

























六月十日(水)。梅雨に入る前に、高原の花畑をぜひ見てやろうと、すずらんが最盛期を迎えている入笠山と周囲の湿原を歩いてきた。長野県にあるこの山は、花の百名山にも数えられていて、季節ごとに美しい開花を楽しめることはもちろん、頂上に立てば三百六十度の豪快な眺望が待っている。しかもこの山はゴンドラを使えば苦労せずに登頂ができるので、近年の低山ブームで脚光を浴びている。

いかにすずらん祭りが開催中としても、ここまでハイカーが大挙して押し寄せているとは思いもよらなかった。
入笠山へは沢入登山口からスタートする計画だった。ところがグーグルナビを頼りに車を走らせていると、駐車場直前の交差点に男性が立っていて、停車を求めてきた。
「登山口の駐車場は七時半の時点で満車になりました。すみませんが入笠山へはゴンドラをご利用ください」
いくらなんでも平日である。それに時計を見ればまだ八時半。旬な時期の盛況さを見くびっていたようだ。ナビをゴンドラ駅で打ち直すと、目と鼻の先だったのがせめてもの救いである。
ゴンドラ乗り場に隣接する第一駐車場に入れたが、第二、第三があるってことは、週末は大変なことになるのだろう。ゴンドラの往復乗車券は2,700円。早速購入し乗り込んだ。ゴンドラは六人乗りだが、列に並んだ客はそれほど多くなかったので、四名ずつ誘導された。年配夫婦、三十に届くかという若い女性、そして私である。ゴンドラが動き出してしばらくすると、
「ここ、初めてなんです」
景色を興味深そうに眺めていた年配の奥さんの一声で会話がスタートした。私が沢入駐車場での一件を話せば、
「家が近いんで、一度登ったことはあるんですけど、すずらんの時期じゃなかったんで」
と、若い女性も入ってくる。会話が弾んできたころ、ガタンと大きく揺れて山頂駅へ到着。
「気をつけて」
それぞれが異なる道へと歩き出した。
アカノラ山方面へ向かう樹林帯を数分行くと、突如目の前に広々とした草原が広がった。ここが入笠湿原である。木道が縦横無尽に広がり、スマホやカメラを花に向けている人たちが大勢目に入ってくる。皆ここへ訪れた目的は同じらしい。右手から反時計回りでスタートするが、足元へ目を凝らしていないと、あちこちに顔を出している小さな花を見過ごしてしまいそうだ。今回の持参機材はもちろんα7Ⅲ+SIGMA 20–200mm。湿原の広大さをとらえる20mm。花にぐっと寄れるハーフマクロ機能。さらには八ヶ岳最高峰の赤岳山頂までクローズアップ可能な200mmと、にやついてくるほどこれ一本で自由自在な撮影が可能だ。Nikon用だが、同じSIGMAのArt 24-105mm F4 DG OS HSM以来、手に入れて本当に良かったと感じたレンズである。
山彦荘を過ぎ、入笠山へ向かう。やや大きなステップが続く右コースを、汗をかきかき三十分ほど上がって行くと、前方が開け、頂上へ出る。小学校の高学年と思しき大勢の児童たちが昼食中だ。危険個所がないコースのわりに、すばらしい眺望が堪能できるので、小学生の遠足にはぴったりかもしれない。八ヶ岳、南アルプス、中央アルプス等々が望めるが、どこもやや雲が出ていた。特に八ヶ岳連峰の高所近辺には端から端まで雲がかかっていて、ちょっと残念。
上面が平らな岩があったので、腰かけるとランチ休憩にした。
体調がいいせいか、歩き始めからやけに腹が減る。調達した食料は、おにぎり一つとパンが二つ。あっという間に平らげたが、まったく足りない。なにげにザックのベルトポケットを弄ると、あるではないか、カロリーメイトが。先回の上高地の際に買ったものが半分残っていたのだ。
休憩後は仏平峠へと下っていく。三十分ほど行くと、最後の撮影地である大河原湿原に出る。さすがに入笠山の南側まで足をのばすと、ハイカーの姿はぐっと減り、気持ちのいい山歩きを楽しめる。気温も少し上がってきたので、ウィンドブレーカーを脱ぎ、長そでシャツ一枚になる。
ガイドブックに一周三十分とある大河原湿原の木道を歩く。青い空に沸き立つ真っ白な雲が夏をアピールする。人の気配はまるでなく、湿原を抜ける爽やかな風を独り占めだ。林道へ向かって上り坂を進んでいくと、こちらへ向かってくる人影が目に留まる。徐々に近づいていくと、
「あら、またお会いしましたね」
ゴンドラで一緒だった若い女性だ。その時はマスクを着けていたが、今は素顔をさらしている。ちょっとびっくり。こぢんまりとして清楚さを感じる美人だ。彼女、実家はこの近くだが、現住所は愛知で、山歩きは大好きだそうだ。進む方向が同じならもう少し話がしたかったが、残念である。
「それじゃお互い気をつけましょう」
「ですね」
数年前にも、八ヶ岳の硫黄岳から下山して、POLOを停めた桜平の駐車場まで戻ってきた時、名古屋から一人で来たという、ポニーテールが似合うスタイル抜群の若奥さんと、ひょんなことから話が弾んだことがあった。一人でもテン泊するほどの山好きで、暇を見つけては装備を積んである車で遠征するそうだが、山ではめったに見られない美人だった。ご主人はアウトドアに興味がないので、いつも単独行とのこと。いやはや、いるところにはいるもんだ。

ゴンドラの山頂駅へ無事たどり着き、さっそく乗車しようとすると。係員が、
「お一人ですか? 」
上りも下りも客が少ない時間帯だったので、ゴンドラへは一人で乗せてもらえた。
「はいどうぞ」
なんと冷たいおしぼりを手渡された。思いがけないことだったのでびっくりしたが、なんとも気の利くサービスでだ。ハイキングしてくれば、誰だって体は汗でべとついている。そんな時におしぼりで顔や手を拭えば、気持ちのいいことこの上ない。入笠山界隈の印象はとてもよかったが、最後の最後でさらにそれは増したようだ。