若い頃・デニーズ時代 32

早番は時間に追われる作業が多く、何かと目まぐるしい。クックは集中して入ってくるモーニングのオーダーを上げながらプリパリ(仕込み)を行い、MDもオーダーを取ったり運んだりしながらクリーマーを作り、コンディメント、ジュース等の補充を行うのだ。二つのことを同時に進めるのが苦手な人だったら、本当に目が回る思いだろう。
しかし、ランチピークを乗り越え、締めの作業が完了した瞬間、時間の縛りから解き放されて、なんとも言えない安堵感に包まれる。

「あら、こんにちは」
「久しぶり」

抑揚のあるやり取りが耳に入り、入り口へ顔を向けると、元BHの堀之内 勝がレジ前で水沢慶子と談笑していた。

「堀之内さんじゃないですか!」
「ご無沙汰してます」

田無店でのアルバイトを辞めた後、同じファミリーレストランチェーンである「のっぽ」へ就職したところまでは聞いていた。近況報告を兼ねて、遊びにでも来たのだろうか。
しかし、伏せがちな彼の目線は暗く重かった。

「今、ちょっといいですか」
「奥で話そう」

何かあるようだ。こんな時の堀之内さんは妙に緊張した表情を見せる。根が真面目なせいか、どんな時でも内心が顔に出る。麻雀やポーカーでは絶対に勝てないタイプだ。
午前中には滅多にお客さんを通さない4番ステーションへ案内した。

「どうしたんですか」
「実はですね、のっぽを辞めようと思うんです」

これには驚いた。まだ入社して3ヶ月ほどしか経っていない筈である。人間関係のトラブルだろうか。

「自分の不器用さと作業ののろさに、ほとほと呆れましてね」

のっぽも入社直後は厨房の仕事から始めるとのこと。以前、レシピを覚えるための手書きのノートを見せてもらったことがあるが、マニュアルだけでは不足する部分を細かな字でびっしりと補足してあった。
堀之内さんは普段から筆記用具を持ち歩いていて、気に留まったことは全てメモに残している。

「今、クックやってるんですよね」
「そうですが、プリパレは遅いし、ピークになると周りのペースに追いつけないというか、、、」

なるほど。何となく予想はしていたが、彼は何につけ不器用なところがあり、しかも頭で一旦かみ砕かなければうまく行動に移せないという性状を持っている。
クックにとって確かにマニュアルは徹底順守であり全てではあるが、マニュアルだけでは中々成り立たない手際の良さやスピードなどは、クック個人の能力によって大きな差が出てくる。恐らく堀之内さんは、きちっとマニュアルを厳守したうえで職務に当たっているのだろうが、作業の一つ一つが慎重に行われ過ぎて、周りの流れに追いつくことができないのだ。
決められたディッシュアップ時間と品質を実現するためにマニュアルは存在するが、頭で理解しただけでは到底成しえるものではなく、同時に、手際の良さ、リズム感、そしてチームワークが必要不可欠となる。

「だから、怒鳴られっぱなしだし、迷惑もかけどうしでね」
「そりゃ辛いな」
「よく考えたけど、今の仕事、自分には向いてないような気がしてね」

淡々と話す彼の表情には、既に諦めと吹っ切れが滲み出ていた。
“向き不向き”と“適材適所”は極めて重要な尺度である。何をやるにも個々には必ず向き不向きがあり、それに準ずる適材適所が当てはまれば、人は想像以上の生産性を得ることができ、心身共々充実した日々を送ることも可能だ。逆にこれがうまく当てはまらない場合は、もがき苦しみ、挙句の果てには逃避が待ち受ける。

「俺達まだ若いし、これから溌剌とやれる仕事を見つければいいじゃないですか」
「そう言ってもらうと気が楽ですね」

この時代、余り選り好みをしなければ、中途採用の門はそこそこに開いていた。失敗を糧に次の就職先を探せば、結果はより良いものになるはずだ。
この後、のっぽを退職した堀之内さんは、人生にまたとないチャンスだと、以前から願望のあった東南アジア歴訪の旅へと出発したのだ。そしてこの旅が彼の人生を決定した。帰国すると、旅行ジャーナリストの事務所でアシスタント経験を積み、その後自らも旅行ジャーナリストとして独立し、今日に至っている。

「コーヒーいかがですか」

三池洋子が気を利かしてコーヒーのお替りサービスにやってきた。

「ありがとう。でもそろそろお開きにするよ」
「そうですか。あっ、木代さん、後でマネージャーが事務所へ来てくださいって」
「わかった」

デニーズでの毎日は嫌なことも辛いことも多々あったが、仕事自体は好きだったし、自分に合っていると感じていた。堀之内さんは新たな世界へチャレンジだが、私はデニーズで生きていく覚悟ができていた。それより一日も早くUMになって店を持ち、すべてを自分の手でコントロールしたいという願望が日に日に大きくなって行くのだった。


「若い頃・デニーズ時代 32」への2件のフィードバック

  1. ショートオーダークックの13週間トレーニングを乗り越えて、キッチンで一人前に扱ってもらえた時は、嬉しかったですね。
    調布店でセンターを任されて、ランチタイムをスムーズに乗り切った時も充実感がありました。

    1. 同感です。
      マネージャー職も当然充実感を覚えましたが、どちらかと言うとクックの仕事の方が自分に合ってるなと常々思っていました。
      HOT IS HOTを完璧にディッシュアップさせたときなど、お客様に喜んでいただけたかなと、ワクワクしたものです。

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