若い頃・デニーズ時代 52

忙しい毎日にも慣れ、自分なりのリズムで仕事ができるようになると、案の定、緊張感が薄らぎ、気怠ささえ覚えるようになってくる。しかしこんな時は管理面に隙が出て問題を見落とすことが多々あるもの。いつでも初心に戻れる柔軟な気構えが必要だ。

久々にキッチンへ入って、在庫量やプリパレの状態、そしてソースの状態等々をチェックした。“切らすと回らないから多めに”というのが当店の常習ではあるが、全て任せっきりにしてしまうと、変色したトスサラや、乾ききったサーロインステーキ、更には“うどん化”したスパゲティー等々が大量にトラッシュ缶へと破棄されていたりする。
他にもフォワードの発注量がやや多めなので調べてみると、スノコ磨きの際の希釈量が殆ど原液に近いものだったりと、油断も隙もない。
こんな時は、マネージャー全員が判断基準を統一し、各々の持ち場で責任を果たしていくことが肝心である。

早朝6時前。いつものように地下鉄東西線高田馬場駅の改札を抜けた。
こんな時間帯でも駅前には多くの通勤者で溢れかえり、都会のボリュームを感じるところだ。
駅からは神田川へと下っていき、新目白通りに出れば店は目と鼻の先である。所要時間は10分も掛からない。

「おはようございます」

店の冷房で生き返るようだ。今日は朝から憂鬱になるほど蒸し暑い。
そしてレジ横を通ろうとしたとき、

「マネージャー、ちょっといいですか」
「どうした」

児玉UMITが意味ありげな目線を送ってきた。
深夜勤務明けなので疲れはピークなのだろう、目にクマができている。

「実は昨夜の12時ごろ、ちょっとした事件があったんです」
「それって、うちが関係していること?」

児玉さんは懇切丁寧に一件の一部始終を語り始めた。
それによれば、昨夜の午後9時過ぎに8名の暴走族っぽい若者達が来店し、窓際のテーブル3つに分かれて、それぞれ飲み物を注文した。何気に目をやると、会話の合間にもやたらと外を気にしている様子で、これから更に仲間が集まってくるのではと不安が高まったが、そんな心配をよそに、1時間、1時間半と時だけが過ぎていった。
ところが10時半過ぎ、店の外から無数のバイクの甲高い排気音が聞こえたかと思った瞬間、それまで大人しくしていた若者たちが脱兎の如く店から飛び出ると、車道へ出て落合方面からやってきたバイク10台余りの暴走族集団へと向かっていったのだ。それまで気付かなかったが、店前の生垣の陰に仲間と思しき数名が木刀を持って潜んでいたらしく、なんと走るバイクへ木刀を連打、店前は大乱闘騒ぎと化したのだ。
まさかとばっちりは来ないだろうと思いつつも、店内はざわついたという。
しかし騒動はこれだけでは終らなかった。
いつの間にか反対車線を越えて、どう見ても暴力団と思しき二人が修羅場へと乱入。「うるせーこの野郎!」と雄たけびを発しながら若者たちを片っ端から手加減なしに木刀で叩き始めたのだ。さすがの暴走族もこれにはひるんだようで、店から飛び出た方も走ってきた方も、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていったのだ。この数分後には5~6台のパトカーが駆けつけてきたが、現場には置き去りにした2台のバイクと、相当な怪我を負ったのだろう、動けなくなった若者ひとりだけが残った。
以上がことの顛末だが、最近、新目白通りを暴走族集団が走るのが日常茶飯事になっていて、目立つことを好む彼らにとっては終夜営業している店は格好のアピールポイントらしく、案の定、店の前まで来るとスピードを極端に落として空ぶかしや三連ホーンをこれでもかと鳴らし続けるのだ。
実はこれが大きな問題の発端となろうとは、この時夢にも思わなかった。

「マネージャー、〇木さんという方から電話が入ってます」
「〇木さん?」

覚えのない名前だ。なぜか嫌な予感がした。

「はい、店長の木代です」
「あんたが店長か」
「さようでございます」

直観だが、この相手は普通の人ではない。声からして50前後、有無を言わせない圧力を感じる。

「あんたんとこの営業さ、午後11時で閉めてくれよ」

いきなりである。
何を言っているのか分からないし、はなっから一方的だ。

「どうゆうことでしょうか」
「こないだの乱闘の件は知ってるだろ。あんな煩いガキどもがしょっちゅうきたんじゃ眠れないんだ。だから言ってんだよ」
「分かりました。すぐに上司に報告いたします」
「上司もいいけどさ、詳しく話すから一度事務所へ来てくれよ、な」

これは参った。事務所と言っても普通の事務所と違うことは小学生でも分かりそうだ。こんなことは初めての経験なので、既に頭の中は真っ白。とにもかくにも上司に相談するしかない。
事務所の場所と電話番号を教えてもらうと、追って連絡すると告げて一旦電話を切った。
つい最近DMの異動があって、新任となった土田DMのポケベルへ電話を入れたが不安は膨れるばかり。これからランチが始まろうというのに、全く気が入らない。土田DMから電話が掛かってくるまでの間、時間が止まったのかとイラつくほど長く感じてしまった。

ランチがひと段落した15時。やっとDMから折り返しがあった。

「なんだどうした」

この一声が何とも頼もしく感じ、事の詳細を主観を入れずに丁寧に伝えた。
自分だけの心にしまっていたものを曝け出す快感と安堵感は、緊張で止まっていた思考を再び活気づけた。
ところがである。
最初は力強くうんうんと頷いていた土田DMのトーンがいつしか徐々に落ち始め、歯切れも悪くなり、それどころか、けんもほろろという対応になってきたのだ。

「だいたいさ、営業時間を変えるなんて無理な話だよ」
「だったらDM、話聞いてきてくださいよ」
「無理言うなよ、俺だって忙しいんだから」

こんな大事なこと以上に優先する仕事があるのだろうか?!
そもそもDMの仕事とは何?!
話せば話すほど、彼の及び腰が見えてきて、悲しいかな力が抜けてきた。

「とにかく事の顛末はお話ししたんで、何らかのフォローをお願いしますよ」
「分かった分かった、上に相談するからさ」

この時、胸中は不安と腹立たしさでいっぱいになり、正しい判断ができなかったのだろう。
突発的に助けてくれなければ自分が動くしかないと判断、とりあえず〇木さんの事務所へ行って話を聞いてみることにしたのだ。
しかしこの判断は後で思えば完全な間違いであり、経験のなさが引き起こした暴走と言えた。

「店長、本当に行くの」

不安をあらわにする中ノ森さんは、止めに掛かってきた。
地元に詳しい福田君によれば、どうやら〇木さんの事務所は「日本〇〇同盟」と称される右翼団体のようで、高田馬場にはこの手の事務所がいくつかあるのだが、その殆どが純粋な政治団体ではなく暴力団だということ。
これを聞いて一瞬萎えたが、既に訪問するアポを取っていたので今更引き下がれない。

新目白通りを渡り、問題のマンションへ入るとエレベーターに乗って3階で降りた。
目指す事務所はエレベーターホールの真ん前にあったのですぐに分かった。
一旦深呼吸してから、汗ばんだ右手でチャイムを押す。
4~5秒も経っただろうか、徐にドアが開くと目がぎょろっとした長身の男が現れた。
向かいのデニーズものだと伝えると、ぶっきらぼうに顎で中へ入れと促された。
緊張で息も絶え絶えでの状態で、靴を脱ぎ、上り口へ足を置いた時だ、

「敬礼せんかぁ!」

口から心臓が飛び出るとはこのことである。一瞬混乱したが、我に返って真正面の壁を見れば、でかでかと旭日旗が張られているではないか。反射的に90度の礼を行い、遂にまな板の鯉となった私は、ぎょろ目に連行されるように奥へと踏み出したのである。


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