バイク屋時代 6・昔話の続き

 RZを手に入れたい欲求は日増しに大きくなっていったが、先ずは二輪の運転免許を取得しなければ始まらない。それには自動車教習所へ入校し、教習スケジュールに則って通学をする必要がある。しかし職場の労働環境は相変わらず問題だらけで、予定していた休日でもスタッフの人員不足などで急遽出勤なんてことがちょくちょく。とは言え、こんな時は勢いしかないと、次の休日に入校申し込みへ行こうと決めた。

「明後日さ、バイクの教習所へ行くぜ」
 この頃はまだ実家住まいだったので、同居の弟とはよくバイクの話をしていた。
 弟は小さいころから内向的な性格で、外で友達と遊ぶより家で一人でいることが多く、運動と名のつくことはすべてに興味がなく、また、強力な運動音痴でもあった。そんな彼が大学生になって三か月ほどたったころ、たまげたことにいきなり原付バイクを購入したのだ。あまりに彼らしからぬことなので詳しく聞いてみると、なんでも大学の友人が所有する原付バイクをキャンバスの構内で乗せてもらったら、一発でハマってしまったそうだ。50ccだとすでに取得している車の運転免許があれば乗ることができる。幼いころからずっと一緒に暮らしていて、彼がアクティブなことにこれほど夢中になった姿を見たのは初めてだった。
 俺も驚いたが、もっと驚いたのは両親。
「バイク、乗れるのか?!」
「やめなさいって、危ないわよ」
 なんとかやめさせようと説得はしたようだが、バイクの楽しさを知った弟の決心は鋼鉄のように固く、にっこり笑うと、
「やめないよ」

 弟が手に入れたバイクはヤマハ・TY50というオフロードタイプ。DT1の弟分のようなスタイルだ。ひと月ほどは近所で乗り回していたようだが、残暑厳しいある日のこと、早朝からバイクで出かけたきり夕方になっても戻ってこない。おふくろと一緒に心配していると、遠くからTY50らしき排気音が近づいてきた。玄関を出ると、ちょうどエンジンを切ってTY50を押して門から庭へ入ろうとしている弟がいた。日に焼けたのかはたまた排気ガスで汚れたのか、真っ黒になった顔から白い歯を見せると開口一番、
「三浦まで行ってきた」

「おっ、中免取るんだ!」
「やっぱさ、RZに乗りたいからな」
「じゃ、俺も行く」
 やっぱり。弟だっていつまでもTY50で我慢できるわけがない。
 住民票と申込金を確認し、向かったのは田無自動車教習所。自宅近隣にはいくつかの教習所があったが、教習料金の一番安いのがここだった。

 スタッフにはやや迷惑をかけてしまったが、半ば強引に仕事のスケジュールを調整し続け、無事に中型限定の二輪免許を取得。ところがその頃何かと入用がかさみ、資金が枯渇していたので即バイクの入手とはいかなかった。しかたがないので、バイク雑誌を買ってはニューモデルの記事に目を走らせたり、あれもいいこれもいいと自分なりの論評を楽しんでごまかしていたが、やはり最後は「RZ初期型だよ!」となってしまい、悶々とした日々が続くのだった。
 そんなある日。当時の配属店であるデニーズ小金井南店に、懐かしい男がやってきた。
「あれ、久しぶりだね」
「ん?」
「俺だよ、木代だよ」
「おうおう、ここで働いてんだ」
「まあね」
 中学三年の時クラスメイトだった柏だ。当時はそれほど親しい仲でもなかったが、こうして久しぶりに面と向うと、昔話や近況で盛り上がった。
「仕事中?」
「ああ。ちょっと抜け出して更新だよ、免許の」
 府中自動車試験場はデニーズ小金井南店の目と鼻の先である。よって免許証更新がらみのお客さんは多い。
 柏とは十数年ぶりになるが、太ってもいないし剥げてもいない。昔の面影そのままだ。七三に分けた髪型、やや疲れたダークスーツに革のブリーフケースと、おそらく奴の仕事は外回りの営業だろう。不況のご時世、しんどいことに違いない。そういえば柏は高校時代にバイクに乗っていたはず。
「高校のころはバイクに乗ってたよな」
「バイクはずっと乗っててさ、今も持ってるよ」
 こいつは驚き。
「へー、なに乗ってるの?」
「RZって知ってる?」
 まさかのまさか、ダブルの驚き。
「知ってるよぉ~、なに柏、RZ持ってんだ」
「お前、バイク興味あるの?」
「あるんだよ。高校の頃乗れなかったからな」
「じゃ、乗ってんだ」
「いいや、乗りたくてつい最近免許を取ったばかりだよ」
「だったら俺のRZ買わない?」
 えっ?えっ?えっ? きたきたきたぁ~~
「安くしてくれたら買ってもいいぜ」
「おっ、いいよ。最近仕事が忙しくて全然乗るひまなくてさ、手放そうと思ってたんだ」
 渡りに船とはこのこと。それにしてもいやらしいほどトントン拍子に話が進んでちょっと怖い。
 それから二週間後。名義変更を終えついにRZ250のオーナーとなった私は、休日が雨でなければ必ずRZを駆り、箱根・伊豆へと出かけた。ルートはいつも同じ。東名高速から御殿場IC~旧乙女~箱根スカイライン~芦ノ湖スカイラインと進み、伊豆スカイラインの冷川まで行って、そこで折り返し再び同じ道を戻る。
 平日の箱根・伊豆はどこを走っても本当に空いていて、特に有料道路は貸し切りサーキットと言っていいほど。いくらRZが高性能でも、伊豆スカイラインのストレートは長く、スロットルはトップギアで全開になる。この時のスピード感やエキゾーストノートはまんまGPレース。頭の芯まで痺れる強力な快感を生み、完全な病みつき状態に陥ってしまった。
 この箱根・伊豆詣が始まってから半年ほどたったころ、人事異動が発令された。辞令を見ると行先は小金井南店から遥か遠くの静岡県は沼津店である。日頃から直属上司には酷く嫌われていたので、この異動はつまりのこと“左遷”である。
 しかし俺にとっては大いにウェルカム。沼津へ引っ越したら、伊豆スカイラインは目と鼻の先。早番に入ってきっかり定時に上がればその足で“詣”が可能だ。
 そんなことで沼津店時代は本当によく走った。

 デニーズ沼津店は沼津駅北口にある大型ショッピングセンター・イシバシプラザ内にあるイトーヨーカ堂沼津店のインストア。そんなことで異動直後に催されたテナントの懇親会で、幾人かの知り合いができた。その中にホンダCB750Fを所有する松田さんがいた。彼は名古屋に本社のある大手シューズショップチェーンの沼津店店長。互いに管理者としての特権をうまいこと利用し、勤務スケジュールを合わせては二人で伊豆中を走りまくった。さらに松田さんの店には大学生のアルバイトで高品くんというバイク好きがいて、二回目の走りから仲間入りした。愛車は発売当初話題だったホンダ・CBX250RS。4サイクル単気筒の250ccなんて走るのかよ?と最初はやや冷ややかな目で見ていたが、高品くんの運転がうまいことも手伝い、特にタイトコーナーの下りでは煽られっぱなしとなった。人車共々侮れないレベルを感じたと同時に、箱根・伊豆詣の面白さは倍増した。 
「いや~、高品くん速いね!」
「木代さん、彼ね、前にジムカーナをかじってたんですよ」
「な~んだ、どうりで」
「たいしたもんじゃないっすよ」
「お手柔らかにね」
 “詣”の面白さは走りだけじゃない。休憩ごとのバイク談議は、いつも時を忘れるほど盛り上がった。今振り返れば、いやはや楽しさあふれる思い出だ。

バイク屋時代 5・昔話

 俺が高校生の頃(昭和四十六年前後)、バイクはギターと並んで、多くの男子生徒が喉から手が出るほど欲しいアイテムの代表格だった。仲間が集まり会話が始まれば、話題はたいがい女の子かバイクか音楽。これは間違いなく全国区だったろう。もちろん俺もバイクは欲しかったが、当時の風潮であった“バイクとエレキは不良の始まり”が我が家でも強力に根付いていて、親からは絶対に手を出すなと再三釘を刺されていた。当然免許など取れるはずもなく、友人のスーパーカブを借りては、親とお巡りさんに見つからないよう、こそこそと欲求を晴らしていた。

 高校三年生の秋。通っていた学校が日本大学の付属高校だったので、エスカレーター進学を決める恒例の統一テストなるものが行われた。幸いなことに希望の学部へ滑り込むことができてひと安心。こうなれば二学期、三学期の期末試験なんぞは形だけ。あとは卒業するその日まで遊び放題やり放題!
 余談だが、懐かしの母校にはふたつ上の先輩に女優の松坂慶子さん、そして同級生には元キャンディーズの伊藤蘭ちゃんがいた。

 冬休みの初日。クラスメイトの中田が突然うちへやってきた。なぜか乗ってきたバイクを一週間ほど預かってほしいと言う。中田は学業優秀にもかかわらず、ぱっと見はヤンキー調なやつだったので、その大きなギャップからクラスでは“謎の男”と囁かれ、けっこうな人気者だった。
「預かるだけなら親もいいってさ」
「わりーな」
 預かったバイクはけっこうなオンボロ。よく見ればメインスイッチが取り外され配線を直結してある。まさか盗難車ではないと思うが、謎の男が乗ってきたバイクなのでやや不安。ただ、車種はヤマハの人気オフロードモデル“DT1”なので、どの角度から見てもたまらなくかっこいい。もともと野山を走りまくるバイクだから、少々ボロくてもむしろ雰囲気が出てそのワイルドさが倍増する。もちろん車体からほとばしるオーラはスーパーカブの比ではない。


 翌日の朝。トイレに行こうと廊下を歩いていると、門の脇に置いたDT1に朝日が反射し、俺に乗ってくれと言わんばかりに光り輝いていた。
 昼飯の後、誰も見ていないことを確認、そっとDT1を表の道路へ移動させた。250ccともなるとさすがに重く、スーパーカブとは大違いの重量感だ。門の段差を越えるとき危うく倒しそうになり冷や汗が出た。
 路肩に停めてサイドスタンドを下ろしキックアームを出す。ステップに立って思いっきりけり下ろした。かからない。もう一度繰り返す。かからない。これを五度繰り返した時、「パパン、パンパンパン」とついに火が入った。けっこうやかましい音にびっくり。これではおふくろか、さもなければ爺ちゃんに見つかってしまうので、急いでエンジンを切り、更に先の角まで押していった。
 再びエンジンをかける。ギアを一速に入れて恐る恐るクラッチを繋いでみた。すると、悲しくもプスン。エンストである。気を取り直してトライアゲイン!
 二度目はうまくいった。
 おっおっおっおっ! 走り出したぁー!
 いやはや力が半端じゃない。スーパーカブと比較するのもなんだが、まるっきりの別物。二速にアップしてクラッチをつなぐと、フロントが浮いたような感じがして、バランスを崩しそうになる。
 うおっ! こ、こわぁ……
 かなり乗り込まないとこんなモンスター、とてもじゃないが運転できない。衝撃の体験はバイクへの憧れをさらに膨らませた。
 しかし当時の流れでもあったが、大学生になるとバイク所有の夢は残しつつも、徐々に目線は車へと移っていく。
 大人への仲間入り、小さな俺世界、彼女とラブラブドライブなどなど、十九歳の男子にとって乗用車は様々な欲求を満たしてくれる夢の乗り物なのだ。そんな俺にとってトヨタ・セリカ1600GTVは、青春時代を共に走りぬいた最高の相棒になった。実はある条件を呑む見返りに、おやじが買ってくれたのだ。
 九十手前だった爺ちゃんが、膀胱がんにかかって寝たきりになってしまい、尿道へ挿入してあるパイプを一週間に一度交換する必要があり、それまで吉祥寺にあった泌尿器科へは毎回タクシーを使っていたのだが、行きにしろ帰りにしろ、呼んでもタイムリーに来てくれることは少なく、更に病人は乗せたくないのか、終始仏頂面の運転手もいたりして、おやじも俺もけっこうなストレスになっていたのだ。
「車買ってやるから、そのかわり毎週爺ちゃんをたのむ」
「わかった」
「中古だからな」
 さっそく当時つきあっていた彼女の兄貴に頼み込んで、憧れのGTV探しをお願いした。実はその兄貴、都内で整備工場を営んでいて、車を買うときはお願いしようと、彼女を通して根回しをしていたのだ。
 そもそもうちにマイカーはなかった。爺ちゃんは戦前からの警察官で、馬に乗って警らをしたり、T型フォードのパトカーに乗ったり、通勤にインディアンの赤バイ(現在の白バイ)を使ったりと、乗り物好き極まる男だったらしい。だがその職務故に嫌になるほど交通事故を見ることになり、息子たち、つまり俺のおやじにも車は乗るなと言い聞かせてきたのだ。おやじ自身も東京電力の総務課に勤務していて、社風から交通事故など起こせば即降格人事になりかねないんだと諦めていた節もあったようだ。

 どの角度から見てもセクシーなフォルム。さらにフロント、リア共々フルオープンになるウィンドウは、走り出すと抜群の解放感を与えてくれる。そして最高出力115馬力を誇るDOHC・2T-Gエンジンの咆哮はマシンと呼ぶにふさわしく、学生時代の五年間(一留年)はセリカのある毎日にとことん酔いしれ、正直バイクのことは忘れていた。

 苦労の末、何とか大学を卒業すると、ファミリーレストランのデニーズを運営する株式会社デニーズジャパンへ入社。実社会の厳しさはある程度覚悟していたが、常態化された長時間労働が作り出す劣悪な労働環境は想像を超えるもので、蓄積する疲労は回復することがなく、貴重な休日も週に一日取れれば御の字という最悪な状況。プライベートを楽しむゆとりなど物理的にも皆無に等しく、特に埼玉エリアで新店オープニングメンバーになってからは、平均睡眠時間が四時間と、毎日考えることはただただ逃避。ある休日、ついにペンをとると退職願を書き始めてしまう。

「こんな環境じゃ、もう続けられないです」
 困惑顔の店長はすぐに本部へ連絡、その翌日にはエリアマネージャーが飛んできた。
「おまえの地元の東京へ戻すから、そこでいったん頭を冷やせよ」
 仕事そのものは嫌いじゃなかったので、ここは一度折れてもいいかなと、指示をのんだ。東京エリアの出店ペースは、他地区と比較してかなり穏やかだったのも決断の理由のひとつである。
 それから数年がたち、いい意味でも悪い意味でも仕事に慣れ、手の抜き方がわかってきたある日、愛読書だった少年マガジンに掲載されていった話題のニューモデル“ヤマハ・RZ250”の広告に目が止まった。過激なキャッチコピーはさておき、そのスペックに震えがきたのだ。
 高校時代にちょっとだけ味わった友人のDT1を思い出し、あれの上を行く性能ってどんなものだろうと、忘れかけていたバイクへの興味が一気に再燃した。 
 参考までに、DT1の最高出力は18馬力、これに対してRZは30馬力もあった。

バイク屋時代 4・オーバーナナハンライフ

「木代くん。今日JOGが六台入荷するから、特価のプライス付けて一番目立つところにバーンと並べといて」
「バ~ンはいいですけど、特価っていくらにしますか?」
「言ってなかった?」
「聞いてないです」
「いやぁ~、言ったな」
「……」

 うちの社長は“思い込みの権化”のような人だ。<俺が知っていることは君も知っている>という揺るぎない考え方を持っているから始末が悪い。

「そこのお菓子さ、〇〇さんが持ってきてくれたよ」
「〇〇さんって? 知りませんが」
「なに言ってんの、CBRの〇〇さんだよ」
「知りませんて」
「知ってるって」
 と、こんな感じ。

 ところでJOG六台の件だが、先日、ヤマハの担当営業マン・三沢さんが来店した際、社長へまとめ仕入れを頼んだようだ。お客さんに注文をもらってその都度メーカに発注を入れるより、売れ筋を見極め、台数をまとめて仕入れた方が即納できるし粗利も大きくなる。
「一台プラス20,000円だから大きいよ」
 20,000円とはヤマハも随分と奮発したものだ。車種にもよるが、原付スクーターのマージンはびっくりするほど少なく、平均で台あたり20,000円から多くても30,000円止まり。ということは、値引きなしで売ったとしても30,000円程度しか儲からない。ただ現況は厳しく、このご時世に値引きなしでスクーターを売っている販売店はまずない。お客さんもそれはよく知っている。つい先日、近所にある櫻井ホンダ吉祥寺店の前を通ったら、最新型のDioなのに、<現車に限り10,000円引き!!>とプライスカードに派手な蛍光カラーで安さをアピール、それこそバーンと店先に五台も並べてあった。
 そう、この人気のホンダ・Dioは実に画期的なモデルだ。


 シートを開けるとフルフェイスヘルメットがすっぽり収まるラゲッジスペースが確保されていて車体カラーも明るくポップ。デザインはやや丸みを持たせ、どんな年齢層にもアピールできる第一印象を醸し出している。これまでのスクーターは、ちょっとした荷物を積むためにはフロントバスケットを取り付ける必要があった。ところがこれを<オバンくさい>と毛嫌いする若者は少なくなかった。
 そもそもスクーターは“町の便利な脚”として使われることが殆どなので、車体に物を入れるスペースがあったら便利との声は以前から多く上がっていた。よって一九八八年初頭に発売されたこのDioは、時代の要請に応えよく売れた。これにより業界ナンバーワンの売り上げを誇っていたヤマハのJOGはその座を奪われてしまう。だがヤマハも当然次の戦略を準備していた。一年もたたないうちにメットインタイプのNewJOGを発表、巻き返しを図った。


 一方、スズキはDioに先立ちアドレスというメットインモデルをラインナップしていたが、車体が大きく物々しいデザインは女性層に受けずDioの独走を許した。これに対し小型でお洒落にまとまったセピアを新規投入。ホンダ、ヤマハ、スズキのスクーター合戦は加熱極まった。

「社長、でもこのJOGって、旧JOGですよね」
 旧JOGとはメットインタイプになる以前のモデルだ。
「当たり前だよ。じゃなかったら¥20,000もマージンつくわけないじゃない」
 社長は知らないのだ、今日の読売新聞の折り込みチラシを。
 近所のYSP三鷹は旧JOG在庫一掃セールと銘打って、な、なんと50,000円引きである。“YSP”とはヤマハモーターサイクルスポーツプラザの略で、フルラインナップを揃えたヤマハ専業店のこと。ちなみにモト・ギャルソンは単一メーカーの専業店ではなく、ホンダ、ヤマハ、スズキの正規販売店になる。これにカワサキが加われば、国産メーカーすべてを扱え店格も上がるが、正規店の看板を手に入れるには幾多のハードルがあった。

 カワサキというメーカーは他の三社と較べると製品に独自性があり、自他ともに認めるブランディング路線を堅持していた。趣味性の薄いスクーターなどはラインナップせず、他の三社が競うように発表し続けていた動力性能重視のレーサーレプリカをしり目に、GPZ400Rのようにスポーツからツーリングまでと、総合性能を売りにした製品をメインに打ち出し、特にツーリングライダーからは絶大な支持を受けていた。事実、GPZ400Rの売上げ台数は400ccクラスナンバーワンを誇り、カワサキここにあり!をアピールした。
 ちなみに大崎社長の愛車はカワサキGPZ1000RXという逆輸入車。最高出力は125馬力を誇り、最高速度に至っては260Kmを突破する世界最強のスーパーマシンなのだ。もちろん名実ともにカワサキのフラッグシップである。


 一九七〇年代。四メーカーが自ら掲げた自主規制により、国内においては排気量750ccが販売できる上限になっていた。GPZ1000RXのように排気量が1000ccもある車両を手に入れるには、海外向けに輸出したものを改めて輸入、つまり製造したメーカーからではなく、それを生業とする並行輸入業者から購入するしかなかったのだ。ただ、メーカーとは組織的に何の関係もないところから、価格が高額にもかかわらず車両保証は付与されない。それでもメイドインジャパンの高品質に支えられた大排気量と絶対性能は多くのライダーを魅了していた。

 さて、それじゃおれも購入するかと懐具合をチェック、
「ふふ、なんとかいけそうじゃん」
 どっこいこれだけではオーバーナナハンライフは手に入らない。実に厄介な壁、そう、極めて難関と言われている二輪の限定解除試験に合格する必要があった。教習所で取得できる自動二輪免許は、乗車車両の最大排気量が399cc以下と定められる排気量限定付きなのだ。
 内容は試験車両であるナナハンを駆る実技になるが、受験者数五十~六十名に対し合格者数三~四名という狭き門で、そんな厳しい事情があったからこそ、限定解除免許はライダー憧れのライセンスとして崇められ、同時にオーバーナナハンを颯爽と操るライダーは羨望の眼差しで見られた。そしてこの事実はそのまま私の職務上の立場にもプレッシャーをかけてきた。バイク屋の営業マンが店舗で扱う車両を運転できないでは済まされないからだ。近い将来、乗り越えなければならない高い壁を見上げた。

「うわっ! 凄い音」
 突如工場に炸裂音が轟いた。
「保谷さんのRC30にHRC純正のレーシングマフラーを取り付けてるんだよ」
 HRCとはホンダのレース用車両、パーツ開発、販売等々を目的とした株式会社ホンダ・レーシングのこと。
「うおっ、HRCの純正ですか。ずいぶんとえぐいものつけるんですね」
「保谷さん、好きなんだよ」
 そしてRC30とは昨年(一九八七年)にホンダから発売されたワークスレーサーRVF750のレプリカモデルのことで、正式名称はVFR750R。世界耐久ロードレースに二年連続優勝したマシンのレプリカだけあって、外観だけでなくエンジンなどには実際のレーサーに準ずる高級素材で作られたパーツをふんだんに使用しており、何と販売価格は148万円。そんな高価なバイクだったが、モト・ギャルソンでは三台の販売実績があった。


「いいですね、うらやましいな~」
「サーキットで走るようなバイクだから、一般道じゃ扱いにくいよ」
 それは社長の言うとおりだろうが、レプリカ好き、ホンダ好きには別格というべき一台に違いない。ちなみにこの二年後、ヤマハもワークスレーサーFZR750のレプリカモデルOW01(FZR750R)を発売。500台限定販売車両で価格はRC30を上回る200万円と非常に高価だったが、発表と同時に完売。レプリカ全盛という時代背景が、とてつもない勢いをつけていたのだ。