若い頃・デニーズ時代 55

鈴木さんの来店以降、パタリと店に来なくなった佐々木。それはそれで大いに助かったが、肝心な売り上げがここ2カ月ほど低迷しており、未達成はおろか前年実績を大きく割りだしていた。
暴力団騒動に気を取られて、売り上げ管理ができてない等々、上から降り注ぐ声は辛烈極まりないが、売り上げ目標はUMにとって最大の管理項目だけに、一言の反論もできないのが現実だ。
前年割れは殆ど全てのシフトに見られたが、特にディナータイムと週末の売り上げダウンが著しかった。ディナーと週末は客単価が高いので、ここの客数減が結果に繋がっているのだろう。
何れにしても頭が痛い。
ぎょろ目事件以来イライラが解消することはなく、精神状態は絶えず不安定になっていた。

そんなある日。
いつも通りに高田馬場駅の改札を6時ジャストに通過すると、通勤ピーク前の静かな駅前を抜けて店へと向かった。
この頃では通勤に電車を利用することが多く、仕事上がりの疲れた体には、座っているだけで三鷹駅まで連れて行ってくれる電車の方が楽と思うようになっていた。
朝から交通量の多い新目白通りまで下ってくると、これから仕事だというのに何故だか疲れが出てきた。
濁流のような車の熱気、騒音が精神を苛立たせるのかもしれない。
横断歩道を渡れば職場は目の前。

「おはようございます」
「おはよう」

新見和子の笑顔にはいつも安堵感を覚え、多少だが気持ちが楽になる。
事務所へ行くとUMITの児玉さんがレジ上げをしていた。残高がぴったりとくれば、長いグレビーの仕事から解放だ。

「おはようございます。今日は15時頃にバスヘル希望の面接があるのでお願いします」
「大学生?」
「いや、高校生二人です」
「二人か、、、友達同士かな」
「なんかそうみたいですよ」

このパターンはよろしくない。大概の場合、二人一緒に採用してくれという話になる。
バイトであろうと仕事は仕事。クラブ活動のように考えている若者は困りものだ。仮に採用しても、辞める時二人一緒に“はいさようなら”となることが多く、安定化した戦力にはなかなか成り得ない。
しかし高田馬場店は平日でも来店客数が1,000名にも上るので、マンニングテーブルの管理は何より優先され、穴をあけることは絶対に許されない。よってアルバイトの登録人数も70名越えと桁外れだ。もちろん土曜の深夜帯のみ4時間だけとか、早朝6時から9時までで週2回といったアルバイトも含めているが、そんな彼ら彼女らをうまく繋いでいき、適正人員配置をキープしていくのがコツなのだ。前UMの利尻さんの頃は、一時的だとしても、社員を含めた全従業員数が120名オーバーだったというから凄い。営業時間の長さにもよるが、一般的なデニーズ店舗の総従業員数は25~30名であるからその規模が伺える。

「マネージャー、すみません、ちょっといいですか」

新見和子の表情は緊急事態を伝えていた。嫌な予感である。

「どうした?」
「酔っ払いが他のお客様にからんでいるんです」

すぐに現場へ行ってみると、恐らく40歳越えであろう浅黒く体格のいい男が隣のカップル客へ向かって一方的に何かを話しかけている。カップル客は迷惑至極がありありだ。

「あの、お客さん、すみません。こちらの方に話し掛けるのはちょっと、、、」

すると、瞬時に物凄い形相となり、睨まれた。澱んだ眼は尋常でない。かなり酔っているようだ。
恐らく周囲に客がいなければ、胸ぐらを掴まれて殴りかかってきただろう。それほどの殺気がストレートに伝わってきた。ところが威嚇はものの数秒で立ち消え、薄気味の悪い笑みを放ったと思ったら、「ふん」と一言放って、おぼつかない足取りでそのまま表へと出て行った。
ホッとはしたが、何気に後味が悪い。何故なら浅黒い奴の第一印象が気になるからだ。スーツは着ていないが佐々木と同じ匂いがしないでもないし、そもそも目つきが素人とは違うような気がする。
この件から第二の佐々木になったらえらいことである。

もやもやを抱えながら事務所へ戻ると、バッグから会議用の書類を取り出し確認した。
今日は午後から池袋サンシャインシティ内にある池袋店で組合関係の会議があるのだ。ランチピークが終えたら出掛けるが、車だと10分ほどで到着するところを、この頃では通勤にもっぱら電車を使っているので、30分を掛けて山手線で行かなければならない。

「中ノ森さん、それじゃ行ってきます。会議が長引いたら直帰しますのでよろしく願います」
「ました。いってらっしゃい」

14時過ぎ。まだ殆ど満席に近い店を後にした。例の朝の一件は既に忘れかけていた。
横断歩道を渡り、日本〇〇同盟の入るマンションの前を通過しようとしたとき、突如入り口脇の陰から男が飛び出してきて腰を掴まれた。

「おい!なにするんだ」

振り返って男の顔を見たとき、血の気が引いた。あいつだ、朝の浅黒い男だ。
それにしても凄い力である。

「話がある。エレベーターに乗れ」

やばい展開になりそうだと感じつつも、後ろ手にされ強引な力でエレベーターに押し込まれた。
3階で降りると同時に顔面を殴られ、羽交い絞めにされる。抵抗を試みるが全く自由が利かない。すると思いっきり体を押されて道路側まで来ると、な、なんと手摺を超えて道路へ落そうとするではないか。ここではっきりと命の危険性を感じた。するとどうだ、自分でも信じられないほどの火事場の馬鹿力が噴出、男の右顎に肘打ちを食らわせ、間を入れずに膝へ蹴りを入れた。一瞬体は自由になったが、男は素早く下駄を脱いで、それを思いっきり顔面に振ってきた。
目じりに強い衝撃を感じたが、意識ははっきりしたままだ。次の瞬間、まんま100mを10秒切る勢いでエレベーター脇の階段へ走り込んだ。逃げないとこのままでは本当に殺される。ステップはもちろん5段飛び。男の足では追ってこられないだろうし、エレベーターを使っても追いつけないだろう。
道路へ出るとそのまま駅方面へ駆けていき、偶然たまたま見つけた空車のタクシーを止め車内へ飛び込んだ。

「とにかく出してください」
「どうしたんですか、その顔」

顔全体に熱を持ち、特に右目の周りがずきずきする。そっと触れる僅かだが出血もしていた。しかし脱出できた安堵感はこの上なく、山手線のガードを通過する頃には気持ちも落ち着きはじめ、改めて運転手に自宅まで行ってもらうようお願いした。

「それにしてもひでえな。昼間っから喧嘩かよ」

自宅に戻ると、たまたま家にいた弟が呆れ顔である。

「馬鹿言え、殺されかけたんだぜ。まあいいや、カメラある? この顔撮ってくれよ」

証拠の確保と記念である。
残念ながらこの写真は後に紛失してしまったが、殴られて顔が腫れたのは大学生の頃以来である。
一応近所の開業医で診てもらい、その後店並びにDMへと状況報告を済ませ、もちろん警察へも通報して傷害事件として調べてもらうことにした。
勤務は怪我の療養として1週間休ませてもらい、その間に担当となった目白警察署に出向いて詳しい話をすることになった。この時、取調室というものを初体験した。机と椅子しかない殺風景な小部屋だが、椅子に掛けるとすぐに警察官が分厚いファイルを3冊持ってきて、私の目の前に置いた。

「これ、前科者リスト。片っ端から見てもらってその男を探してみてよ」

ファイルを開くと初っ端から悪そうな顔、顔、顔が続く。正面左右から撮られているが、どれを見ても悪人そのものである。しかしこれを全部チェックしなければと思うと辟易したが、浅黒くがっちりしたあの男は、幸いなことに最初のファイルに載っていた。

「こいつですよこいつ!」
「こいつか。前科4犯、全て刃物と覚醒剤が絡んでますよ。しかし素人相手は今回が初めてかな」

名前は久瀬一郎。やはりヤクザであった。
もしかして店に来た時も襲われた時も、覚醒剤を使用していたのではないだろうか。本当に怖いことである。
この後、久世がいつ逮捕されたかは定かでないが、佐々木との諸々も含めて、かなりテンションが下がっていたのは事実である。
何とはなしに予想していたが、1週間の休養が終わって出社すると、その日の内に土田DMが来店し、小金井南店へ異動だと聞かされた。
理由は肉体的にも精神的にもこれだけ傷を負えば、超繁忙店である高田馬場店のオペレーションは難しいといったニュアンスらしいが、現に売り上げは落ち込んでいたのだから、お前のレベルでは高田馬場店は任せられないと営業部が判断したのである。
入社以来、順風満帆にやってきただけにこの辞令は辛かったが、一連のヤクザ騒動は己の判断が甘かったことに原因の一端があることは否めず、これによりスタッフ全員に迷惑をかけたことは事実なのだ。
忙しい中ではあったが、更に1週間の休暇を申請し、心機一転できるよう心の整理を図ることにした。


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