俺が高校生の頃(昭和四十六年前後)、バイクはギターと並んで、多くの男子生徒が喉から手が出るほど欲しいアイテムの代表格だった。仲間が集まり会話が始まれば、話題はたいがい女の子かバイクか音楽。これは間違いなく全国区だったろう。もちろん俺もバイクは欲しかったが、当時の風潮であった“バイクとエレキは不良の始まり”が我が家でも強力に根付いていて、親からは絶対に手を出すなと再三釘を刺されていた。当然免許など取れるはずもなく、友人のスーパーカブを借りては、親とお巡りさんに見つからないよう、こそこそと欲求を晴らしていた。
高校三年生の秋。通っていた学校が日本大学の付属高校だったので、エスカレーター進学を決める恒例の統一テストなるものが行われた。幸いなことに希望の学部へ滑り込むことができてひと安心。こうなれば二学期、三学期の期末試験なんぞは形だけ。あとは卒業するその日まで遊び放題やり放題!
余談だが、懐かしの母校にはふたつ上の先輩に女優の松坂慶子さん、そして同級生には元キャンディーズの伊藤蘭ちゃんがいた。
冬休みの初日。クラスメイトの中田が突然うちへやってきた。なぜか乗ってきたバイクを一週間ほど預かってほしいと言う。中田は学業優秀にもかかわらず、ぱっと見はヤンキー調なやつだったので、その大きなギャップからクラスでは“謎の男”と囁かれ、けっこうな人気者だった。
「預かるだけなら親もいいってさ」
「わりーな」
預かったバイクはけっこうなオンボロ。よく見ればメインスイッチが取り外され配線を直結してある。まさか盗難車ではないと思うが、謎の男が乗ってきたバイクなのでやや不安。ただ、車種はヤマハの人気オフロードモデル“DT1”なので、どの角度から見てもたまらなくかっこいい。もともと野山を走りまくるバイクだから、少々ボロくてもむしろ雰囲気が出てそのワイルドさが倍増する。もちろん車体からほとばしるオーラはスーパーカブの比ではない。
翌日の朝。トイレに行こうと廊下を歩いていると、門の脇に置いたDT1に朝日が反射し、俺に乗ってくれと言わんばかりに光り輝いていた。
昼飯の後、誰も見ていないことを確認、そっとDT1を表の道路へ移動させた。250ccともなるとさすがに重く、スーパーカブとは大違いの重量感だ。門の段差を越えるとき危うく倒しそうになり冷や汗が出た。
路肩に停めてサイドスタンドを下ろしキックアームを出す。ステップに立って思いっきりけり下ろした。かからない。もう一度繰り返す。かからない。これを五度繰り返した時、「パパン、パンパンパン」とついに火が入った。けっこうやかましい音にびっくり。これではおふくろか、さもなければ爺ちゃんに見つかってしまうので、急いでエンジンを切り、更に先の角まで押していった。
再びエンジンをかける。ギアを一速に入れて恐る恐るクラッチを繋いでみた。すると、悲しくもプスン。エンストである。気を取り直してトライアゲイン!
二度目はうまくいった。
おっおっおっおっ! 走り出したぁー!
いやはや力が半端じゃない。スーパーカブと比較するのもなんだが、まるっきりの別物。二速にアップしてクラッチをつなぐと、フロントが浮いたような感じがして、バランスを崩しそうになる。
うおっ! こ、こわぁ……
かなり乗り込まないとこんなモンスター、とてもじゃないが運転できない。衝撃の体験はバイクへの憧れをさらに膨らませた。
しかし当時の流れでもあったが、大学生になるとバイク所有の夢は残しつつも、徐々に目線は車へと移っていく。
大人への仲間入り、小さな俺世界、彼女とラブラブドライブなどなど、十九歳の男子にとって乗用車は様々な欲求を満たしてくれる夢の乗り物なのだ。そんな俺にとってトヨタ・セリカ1600GTVは、青春時代を共に走りぬいた最高の相棒になった。実はある条件を呑む見返りに、おやじが買ってくれたのだ。
九十手前だった爺ちゃんが、膀胱がんにかかって寝たきりになってしまい、尿道へ挿入してあるパイプを一週間に一度交換する必要があり、それまで吉祥寺にあった泌尿器科へは毎回タクシーを使っていたのだが、行きにしろ帰りにしろ、呼んでもタイムリーに来てくれることは少なく、更に病人は乗せたくないのか、終始仏頂面の運転手もいたりして、おやじも俺もけっこうなストレスになっていたのだ。
「車買ってやるから、そのかわり毎週爺ちゃんをたのむ」
「わかった」
「中古だからな」
さっそく当時つきあっていた彼女の兄貴に頼み込んで、憧れのGTV探しをお願いした。実はその兄貴、都内で整備工場を営んでいて、車を買うときはお願いしようと、彼女を通して根回しをしていたのだ。
そもそもうちにマイカーはなかった。爺ちゃんは戦前からの警察官で、馬に乗って警らをしたり、T型フォードのパトカーに乗ったり、通勤にインディアンの赤バイ(現在の白バイ)を使ったりと、乗り物好き極まる男だったらしい。だがその職務故に嫌になるほど交通事故を見ることになり、息子たち、つまり俺のおやじにも車は乗るなと言い聞かせてきたのだ。おやじ自身も東京電力の総務課に勤務していて、社風から交通事故など起こせば即降格人事になりかねないんだと諦めていた節もあったようだ。
どの角度から見てもセクシーなフォルム。さらにフロント、リア共々フルオープンになるウィンドウは、走り出すと抜群の解放感を与えてくれる。そして最高出力115馬力を誇るDOHC・2T-Gエンジンの咆哮はマシンと呼ぶにふさわしく、学生時代の五年間(一留年)はセリカのある毎日にとことん酔いしれ、正直バイクのことは忘れていた。
苦労の末、何とか大学を卒業すると、ファミリーレストランのデニーズを運営する株式会社デニーズジャパンへ入社。実社会の厳しさはある程度覚悟していたが、常態化された長時間労働が作り出す劣悪な労働環境は想像を超えるもので、蓄積する疲労は回復することがなく、貴重な休日も週に一日取れれば御の字という最悪な状況。プライベートを楽しむゆとりなど物理的にも皆無に等しく、特に埼玉エリアで新店オープニングメンバーになってからは、平均睡眠時間が四時間と、毎日考えることはただただ逃避。ある休日、ついにペンをとると退職願を書き始めてしまう。
「こんな環境じゃ、もう続けられないです」
困惑顔の店長はすぐに本部へ連絡、その翌日にはエリアマネージャーが飛んできた。
「おまえの地元の東京へ戻すから、そこでいったん頭を冷やせよ」
仕事そのものは嫌いじゃなかったので、ここは一度折れてもいいかなと、指示をのんだ。東京エリアの出店ペースは、他地区と比較してかなり穏やかだったのも決断の理由のひとつである。
それから数年がたち、いい意味でも悪い意味でも仕事に慣れ、手の抜き方がわかってきたある日、愛読書だった少年マガジンに掲載されていった話題のニューモデル“ヤマハ・RZ250”の広告に目が止まった。過激なキャッチコピーはさておき、そのスペックに震えがきたのだ。
高校時代にちょっとだけ味わった友人のDT1を思い出し、あれの上を行く性能ってどんなものだろうと、忘れかけていたバイクへの興味が一気に再燃した。
参考までに、DT1の最高出力は18馬力、これに対してRZは30馬力もあった。