観に行けば、弾かれたように“伊豆スカ詣”が始まった。加速、排気音、革ツナギ、フルバンク等々、バイクのあるべき姿はここにあると心底思った。そして爺さんになった今も、それは変わらない。
 七十になる前に退職しようとは、だいぶ前から考えていたこと。ぎりぎりまで頑張ってもあと一年ちょっとだ。三十五年間を振り返ると、いろいろなことを思い出すが、やはり数々のインパクトあるバイクとの出会は強く胸に刻まれている。次回からは、そんなバイクの話も披露していこうかと考えている。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です