
















早朝五時にPOLOのエンジンをかけた。パネルへ目をやるとうんざり。外気温計がすでに28.5℃を示している。愛すべき日本の夏はどこへ行ったのか。
今回の目的は、野反湖畔に咲き誇るノゾリキスゲ(ニッコウキスゲの地域名)を愛でつつ、トレッキングも楽しみ、さらに下山後は草津温泉の湯畑でシャッターを切りまくること。
群馬県中之条にある野反湖は、標高1500mにたたずむ天空の湖。ノゾリキスゲは湖の南端、富士見峠を中心に群生している。咲き乱れる鮮やかな橙黄色を楽しんだ後は、弁天山を経由して標高1,744mのエビ山に登り、キャンプ場へ下山したら、湖畔東側コースでゴールへ戻るというもの。つまり野反湖一周だ。
それにしてもこの涼しさは宝物級。時折雲の切れ間から降りそそぐ陽光は強く、ジリジリと肌を焼くが、それでも気温が26℃しかないので、実に爽やかだ。弁天山への上りにかかってもまったく苦を感じるどころか、周囲はノゾリキスゲの他、さまざまな植物が開花していて、去年の夏に歩いた花の山・平標山の尾根道のようだ。ただ、登山道は背丈ほどもある笹薮で終始し、歩きやすいとは言い難く、おまけに鋭い棘のあるアザミがいたるところに待ち構えているから油断ができない。もし半袖短パンで歩いていたら、腕には無数のかすり傷、脛は血だらけになったこと間違いなし。
小さなアップダウンを繰り返し、徐々に標高を上げていくと、野反湖が見え始める。
「こんにちは」
70代後半と思しき小柄な男性が下ってきた。赤銅色の肌は山慣れを誇っているかのようだ。
「この先は滑るから気をつけてください」
「ありがとうございます。慎重に行きます」
笹薮はたっぷりと雨を含んでいるので、すでにズボンはけっこう濡れている。ただ、登山道はそれほど気になるほどでもないが…
ところが十分ほど進むと、注意喚起の意味が分かった。急坂が待ち構えていて、おまけに登山道には土が顔を出し、踏みどころを間違えるとズルっとくる。しかもこの急坂、けっこうしんどい。瞬く間に汗が噴き出してきた。息を整えつつ、水分補給をしつつの登りが続いた。
上方に人の気配を感じて顔を向けると、トレラン姿の若い男性だ。
「こんちわ。 頂上はもうすぐですよ」
「どうも」
笑顔に白い歯がまぶしい。しかしトレランとは言えども、この下りは慎重にならざるを得ないだろう。
平らなエビ山の頂上へ出ると、暫しの一服。東側の山並みには広くガスが張っていて見通しがあまりきかない。あんぱんとポカリがやたらと美味い。
キャンプ場への下りではさらに笹薮の勢いが増し、足元などほとんど見えない。こんな時は躓きに注意だ。思わぬ怪我をする。
炊事場の脇を通り抜けるとテントサイトに出た。開放感、景色と、言うことなし。ここだったら一度くらいは利用したいもの。入り江のようなところに小さな橋が架かっていたので渡ってみると、水面が近くなり、湖水の透明度がかなり高いことがうかがえた。はす向かいの岩場では男性が釣竿を振っている。ここはニジマスとイワナの交配種である“ハコスチ”が釣れることで人気があるようだ。
ダムを渡り、管理棟を左手にしながらそのまま車道をすすみ、十分ほどすると湖畔に降りるハイキングロードの入口が見えた。この辺まで来ると、さすがに疲れが出てきた。スタートからすでに五時間近くが経過している。
ゴールが近づいてくると、丘の上にある富士見峠の休憩舎が見え始め、周囲は再びノゾリキスゲの群生地となった。
今回はせっかく野反湖まで行くので、おおよそ三十年ぶりとなる草津温泉に宿を取っていた。いつものように素泊まりである。
「予約してある木代ですが」
「今日はハイキングだったんですか」
なりで分かったようだ。
「野反湖をぐるっと」
「それじゃすぐに温泉入ってください。うちのは自慢なんで」
私と同年配ほどの女将。笑顔溢れる優しい表情は、長年の接客業で培われたものだろう。
「ありがたいですね~」
さっそく浴衣に着替えて浴場へ行ってみると、草津温泉ならではの硫化水素の匂いに満ち溢れていた。好き嫌いはあるかもしれないが、いかにも温泉といった匂いは旅情を掻き立てるものだ。誰もいなかったので、のびのびと体を洗い湯船へ。熱めの湯だったが、少しずつ慣らして首まで浸かる。いやはや、気持ちがいい。この程度の山行なら、ちょっと前までは日帰りだったが、この頃ではゆとりや余裕を重視するようになり、登山で出かけた土地の何がしかも、一緒に感じてみたいという気持ちが高まってきている。
一時間ほどの仮眠を取ってから、湯畑に向かった。













坂を下り、左へ折れて西の河原通りに入る。軒を重ねる旅館と土産物屋。さすが日本三名泉に数えられるだけのことはある。人通りが多くなってくると間もなく湯畑に到着。ホテルから十分ほどか。
ここもインバウンドの波が押し寄せている。そぞろ歩く外国人観光客は、ぱっと見ても二十人以上。観光庁なるものを設立し、観光立国を目指した結果が表れている。
五時半だと陽は落ち切ってないので、ライトアップはまだのようだ。今回は湯畑の撮影を楽しみに、RX100Ⅲのほかにα6500も用意した。
さて、その前にビールで喉を潤わそうと、店探しをスタート。さすが一級観光地だけあって、湯畑のぐるりは、平日でも閉まっている飲食店はないようだ。とある居酒屋の前を通ると、店内が見渡せ、カウンター席が空いていたので入ってみた。
「いらっしゃいませ! おひとりさまですか」
案の定、カウンター席をすすめられた。元気があって笑顔もいい。
「とりあえず生ください」
「大きさはどうしましょう」
「大生で」
肴には牛筋の煮込みを注文した。
道に面した焼き場には窓はなく、裏口もオープン。天然の風が入り込むのでエアコンは使ってない。ちょっと汗ばむレベルだが、それがいい。
煮込みは出汁が何とも深い味わいで、それを吸い込んだ豆腐がGoo。味は濃いめではないが、ビールがどんどん進んだ。
「おかわりください、地ビールで!」
このあと客が立て続けに入り、テーブル席の半分が埋まって賑やかになる。温泉場だけあり、浴衣姿の女性客が多く、とってもいい雰囲気。ついつい目が吸い寄せられ、酔っぱらいの己を戒める。

微酔でシャッターを切りまくる楽しさったらありゃしない。湯畑は完璧にライトアップされ、見物客もかなり増えている。疲れも酔いも回ってきたところで、明日の朝食分をセブンで買い込み、ホテルへと踵を返した。ちょっと名残惜しいと感じるほど、界隈は被写体に満ち溢れていた。
と、その時。ぽつり…
こいつは早く戻らねばと歩を速めたが、群馬の夕立は待ってくれなかった。直後、滝のような大雨となったのだ。カメラをコンビニ袋へ入れて、きつく口を結ぶ。しかしこれだけ強い雨になると諦めもつく。全身ずぶ濡れも時と場合によっては悪くない。ホテルへ戻って温泉へ直行。ちょっとだけ冷えた体に草津の湯が染み入るようだ。
酔いが回っていたこともあるが、エアコンはかけずに、網戸から流れてくる雨音と外気を感じつつ、ぐっすりと眠ることができた。