白黒写真

 白黒写真は何ともいえぬ深い味わいがあり、見入ると不思議に心が落ち着く。もちろん写欲をそそられることは言うまでもない。ただ、色がないだけに、きれいな花を単純に被写体として選んでも、殆どつまらない画になってしまう。やはり白黒に適した被写体選びや設定を念頭に置かなければ、納得のいく画を切り出すことは難しい。
 まずシーンとしては、光と影のメリハリに富んだコントラストやや高め、という条件を狙いたい。逆光の中も面白いかもしれない。そして被写体には人工物・人工構造物をおすすめする。都市部の町中では、次から次へとターゲットが発見できるので、歩いているだけでうきうきしてくるし、構造物に人が絡めば言うことなしだ。
 見栄えのいい白黒作品の殆どは、全体的に暗いイメージのものが多い。アンダーな露出を選ぶのは前述の“光と影のメリハリ”が出やすくなるからだ。場面々々にもよるが、露出補正は大胆に▲2.0~3.0ほどでもいいだろう。私は普段の撮影でも▲0.7~1.0ほど補正をかけることが多く、これは理想的なレタッチを行う際に不可欠な白飛び防止のためだ。

十人十色

 人の嗜好や捉え方等々はまさに千差万別であり、十人十色を越えて万人万色だ。ところがこのような定理があるにもかかわらず、昨今世間では、例えば何かを購入する際の判断材料に、多くの方々がネット上の評価、口コミ、レビュー等々を重視する傾向にある。ただ、これは今に始まったことではなく、人というものは元来他人の意見や評判が気になる生き物なのだ。私自身、十分に“十人十色”を分かっているはずなのに、今でも度々ミスチョイスをし続けている。それは若い頃のレコード盤収集から始ったようだ。
 思い起こせば小学六年生だった。加山雄三の大ファンになってからというもの、音楽の楽しさに目覚め、当時大流行していたBeatlesやVenturesのサウンドは生活になくてはならないものになった。中学に進学するとギターを手に入れ、中学三年で初のバンドを組み、そんな勢いの中、とにかく多くのロックミュージックを聞いてみたい欲求に駆られ、母親に文句を言われつつも、しっかりと続けていたお年玉貯金のそのほとんどは、レコード盤の購入にあてられた。
 そんなレコード盤収集を行っていると、『ロック界の金字塔』、『鬼才〇〇のファーストアルバム』、『歴史に残るスーパーライブ』等々のうたい文句に反応して、勇んで買ってきて聴いてみたものの、「ありゃ?」なんてことが度々起きた。往生際の悪い私はアルバムに同梱されているライナーノーツを読んで無理やり納得しようとすると、俺の感性、ちょっとおかしいんじゃないの?と嘆いてしまうほど、素晴らしい論評が書かれてあるのだ。一番のいい例が、Frank Zappa率いるThe Mothers of Inventionのデビューアルバム【Freak Out!】だ。こ、これってなに?ロックなの??が第一印象。当時好きなアーティストがDeep PurpleやSantanaだったから、その差は大きいなんてもんじゃない。難解なのか駄作なのか、しまいには騙された感が膨らみ始め、これを高く評価する人たちの感性を疑ったりもした。当時Frank Zappaの音楽を『実験音楽』と称した評論家がいたが、なんともうまい表現をしたものだと呆れるやら失笑するやら。しかし同時に人の好みってのは様々なもんだと、変に納得したのを思い出す。

 最近のことでは書籍選びが挙げられる。私は週に一度ブックオフへ行く強力な読書好きだ。もちろん好みにしている作者はいるが、やはり新たな感動や刺激を求めて未知なるストーリーを探し求めてしまう。その際参考とするのがサイト上の評判。『一生に一度は読みたい』、『一気読み!徹夜必至』、『涙が止まらない感動本』等々のキャッチで始まるサイトは星の数ほど存在する。そのほとんどはランキング形式なので、とりあえず上位に入っているものを適当に選んで購入するという流れだ。さすがに上位に並ぶ作品のほとんどは、直木賞、芥川賞をはじめとする有名文学賞を受賞しているが、たまに「これで〇〇賞??」と首を傾げる作品も少なくない。まさにFrank Zappaと同様、理解し難い文学作品に時々ぶちあたることがある。特にジャンルを問わず、文脈にリズム感の乏しい作品は読む気になれない。なぜなら文中に引き込まれないからだ。だらだらとした流れが暫し続くと、その先を考えることなく畳んでしまい、お蔵入りとなる。ただ私には合わなくとも、世間では受賞するほどの評価が上がっているのだから不思議と言えば不思議だ。
 そんなことで最近は本を選ぶ際、サイトの評価を参考にすることはめっきり減った。ではどのようにするかと言うと、とにかくブックオフへ行って暫し棚を見渡し、なんとなく目に付く背表紙があれば引き出して、内容紹介や筆者紹介を確認、その場で惹かれる何かを感じれば、とりあえず購入してみるというもの。これで当たりが出ると、してやったりとばかりに嬉しくなる。それがきっかけとなり、連続して同著者の作品を買い求めることもある。こんな入手法が可能なのも、ブックオフという廉価で買える古本屋の存在あってこそだ。
 せっかくの休日なのに、今日は一日中雨降りとのこと。こんな時はやっぱりブックオフかな。

コーヒーショップスタイルレストラン

 自宅近所のジョナサン武蔵野西久保店が6月6日で閉店する。もっとも完全閉店ではなく、7月には同じすかいらーくグループのコーヒーショップである「むさしの森珈琲」として再オープンするらしい。文庫本を持参しての用途なら、むしろウェルカムではなかろうか。ただ、この武蔵野西久保店のスクラップアンドビルドには、他店とは様相の異なるニュアンスが含まれる。
 同店の隣には、すかいらーくグループの本社社屋が建ち、長らくのこと“お膝元的立場”だった。この意味は大きい。お膝元であるが故、求められるオペレーションは完璧を期してきたと思われる。料理、接客、クリーンリネス、その他諸々、全てのポイントに社力をかけ、マニュアル遵守、またそれ以上のレベルを追い求めてきたに違いない。
 すかいらーくグループには様々な形態の飲食店があるが、ジョナサンは40年以上前から延々と続く典型的なファミリーレストランスタイルの店で、これが上記のようにお膝元で完璧な運営が行われてきたにもかかわらず、形態変更に追い込まれた、またはそうしなければならなかったという事実は、悲しいかな、従来型のファミリーレストランでは、既に現況の顧客ニーズには対応不可能という証に他ならない。
 こうして考えると、やはり我デニーズは道を踏み違えたと、いまさらになって思え、残念至極である。
 そもそもデニーズこそコーヒーショップスタイルレストランの元祖であったはずだ。先ずはアメリカンコーヒーという大看板ありきの上に、それを彩る様々なメニューを提供する、いわば「むさしの森珈琲」のコンセプトに近いものだった。それがいつの間にか、笑顔のデニーズレディーが提供するお替り自由のコーヒーサービスが、セルフのドリンクバーにとって代わり、オリジナルアメリカンコーヒーと相性抜群のアメリカンスタイルメニューが次から次へと隅に追いやられ、気が付けば和食やら、ラーメンやらが幅を利かせていたのだ。今に置き換えれば、Starbucksでチャーシュー麺をすするようなもので、どう考えたって違和感は否めない。
 なりふり構わずの施策は、結局デニーズを何の個性も感じられない、ありきたりなファミリーレストランへと変容させてしまったのだ。
 自ら墓穴を掘るとは、正にこのことだろう。