膝の具合 Part 3

 一月も残すところ数日。
 徐々に体が軽くなってくると、ウォーキングの義務感は薄らぎ、楽しみさえ覚えるようになった。相変わらず階段の上り下りでは痛みが出ていたものの、その程度は徐々に低減しつつあり、ゆっくりだが回復へと向かっていることは間違いなさそうだ。

 こうなると試したくなるのが人情。一般的な山はまだ無理なので、菜の花畑が満開となっている、神奈川県二宮町の吾妻山公園を歩いてみることにした。公園の象徴である吾妻山は標高136m、登山口から二十分余りで山頂に立てる。
 市営駐車場へPOLOを置き、二宮駅を目指して歩いた。ずっと歩道なので痛みは全く出ず、膝が悪いことを忘れてしまう。登山口は三つあったが、国道沿いにある梅沢口から入ってみた。
「痛っ!」
 丸太の階段に右足を置き、普通に力を入れたらやはり痛い。致し方なく膝の真上に体重を乗せ、一段一段丁寧に足を運んだ。この歩き方だと痛みは小さく抑えられる。わかってはいるが、まともな登山を行うにはまだまだ日数が必要だ。

 とある日。路面からの衝撃を少しでも減らすことができれば膝のリアクションも変わってくるのではと、マラソンイベントでも主流になりつつある厚底シューズに着目してみた。webでその特徴を調べていくと、何気に今の自分に合っているような気がし、さっそく商品を検索した。するとヤフオクに『美品・アシックス GEL-NIMBUS 24 サイズが合わなかったので出品 使用歴ジョギング2回』というおあつらえ品を見つけ即落札。届いたその日に試し履きをすると、このような履き心地の靴だったのだと、なんとも新鮮な感覚に驚いた。使い始めはソールの柔らかさに不安定さが伴ったが、馴染んでくるとやはり膝に優しい。歩幅を極端に小さくしたジョギングを試してみたら、ほとんど痛みが出ず感激。これ以降、GEL-NIMBUSはなくてはならないアイテムとなった。

スーパームーン

 十月十七日(木)。ウォーキングの帰り道。ふと頭上の明るさに目をやると、雲の合間に月が出ている。そう、確か今日は“スーパームーン”。NHKのニュースでアナウンサーがしきりに説明していたことを思い出したが、あいにく朝から雲が優勢で、“月見”なんてものはハナから消え失せていた。
「出てきたよ、月。撮ってみる」
 スマホを見ながら、
「そーなんだ」
 相変わらずの“女房リアクション”。
 α6000を三脚に取り付け、慌てて庭に出ると、
「おいおい、ダメじゃん」
 短時間のうちに雲の勢力が強まっていた。

バイク屋時代 11・バイク屋の始まり

 入社から半年もたつと、ひととおり仕事も覚え、業界の何某かもおぼろげながら見えてくる。好きなバイクに囲まれて、顧客と共にバイクライフを歩む仕事は楽しいが、気になったことは、意外やバイク屋は儲かる商売とは言い難く、その根本的な要因が業界に根付く多くの悪習であり、なんと自分で自分の首を絞めているのが現状だったのだ。
 ほとんどのバイク屋に於ける販売促進策は“値引き”である。ただでさえ少ないマージンなのに、値引きをするから儲けなど出るはずもない。薄利多売ができた時代はとうに終わっているのに、値引きしか知りようのない経営者達は、儲からないと認識しながらも、ほかにやりようがないと黙々と続けている。店舗が父親の代から営んでいる住居兼用の自己物件ならまだしも、賃貸店舗、従業員二名規模あたりのレベルなら、間違いなく自転車操業だ。
 そもそもバイクのマージンはなぜ少ないのか。大崎社長に聞いてみたら、この業界の黎明期にその答えがあった。

 同じエンジン付き乗り物である自動車とバイク。ところがこの二つの乗り物の歴史的生い立ちは大きく異なる。
 戦後の日本復興に大きく貢献した自動車産業は、スタート時点から国家がらみのビッグプロジェクトであり、生産から販売まで無駄のない強力な一貫体制をとった。販売会社はメーカーの資本下におき、新製品ができあがるとTVを中心に大々的な宣伝広告を打ち、同時に立派なメーカーディーラーのショールームに華々しく展示される。そこには専門知識を持った営業マンが、新製品の説明から購入方法、そして自動車ライフに関する諸々を懇切丁寧に説明してくれる。客だってコーヒーを飲みながら憧れの新製品を見つめ、車のあるプライベートライフを想像すれば、購入意欲が盛り上がらないわけがない。
 自動車の販売店がメーカー傘下のディーラー体制であることに対し、バイク販売店はメーカーの直接傘下のディーラーではなく、バイク販売会社と個人商店との間で交わされる事業契約から成り立っている。現在でもこの形は基本的に変わらず、つまりバイク屋は規模の大小こそあれ、それぞれが独自に営む法人なのだ。そして設立時点からバイク専業店だったところは少なく、ほとんどのバイク屋の前身は“町の自転車屋”だった。

 終戦直後、ホンダが自転車用補助エンジン<ホンダA型>を発売すると、これが売れた。補助エンジンの翌々年には、最初からエンジンを搭載した“カブ”を早くも投入。ホンダの快進撃が始まったのだ。もちろん他のメーカーも負けてはなく、バイクは年を重ねるにつれ加速度的に性能が向上し、合わせるように販売価格も急上昇していった。そしてこの流れについていけなくなったのが自転車屋、つまりのこと販売店だ。
 自転車屋の殆どは家業であり零細企業以下である。価格が上昇した最新のバイクを五台も仕入れようとすれば、自転車とは比べ物にもならない大きな資金が必要になる。この五台が一週間で売れるような好回転が続けば問題もなかろうが、いくらなんでもそれはありえない。二台は売れても三台が残り金は眠る。こうなれば運転資金がすぐに枯渇するので、在庫は置いてもせいぜい一台どまり。これでは売るがためにある店舗としての体裁は保ちようがない。メーカーとしてはもっとたくさんのニューモデルを人の目につくように並べたいところだが、バイク業界の最前線は資金力のない自転車屋。自動車のようなメーカー資本で運営されるディーラー体制とは根本的に異なったのだ。そこでメーカーは苦肉の策を打った。それは委託販売である。
 販売店に仕入れ能力がないので、致し方なくメーカーは車両を無償で納入し、車両が売れればその時点で請求を発生させるというやり方だ。当然のことだが、資金がなくとも車両を展示できる代わりにマージンは低く設定された。メーカーや商品によって異なるが、おおよそ上代の5%から10%弱ほどだ。ところがこのマージン体系が完全仕切り制に移行した後も延々と踏襲され、現在もそれは変わってない。
 そもそも資金がなくても商売ネタを仕入れられるという“ぬるま湯”な環境下では、工夫や研鑽はもちろんのこと、斬新な販売アイデアなど生まれるはずもない。マンパワーを上げる必要もなければ、設備投資も不要である。ひと月にバイクを二~三台売って、あとは修理やらオイル交換等々をやっていれば、家族四人がなんとか食っていける程度の生活は維持できてしまう。
 そんなことで、八十年代初頭あたりから多くのバイク屋が乱立した。自転車屋のみならず、開業資金がほとんど要らないので、ガソリンスタンドなども敷地の一角にバイクを並べて販売をし始めた。こうなるとそれまでなかった店間の競争が勃発するようになり、ここで初めて「どうしたらうちで買ってもらえるか?」と不安に駆られながらも、頭をひねるようになったのだ。
 ところが、ビジネス経験のない店主たちにとって考案できる唯一の販促は、悲しいかな“値引き”だった。
 メーカー希望小売価格¥150,000のスクーターのマージンはたったの\15,000。なのに¥10,000近く引いてしまうところがほとんど。まんま慈善事業である。そこで注目したのが、大して手間がかからないのに納車整備代と称して¥7,000から¥10,000ほどを購入客から徴収する、自動車業界にもある“諸費用”という項目だ。ちなみにスクーターの納車整備はいたって簡単。ガソリンと2サイクルエンジンオイルを注入、ブレーキの遊び調整と車軸の増し締め、そしてタイヤの空気圧を確認したら最後にエンジンをかけておしまい。まだある。原付のナンバーを取得する窓口は、バイクや車のように陸運支局ではなく居住地の市役所、区役所だ。必要な書類は販売店が発行する“販売証明書”と、役所の窓口に置いてある“標識交付申請書”。そしてこの販売証明書を発行する際に、お客さんから“手数料”と称しておおよそ\3,000ほど徴収したのだ。販売店がお客さんの代理として役所へ足を運ぶ場合は更に“代行料”として\5,000~\8,000ほどいただく。代行料は致し方ないとしても、販売証明書の発行代を取るというのは、普通に考えて不自然極まりない。
 値引き合戦は終わらないばかりか、さらに激化していった。マージン分すべてを引いてしまい、諸費用分だけで凌ぐという店も出てくる始末。もはや末期的経営と言っていいものだ。よって一時はブームとばかりに乱立傾向にあった“簡易バイク屋”だったが、その逆、衰退も早かった。この頃から市場を守らなければと、販売店組合設立の声が上がりだした。

写真好きな中年男の独り言