バイク屋時代 1・好きなことを仕事に

  一九八八年二月一日(月)。新しい仕事が始まった。頑張れねば家族が路頭に迷う。まさに後戻りのできない崖っぷちに立ったのだ。
 モト・ギャルソン三鷹店の営業カウンターに腰を据えると、真正面の見慣れた水道道路が、やけに寒々しく感じた。不安と気負いが胸中を圧迫するのか……
 そんな入社初日から早三十六年の月日が流れた。バイク業界からきっぱりと足を洗い、悠々自適な日々を送る今日この頃。光陰矢の如しとはよく言ったものだ。

 前職であるファミリーレストランチェーン“デニーズジャパン”は二部であれ上場企業である。そこから小さな町のバイク屋に転職するなんてことは、周囲の雑音に耳を傾ければ、無謀、バカだぁ~、もったいね~、生活は?、なんてところが連発するだろう。事実ごく親しい友人にも、
「おまえさ、先々のこと考えた?」
 と、説教じみた嫌みをくどくどと聞かされた。
 世間一般、バイク屋のイメージなんてものは、自転車屋に毛の生えたような小さな店で、汚ねえツナギを着たおっさんが、スパナを握りつつ仏頂面で作業をしてるってなところだろう。どの角度から眺めても、発展性などという力強さは見いだせない絵面だ。
 しかしあの頃のデニーズの生活には、絶えず不満と不安が付きまとい、精神的には八方ふさがりの状態だった。頭の中はいつだって、もういい十分働いた、そして頭の悪い上司と仕事をするのは我慢ならぬ!が、渦巻いていた。
 てなことで、現況から一日でも早くおさらばしたかったが、その前に次の仕事を見つけなければない。先のことを考え、慎重さをもって吟味することは当然だが、素直な胸の内を明かせば、“好きなこと”を仕事にしたかった。よってモト・ギャルソンだったら頑張れると思った理由のひとつに、“バイク好き”がことのほか大きく占めていた。ただ現実問題、給料の手取りがかなり下がってしまったのは頭痛の種ナンバー1だった。間違いなく女房に苦労をかけることになる。新居探しも家賃の上限がネックになり難航した。そしてやっと見つけた物件は築年数が長く、見るからに疲れたアパートで、日当たりも悪く、すえた匂いが気になった。
「いいよ、ここで。なんとかなるでしょ」 
 気丈な女房はそう言ってくれたが、表情には落胆と諦めがありありとうかがえた。俺のわがままが家族に迷惑をかける現実は胸苦しかったが、こんな時だからこそ早く仕事に慣れて、少しでも多くの給与をもらえるようにと鞭を打ち続けたのだ。

 一九八〇年代後半、バイク業界は空前のレプリカブームに湧いていた。レプリカとはレーシングレプリカの略で、サーキットを疾走するレーシングバイクのスタイルはそのままに、公道仕様へと改良したバイクのことだ。これに皮ツナギを着込んで跨れば、気分はグランプリレーサー。俺もイタリア・ダイネーゼ製の皮ツナギを手に入れ、エディ―・ローソンになったつもりで伊豆スカイラインを飛ばしたものだ。ただ、当時の愛車は一九八〇年発売のヤマハ・RZ250だったので、レプリカとはだいぶ異なる地味なデザイン。皮ツナギとのマッチングはイマイチである。
 そもそもなぜレプリカブームが到来したのか。それはワールドグランプリ(WGP)の頂点である500ccクラスの大活況が影響したことにある。


 一九八三年。“キング”と呼ばれた絶対王者ケニー・ロバーツと、若き挑戦者フレディー・スペンサーによる、熾烈極まるワールドチャンピオン争いはその最たるもの。最終戦まで息もつかせぬデッドヒートを繰り広げ、バイク好きの誰しもが、そのリザルトを確認しては一喜一憂したものだ。俺もバイク雑誌の発売日には、何をおいても書店へと駆け込んだ。
「くっそぉ、またスペンサーかよ!」

 出勤初日は朝から強い北風が吹きまくっていた。
「よろしくお願いします」
 スタッフ一人一人へ挨拶をすませ、皆が引き上げた後、配属店である三鷹店のショールームを商談コーナーからぐるりと見まわした。
 店前の展示コーナー左側には色とりどりのスクーターが並べられ、右側には人気のホンダCBX400F、スズキのRG250Γがかっこよく展示されている。その横には修理車らしき二台が置かれているが、商品との混在で見た目が悪い。
 店内に移ると、正面ウィンドウの脇に昨年発売されたヤマハのユニークなモデルSDRが、きらりとフレームに陽光を浴び、いかにも“イチオシ”と言わんばかりに展示台の上に載せられている。
 商談コーナーの右手には、スチール製の展示ラックが置かれ、ヘルメットを中心に、グローブ、レインウェア、バイクカバー等々が並び、左手はこじんまりとしたサービスフロントがあった。メカの武井くんが何やら伝票記入中である。
 商談カウンターの上には、バイク雑誌、最新式スクーターのカタログが雑然と置かれ、吸いさしが山盛りとなった灰皿がそのままになっていて、アバウトな社風をありありと感じさせた。
 それにしてもこのショールーム、空気が悪るすぎる。紫煙が充満してまるで雀荘のようだ。モト・ギャルソンのスタッフにはタバコが好きが多く、特に社長の大崎さんは極端なチェーンスモーカ―。愛煙銘柄はニコチン、タール共に少ないライトタイプだが、驚くことに一日に四箱近くも吸いまくる。出勤してから退社までの間、食事以外は絶えず煙草をくわえている猛者ぶり。私も煙草を嗜むので、最初はそれほど気にならなかったが、呼吸の度に大量の副流煙を吸い込んでしまう劣悪な職場環境は、今時だったら間違いなく訴訟レベル。
 社長より年上で、おばちゃまの下山専務も負けちゃいない。彼女はタバコを吸っていないと会話が進まない性分らしく、特に他人の中傷話が始まると、プカプカ、ペラペラ、プカプカ、ペラペラと絶好調になり、しまいには吐き出す多量の紫煙で彼女の姿は見えなくなる。
 総務の矢倉さんだってなかなかだ。吐く息がむせるほどヤニ臭く、笑った時に見せる歯は見事なタール色。おまけに彼は地黒で顔も黒いから、この笑顔はかなりキモイ。ザクトライオンでもプレゼントしようかと思ったが、嫌みだと思われるのは間違いない。

 さて、こうしてバイク屋の営業スタッフとして新しい生活が始まったわけだが、当然おぼえなければならないことは山ほどある。バイクは趣味として親しんできたので、好きなスポーツモデル関連ならば、素人とは言っても商品知識には自信があったが、スクーターやそれ以外のジャンルは殆ど未知の世界だったので、早急な知識武装が必要だった
 覚えることはバイク本体だけではない。商談が成立して契約書を作るには、車両代以外に諸費用という項目を書き込む必要があり、それは名義変更代、納車整備代、重量税、自賠責保険等々だ。しかも排気量ごとに異なるから容易でない。特に自賠責保険を作成するには損害保険の資格が必要とのことで、近いうちに受験してもらうよと、先日も矢倉さんに言われていた。

 新しい職場も一週間が経つと、ゆとりが出てくるせいか、疑問が次々と出てきた。
 今こうして営業カウンター席に座っているが、特に何かをしているわけではない。初日に大崎社長がこう言った。
「座ってればいいよ。暇だったら雑誌でも読んでれば。雑誌読むのも勉強だから」
 教えに従い今日もモーターサイクリスト誌を開いているのだが、商品や営業マンのイロハ等々はいつ誰が教えてくれるのだろう。店長の松田さんからは自賠責保険の作成方法を聞いたが、社長からのレクチャーは、“在庫車を売る”ことと、至極簡単な注文書の記入説明だけである。デニーズだったらアルバイト相手でも最低一週間はレクチャーの嵐になる。<いらっしゃいませ、デニーズへようこそ!>は、どのような意味を含んでいるかというように、企業のポリシーにまで遡って、スタッフの仕事へ対する方向性に狂いをきたさないよう丁寧に説明していくのだ。


「バイク屋時代 1・好きなことを仕事に」への2件のフィードバック

  1. つづく・・・って感じでしょうか?後も期待します。
    18歳から今66歳まで。最初の数台は上野のバイク街で買った中古車でバイクライフが始まりました。そんなわけで整備してもらえるお店がなく、マニュアルもなく自分で整備していました。困った時はスズキやホンダの直営店に直してもらいました。ちゃんと自分のオートバイライフを親身にケアーしてくれるお店をもつこと。それがひとつの希望でした。結局、そんな店は出来ませんでしたね。モトギャルソンに行くまでは。
    木代さんとの出会いはいいバイク屋の主にやっと巡り合えたって感じです。横で微笑んでいる社長も信頼出来ました。整備もばっちりです。木代さんが退職された後、先日、ロードグライドの車検とオイル漏れの修理(ガスケット類交換)をまるっとやっていただきましたが、いい仕事をしてもらったと思っています。
    木代さんとの出会いに感謝です。

    1. いつもごらんになっていただき、ありがとうございます。
      “バイク屋時代”は続きますので、よろしくお願いします♪
      今、必死になってキーを叩いていますが、書き進めていくとかなり記憶が薄れているのに愕然。
      思い出してはメモを取り、それをとにかく繋げているところです。
      ただ、三十六年間に及ぶバイク屋での生活には、新行内さんをはじめ、バイク好きな皆さんにとってこのまま私の胸にしまってはちょっともったいないエピソードが多々詰まっています。
      仕事? 趣味?? ゆる~~い世界へようこそ☆

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