若い頃・デニーズ時代 82

「子供が生まれたら当分の間身動きがとれないだろうな」

出産で実家のある沼津へ帰る前に、一度夫婦水入らずでどこかへ出かけようと、武庫川から車で1時間の京都・嵐山に行ったことがある。沼津や東京に住んでいたら、そうは気軽に行けないのも理由だった。

この日はかなり寒かったが天気は良かった。渡月橋を渡り、三条通をぶらつく。腹も減ってきたし、ちょうど昼頃ということで、通り沿いにあったそば屋へ入った。京都だったらやはりニシンそば。実はニシンそば、大好物である。
10分と待たないうちに、何ともいい匂いを発するどんぶりが目の前に置かれた。
麻美は魚が苦手なのでキツネそばを注文。

「はいこれ、七味」
「サンキュー」

そばやうどんには必ず振りかけるのを麻美はよく知っている。

「いただきま~す。ありゃ?ちょっと香りが違うな」
「どうしたの」
「この七味、山椒が多めに入ってるみたい」
「あらほんと」

京都の七味は山椒が多めかどうかはわからないが、甘辛いニシンそばの風味にはとても合うと思った。
おつゆも全部飲み干せば、体が芯からポッカポカである。再び散策を始めたが、先ほどまでの寒さは感じなくなっていた。

桂川と渡月橋、そして西には嵐山。まさに京都を代表する眺めである。ところがその眺めの中には必ずと言って修学旅行生の姿が入ってくる。これほど大挙しているとは予想だにしなかったのでびっくり。
実は京都に訪れたのは、中学生の修学旅行以来。当時は黄色と朱色に塗られた修学旅行専用列車「ひので号」なるものがあり、東海道本線をのんびりと走って、ひたすら京都を目指したものだ。新幹線や飛行機などで一気に行っては感じることのできない大きな距離感が旅情を誘い、はたまた興奮止まない帰りの夜行では、暗い車内で眠るクラスメイト達を横目に、目を爛々とさせていたことを思い出す。

午後10時半過ぎ。マンションの電話が鳴った。

「木代さん、生まれたわよ。玉のような女の子。かわいいよ~~」
「いやぁ~、よかったです。明日朝一でそちらへ向かいますので、よろしくお願いします」
「わかった、気をつけてね」

この後、東京の実家にも電話を入れた。

「生まれたってさ、女の子だよ」
「そう、よかった。お父さん、名前考えてますよ」
「へ~、こんど東京で会議があるから、そのとき寄るね」

自分に子供ができたなんて、何だか一向に現実味を帯びてこない。
嬉しいけど不安。今のところこれが一番正直な感想になるのではと思う。
ところが翌日。新幹線で沼津へ向かう道中、意外と気分は落ち着いていた。腹が据わったとでもいうのか、今後のことを考えるでもなく、先ずはとにかく自分の娘を一目見たかった。
沼津駅から歩いてすぐの病院へ駆けつけると、赤ちゃんを抱いた麻美のお義母さんが待ち構えていた。

「ほら、可愛いでしょう」

恐る恐るだが、抱かせてもらうと徐々に実感が湧いてくる。俺の子だと。
とにかく小さく、温かく、そして赤い。
麻美も一見元気そうだったが、お義母さんの説明によると、出産直後から血圧が高くなっていて、医者からは安静を指示されたらしい。
よく言われる“産後の肥立ち”が悪いのだろう。
この後一旦西宮へ戻り、改めて娘と女房を迎えに来たのは、2カ月が経った良く晴れた日だった。

若い頃・デニーズ時代 81

処方されてた薬が効いたのだろう、一日休んだだけで谷岡は復帰した。顔色を見てもまだ全快とは言えそうにないが、快方へ向かっていることは確かなようだ。

「谷岡さんはデリケートなんやね」
「あたりまえやろ」
「ふふ、そんな感じには見えへんけど」
「なんやて!」

ふみちゃんとのテンポあるやり取りが復活して一安心である。
胃潰瘍騒ぎは心配だったが、オープン後の運営は至極順調で、これといった事件も起こることなく平穏無事な日々が流れていた。但、売上がやや目標を下回っていることが気になったが、まだ3カ月も経っていないのだから、これからがボリュームアップの正念場と捉えて頑張るしかない。
参考までに、目標は年商1.8億だが、現況は1.6億レベルの推移である。モーニングは弱く、ランチは12時~13時に集中、その後はしっかりとアイドルタイムが訪れる。ディナーは平日と週末の差が激しく、特に日曜祝日前は、日付が変わる頃まで満席に近い時もある。よって売上構成はディナー寄りになるので、ずいぶんと客単価に助けられている。

事務所でデイタイムのレジ上げを行ていると、電話が鳴った。受話器を取ろうと手を伸ばすと、フロントで先に取ってしまったようだ。<電話は待たせない!3コール中に!>がマニュアルであり、特にDL、MDには徹底してある。
間もなくすると、数少ないランチMDである主婦の川辺智子が走ってきた。

「マネージャー、お客様が出前してくれって」
「出前はやってないから断らなきゃ」
「言ったんですけど、そんなら店長出せっていわはって」

嫌な予感。

「お待たせいたしました。店長の木代です」
「ピザ2枚出前して欲しいんやけどな」
「それが出前はやってないんですよ」
「となりの近畿土木や。ご近所さんはだいじにせにゃあかん」

な、なに。近畿土木といえば、たしか西宮署の刑事が言っていた。経営者が暴力団の、、、
むむむ、、、難しい判断だ、、、

「わ、わかりました。わたしがお届けいたします。ご、ご近所さんですもんね」

変に話がごねると、何しろ隣だから、今後が不安だ。守代を払うわけではないから、この程度ならそれほどの支障はないだろう。
さっそくテイクアウトボックスに入れたピザをもって、マンションの2階にある事務所へ向かう。
狭く暗い階段を上がっていくと、

「デニーズです。おまたせしました」

そーっとドアを開けると、いたって普通の建築事務所だったのでまずは一安心。ディスクワーク中だった作業着姿の男性がこちらに視線を送る。事務所にいるのは2名の若い男性のみだ。

「おおきに。なんぼや」
「ミックスピザ2枚ですので、1,160円になります」

黒い札入れから出したのは2枚の千円札。お釣りを渡そうとすると、

「釣りはええよ。足代や」
「いやいやそれは」
「かめへんって」
「そ、そうですか、じゃ、おことばに甘えて」

あっという間のやり取りだった。雰囲気から変な裏はなさそうで、単純にピザが食べたいから持ってきてくれといった感じである。これを皮切りに何度となくは弱ってしまうが、私の直感からすれば、それも杞憂に終わりそうだ。
何事もなく店へ戻ってくると、

「店長、どうでした」

辻井がニヤニヤしながら聞いてきた。

「川辺さんが、店長一人で行かれたんで、心配やからと」

怪しい設計事務所ではなかったこと、脅しやゆすりなども一切なかったこと、だからといって今後も慎重な対応が必要なこと等々を伝えた。

「でもな辻井。また頼まれたら今度はお前が行けよな」
「ほんまですか!、ま、えーですけど」
「冗談冗談、俺がまた行くさ」

そう言えばつい最近、辻井は車を買い替えた。デニーズのマネージャー職にとって車は必須のアイテム。店舗の立地は殆どが郊外型であり、営業時間帯を考えても公共交通だけでは対応できない。
愛車はスズキのジムニー。小さいジープってな感じのお洒落な車で、若者を中心に人気沸騰中とのことだ。名前くらいは知っていたが、間近で見るのは初めてである。

「店長、乗ってみますか」
「じゃ、隣にのせてよ」

男二人を乗せたジムニーが店の近辺を疾走する。
乗り心地はお世辞にも良いとは言い難く、あまりに上下動が激しいので胃がムカムカしてくる。キャビンはとにかく小さく狭いので、運転している辻井の肩に触れそうだ。

「ずいぶんとハードな車だな」
「あは、ほんまにいいおもちゃですわ」

2号線から迂回して店へと向かう。
軽自動車だが、けっこうな加速力だ。

「楽しみですね、お子さん」
「だな。まだ実感が湧かないけどね。ところで辻井はどうなの、結婚」
「まだまだです。でも、ええ子いたら考えますけどね」

モテモテ男だから話にも余裕がある。
大凡15分間のドライブを終えて店に戻ると、MDの宮内啓子がなにやらバックヤードのドアのところから早く早くと手を振っている。

「お電話で~~す!」

駆け足で事務所へ飛び込み、受話器をとった。

「木代さん? 沼津です。今日から病院へ入ります」
「そうですか」
「麻美は元気だから心配しないで」
「よろしくお願いします」

麻美のお義母さんだった。
いよいよだ。ついに生まれるのだ。自分としては何にもできないので、とにかく頑張って無事に生んでくれとひたすら願うしかない。
DMには既に話してあるので、生まれたら何はともあれ沼津へ向かおう。

若い頃・デニーズ時代 80

開店準備は順調に進んでいた。
ランチのフロントメンバーに若干の不足が出ていたが、その他の充足率は概ね問題のないレベルにあり、トレーニングの成果もきっちりと上がっていた。
一方、プライベートの方も、麻美のおなかの子は順調に育ち続け、2月に入ったら出産準備で沼津の実家へ戻ることになっていた。公私双方からプレッシャーが掛かるが、考えてみればそれは大きな楽しみでもあるのだ。

オープン2日前の20時頃。仕事を終えてエンプロイで寛いでいるのは、谷岡、宗川、そして私の3名。

「タイミングばっちりだな。この時期のオープンならハチャメチャにはならないだろう」
「ゴールデンウィークまでには万全な体制を作りましょう」
「これが正月前だったらきつかったでしょうね」

年末年始、ゴールデンウィーク、旧盆休みは、地方の店舗にとって普段の1.5倍から2倍近くまで売上が上がる三大書入れ時だ。スタッフがまだ育ちきれないオープン直後にこのようなピークに突入すれば、まともなサービスができないどころか、クレームの嵐にもなりかねず、そうなれば店の評判はがた落ちとなり、これを取り戻すには大変な労力と時間が必要になる。

ー ピンポ~ン

「誰だ、こんな時間に」
「納入業者じゃないよね」

宗川が難しそうな顔をしながら裏口のドアに手をかけ、そっと開くと、

「店長おるか」

宗川を押しのけるように侵入してきたのは男二人。誰が見ても普通の人たちではない。
一瞬にして高田馬場の悪夢を思い出した。

「私が店長ですが」
「あんたか。これからいろいろと大変やろな」
「はは、なんとか」

本物の迫力に血の気が引く。
一歩後ろに下がっている、子分と思しき若い男の暴力的な視線が、今にも噛みつくぞとばかりに我々に注ぐ。

「なんかあったらいつでも相談にのるさかい、まあ、とりあえず花こうてや」

やはりきたか、、、いわゆる“守代”だ。
弱気になれば、後で手が付けられなくなるのは明白。ここはしっかりと断らなければ。

「すみません。そういったものの購入は本部からきつく禁じられているんです、、、」
「そんなん店長のポケットマネーでかまへんねん」
「いや~、、、そ、それも、、、」
「わかったわかった、また来るわ」

名刺を一枚渡されると、不思議なくらいにあっさりと帰っていった。

「なんですか今の? めっちゃこわいわ~」

谷岡の顔が異常に強張っている。
改めて名刺をじっくり見てみると、金色の菱がしっかりと印刷されているではないか。これはまぎれもなく山口組の代紋だ。

「山口組とは、またずいぶん本格派ですね」
「しょっぱなから頭いてえな」

日本〇〇同盟の佐々木を思い出していた。背が高く蛇の目を持つ陰湿な男。何度も繰り返し店に来ては、金出せを繰り返した。帰るときは必ずレジ台のガムやキャンディーを鷲掴みにしてポケットに入れる。もちろん代金など払ったことはない。
あのムカムカイライラした日々が再び訪れると思うと、正直萎える。

「ここは皆で団結して店を守りましょうよ」
「ありがとう。DMにも報告入れとく」

宗川の一言は心強い。救われる思いだ。そもそもあんな輩に大切な店を踏みにじられたらたまったもんじゃない。
何事も最初が肝心、これは身をもって経験したこと。目白署の刑事に言わせれば、一度でも金品を差し出したり甘い顔をしたら最後、ケツの毛まで抜きに掛かるのがやくざ。怖くても勇気を奮い、毅然とした態度を守り続けなければ、それこそ最悪の結果を招いてしまうのだ。

「まっ、今のことはおいといて、明日は朝からプリパレだな」

谷岡の顔に別の緊張が走る。

「オープニングマニュアルだとかなり多めなようですが」
「かまわない。ロスのことは考えなくていいよ。それより品切れは絶対NGだ」
「ました!」

オープン日は金曜日だが、当然この特別な日は平日も祝日も関係ない。このご時世、平日でも絶対にごった返す。
売上予測が難しい新店に対しては、本部からオープニングマニュアルが提供されていて、パン類や青果の発注量から、日替わりランチ、ピザ、クレオール等々プリパレ量や、ステーキ、ハンバーグ、パティーの解凍量まで、事細かな数量が記載されている。

「そうそう、オープン日にはスーパーバイザーの三頭さんも急遽来ることになったんだ」

スーパーバイザーとは、全店クックの頂点に立つ役職であり、主な職務は新メニューの開発並びにクッキングマニュアルの管理だ。谷岡からすればまさしく雲上の人。

「へー、嬉しいけど緊張しますね」
「三角さんもそうだけど、東京から来てくれるんだからありがたいよな」
「頑張らないと怒られちゃいますね」
「あはっ、ま、そんなところだ」

この仲間達となら、なんとか行けそうだと確信。
急にオープンが楽しみになってきた。