若い頃・デニーズ時代 17

オープン以降、浦和太田窪店は順調な客入りを示し、売り上げも概ね目標に沿って推移していた。ギョロ目で強面な井上UMの表情も至って明るく、客目線で見れば店の雰囲気は上々に映っていたはずだ。
新人MDの教育は順調に進み、フロントには早くも太田窪店ならではの活気が満ち溢れ、モーニング帯では既に数人の常連客もでき始めていた。
ところが一方、キッチンは先々に不安を残す問題が未解決のままになっていた。
それはKHの絶対数不足という深刻なもので、現状は早番の西さんただ一人の登録しかなく、募集広告を出しても応募があるのは同じく早番のみで、ディナータイムをカバーするためには最低でも2名のKHが必要なのに、その時間帯への希望者は今だ皆無であった。
応援スタッフの期限もそろそろ終りに近き、不安は膨らむ一方だ。

「うわっ!!!、やばいよ!!!」

突然の大声にびっくりして目をやれば、さっきからハムスライサーでサラミをカットしていた下地がその場にうずくまって苦しそうにしている。よく見るとダスターで右手を押さえているのだが、本来白いはずのダスターが真っ赤に染まっているではないか。
脇では顔面蒼白となった村尾が立ちすくんでいた。

「下地のやつ、スライサーで指やっちゃったみたいです…」
「いいから救急車呼んで!!」

指最悪なことが起きてしまった。
スライサーの回転歯に右手人差し指を当ててしまい、指先から第一関節へ至る直線部を落としてしまうという重傷を負ったのである。
当分の間、仕事に就けないレベルであることは容易に想像できたが、下地にとってこの一件は、周囲が思う以上に心に受けたダメージは大きく、結果的には就労意欲までも無くすことになったのだ。
事件後一週間経ったある日、下地は出勤すると同時に井上UMへ退職願を提出した。

「ごめんな。色々考えたんだよ」
「寂しくなるけど、しょうがないね」

同期入社でしかも新店オープンを汗水たらしながら一緒にやってきた仲間の退職は本当に寂しいものである。特に彼とは太田窪店の遅番を二人で創意工夫してきただけに、喪失感を覚えずにはいられない。
うつむき加減で裏口から出て行く彼の背中は、余りにも小さくかぼそかった。

「木代さんも気をつけてくださいね」
「え、うん、ああ、、、」

最近よく話しをするようになっていた西峰かおるが、私の落ち込んだ表情を見かねて何度か励ましてくれていた。
― コックさんは大変だね~、コックさんは凄いよね~、コックさんは、やっぱり偉いよ!
これは彼女の口癖であるが、下地の事件以降、酷く気になるようになった。鬱陶しくなるというか、なんだかとても複雑な気分に墜ちいてしまうのだ。
入社以来初めて覚える弱気に不安は脹らみ、この頃から就労に対しての自問自答がポツリポツリと出るようになった。

― あれだけ大変なことになった下地に対して会社はあまりに素っ気ない、、、

「どうせよそ見しながらやってたんだろう。自業自得だ」
「しかしあれだけの怪我を負ったんだから、気の毒だな…」
「本人の責任だ!」
「そう言いきるのは考えものですね」

プリパレの途中、ちょっとした気配を感じたので何気に耳をこらすと、人影のないエンプロイから井上UMと西條さんがやりあう声が入ってきた。

「こんな大事なときに、下地のやつ、、、クックの補充なんて絶対有り得ないんだから、後の管理、しっかりやってくれよ」
「やっぱり小田さん、異動ですか?」
「十中八九ね」
「そーかぁ、この頃心配なんですよ、村尾さんが、、、」
「おいおい、まだあるのかい?! 勘弁してくれよ」

凄いことを聞いてしまった。
これから先、うちのキッチンは一体どうなるんだろう。KHの補充もままならないのに、下地退職、小田さん異動、そしてさらに村尾が?!
当時の出店ペースには凄まじいものがあり、新卒入社で僅か実戦半年のひよっこ達の殆どが、新店オープンの必要メンバーとして駆り出されていたのだ。
風の噂では、同期入社組にかなりな離職が起きているようで、その確かな原因は定かでないとしても、人員不足の各店キッチンを考えれば、シフトをカバーするだけの目的で過酷な長時間労働を強いられているのは容易に想像できた。代々木の合宿で集った仲間達は今頃どうしているだろうかと気になってくる。
ところで、村尾に何があったのか…
オープン以来、勤務シフトが正反対だったので、ゆっくりと話をする機会もなかったし、それと互いに気の合う相手ではなかった。
しかし、こんな話題を聞けば思い当たる節もある。
先日、KHの西さんが、不安な表情を隠さずに言い寄ってきた。

「ねえねえ、何だか村尾さん疲れてるみたいよ」
「えっ、どうして?」
「オープンの頃と較べると、口数が少なくなって、いつも黙々って感じなのよ」
「まあ、疲れてるって言ったら、僕だってそうですよ」
「そうね、みんな頑張ってるもんね」

そうだ、あいつから直接聞いてみよう。
その時、切実にそう思った。

若い頃・デニーズ時代 16

「西條さん、そろそろ上がって下さい」

西條リードクックは早番だから、正規の退社時刻は午後3時半。ところが時刻は既に5時を回っており、ブレークも取らずに真剣な眼差しでプリパレのチェックを行なっている。

「うん、確認が終わったら上がらせてもらうよ。あとは金城さんに任せるかな」

遅番の応援スタッフである金城さんは本部付けのクックだ。近頃の新店ラッシュの煽りを受けて、全国津々浦々へ飛んでは、こうして開店フォローに当たっているとのこと。西條リードクックとは、以前、神奈川地区で一緒だったらしく、ブレークの時などは昔の仲間の話で盛り上がっていた。

「夜は元気なクックが4人もいるからバッチリですよ」

キッチンは西條さんの指示で、プリパレや各所の補充は完了しており、あとはディナーピークを待つばかりだった。
一方フロントは、各ステーションに3名の新人MDと応援MD1名が配置され、DLも含めれば総勢13名という十二分な人員が配置されていた。もちろんそれにUM、UMITがいるのだから、ウェイトレスステーションに至っては満員電車の様相である。
しかしこのザワザワとした雰囲気はオープンという大イベントが醸し出す特別な空気感であり、そこにいられる嬉しさはこの上ないものだが、同時に大きな責任を背負ったという現実がのしかかる。

「みんないいですか、グリーティングは明るく元気に! オーダーの復唱は確実に! ウェイトレスコールはきちっと確認! そしてバッシングとセットは積極的に!」
「はい!!!」

フロントメンバーの気合が入ったミーティング。
その迫力はディッシュアップカウンターを越えて伝わってくる。スタッフが一丸となった雰囲気は格別な爽快感があり、オープニングメンバーの一員になれた喜びが沸き上がってくる。
それから大凡30分後。来店客が徐々に増え始めてきた。

「いらっしゃいませデニーズへようこそ!、何名様ですか?」
「えーと、5人かな」
「かしこまりました、ご案内いたします。こちらへどーぞ」

ディナータイムとランチタイムとの大きな差は、ワンチェック当たりの品数とピーク時間の長さだ。
ランチは殆どワンチェックに1品か、精々同じランチが3品程度で、急激に盛り上がるピークが一時間強続くが、一方ディナーはワンチェック当たりに複数且つ様々なオーダーが入り、正弦波のようなピークが3時間近くも続く非常にタフな戦いになる。
例えばワンチェック5~6品が一度に数枚入れば、もうキッチンは蜂の巣を突いた状態だ。

「ワンシェフ、ワンツナ、ワンコンボ、ワンピザ!」
「続いて、ツーマルワ、ワンハンバーグシュリンプ、ワンシェフ!」
「もういっちょういきます! ツーマルワステーキ、ワンツナ、ワンエフエフ!」
「ましたぁ=====!!!」
「おっ!またきたぞ! ワンコンボ、ワンクラブサンド、ツーエフエフ!」
「間違いなくちゃんと落とせよ!」
「ました!!」

的確な指示をだせるセンターがいなければ、ディナーピークはこなせない。その点、金城さんは素晴らしい能力を持っていた。小金井北UMITの濱村さんも全体の流れを把握しながら、上手にフォローを入れてくれたが、金城さんはまたそれとも違って、クックの気持ちを煽るというか、猛然とディッシュアップに集中できる場の雰囲気作りが巧みなのだ。だからキッチン中に安心感が溢れ、作業に対して迷いが出にくい。

ー ピンポーン!

「岡本さ~ん、シェフが出たから先に持ってって。それとビールはもう行ったかな?!」
「は、はい、ビールは今から持っていきます」

MDの岡本美子は、今時珍しい化粧っ気のない女子大生だ。出勤時も地味なブラウスに紺のプリーツスカート姿と、他の若いMD達とはちょっと違った印象の持ち主だ。性格は緊張するタイプなのだろう、先ほどのフロントミーティングの際も、皆が笑顔溌剌でグリーティングの練習を行っているのに、一人強ばった表情を崩せなかった。

「いいかい岡本さん、ビールは真っ先だよ。それと、シェフはドレッシングも忘れないでね」
「はい」

金城さんはセンターをやりながらも、ディッシュアップカウンター越しに新人MDへ対し的確なアドバイスを行っている。

その時だ、プレートの割れる音がレジの方向から盛大に飛び込んだ。
同時に西峰かおるが泣きそうな顔をしてディッシュアップカウンター前にやってきた。

「すみませ~ん、ワンライスお願いします」
「慌てなくていいんだよ」

誰かと接触した際にライスを落としたそうだ。レジの脇は1番ステーションと2番ステーションへの出入り口になっていて、スタッフの行き来が最も頻繁になるところだ。

「下地、ライスそろそろセットしよう」
「ました! 着火します?」
「いや、まだいい」
「それから太田さん、ピザとクレオールの残りは?」
「どっちもまだワンシートあります」
「OK、それじゃ至急トスサラとサラダ菜をワンコン作って」
「ました!」

ディナーではサラダの注文が多い。私はコールドテーブルを担当していたが、見る見るうちにトスサラダが減っていく様には驚いた。3名以上のチェックには殆どシェフかツナサラダが入ってくる。
それにしても開店のディナーピークは凄い。20時を過ぎたのに一向に客足が途絶えない。

「みんな頑張れ! このペースなら来店客数800名はいくぞ!」

ギョロ目の井上UMがいつの間にかキッチンの横に来ていた。朝から立ちっぱなしでフロントで指示を出しているので疲労がありありと顔に出ている。

「井上さん、頑張りますね。あとはうちらに任せて上がってください」
「ありがとう。ウェイティングが切れたらそうさせてもらうよ」

それから1時間。これでもかとオーダーが入り続け、一時はチェックが10枚以上も並んでしまったが、金城さんはさすがだ。こんな時も冷静にどれから順番に上げていけばスムーズにこなせるかを把握している。一時ディッシュアップが遅れ気味になったが、そんな時はMDにこんな指示も出した。

「みんな、コーヒー回ってる?!」
「はい、行ってきま~す!」

料理の遅れでイライラするお客さんの心理を考慮し、MDにはなるべくフロントを回らせ、お客さんから声を掛けられやすくするのだ。
この一度のディナータイムにどれだけ多くのことを勉強したか、それは計り知れない。

「小田さんはそろそろ上がってください」
「すみませんね、それじゃお先に上がらせていただきます」

フロントもやっと落ち着きを取り戻し、21時上がりのMDが続々とキッチン脇からバックへと引いていった。

「お疲れさまです」
「あれ、西峰さんも上がり?」
「はい、上がらせていただきま~す」
「初日はどうだった?」
「なんだか分けがわからないうちに終わっちゃいました」
「そっか、、明日も頑張ろうよ!」
「はい、お願いします。それじゃお先に♪」

上がっていくスタッフたちは皆疲れているはずだが、それぞれにやり切った表情が出ていて、それを認めるたびになんだか嬉しくなってくる。チームで事をなす充実感が否応なしに感じられるからだろう。
さて、遅番クックはここからが大変だ。戦場となったキッチンは汚れに汚れ、それは荒ましい。
しかしここできちっと〆の作業を行わなければ、明日、そして今後に影響が出てくるのだ。

「木代、下地」
「はい」
「俺がオーダー受けるから、二人で〆の方、よろしく頼むよ」
「ました!!」

若い頃・デニーズ時代 15

「おはようございます!」

凄い。平日の午後2時なのに駐車場は殆ど満杯だし、フロントは来店客のひといきれが凄まじい。これがオープンラッシュなのか。
小金井北店では見たことのない光景に、“始まった”ことを実感する。

「木代さん、村尾さんブレーク入れるんで交代してくれる」
「ました!」

ランチピークはさぞかし凄まじかったのだろう、ウェイトレスステーションにもキッチンにも激戦の跡が伺える。ディッシュアップカウンターに目をやれば、まだチェックが5枚も立っており、西條さんと村尾はラインに張り付いたままだ。早番の応援スタッフは既に上がってしまったのか?!
一方シンクでは小田さんが2コン目の米をといでいる。
早く準備をしなければ。

「おはよう」

先を越されたか。同じ遅番の下地が既に着替えを済まし、エンプロイテーブルで上がったばかりのKH西さんと何やら話している。西さんはいつもほっぺが赤い健康的な主婦で、高校生と中学生の息子さんがいるとのこと。

「西さん、ランチはどうでした?」
「もう大変。わけのわからぬまま終わっちゃったみたい」
「そりゃご苦労さんです」

西さんには当面の間、仕込み、つまりプリパレを主体にやってもらうことになっている。昨日の開店前準備の段階で、トスサラダやコールスローそして米とぎまで、ひととおりの作業は経験していた。本人もあとはスピードアップだとやる気を見せ、我がキッチンの紅一点はやたらと逞しいのだ。

「村尾、バトンタッチ!」
「よろしく」

今日のBランチはビーフストロガノフとカニコロだ。どうりでフライヤーやホットテーブル回りが酷く汚れている。ランチ終了まであと一時間あるが、ストロガノフもこれだけあれば大丈夫だろう。カニコロの補充もバッチリだ。Aランチのミートソースもこれだけあれば問題ない。

「スリーBラン、アップ!」
「OK、それじゃ回りから片付けていこう」
「ました」

平日でもこのレベルであれば、明日、明後日の週末は間違いなく凄いことになる。ランチがない分、注文は多岐に渡り、プリパレの総量を予測するのは難しそうだ。今夜の分も西條さんから指示を仰がなければ。
ディッシュアップが全て完了すると、MDの動きから察してフロントは一段落したようだ。
さあ、ディナーへの準備を加速せねば。

「フライヤー、やっちゃいましょうか」
「そうだね、今のうちだね」

全自動フライヤー3機は油の劣化順に入替を行なう。魚介類のフライは油に匂いがつきやすいので、限界まで使ったら廃油して、それまでフレンチフライ専用に使っていた油を注ぎ入れる。熱せられた油を扱うこの作業にも細心の注意が必要だ。実は同期入社で調布店に配属された者が、廃油缶に油を移す際、相当量の雨水が溜まっていることに気が付かず、注いだ瞬間油が噴き上がり、腕と上半身の広い範囲に火傷を負ってしまうという事件があったのだ。しかも残念ねことに、彼はこれを気に退職してしまった。

「村尾さん、木代さんがフライヤーやったら大至急でスノコね」

こうしてアイドルタイムに突入すると、先ずは早番の締めの作業が行われていく。
グリル板磨き、チャーブロイラー磨き、そしてインサート交換等々。毎日毎度のことだけど、これをやらずして店は回らない。
同時に次のシフトへの準備も急ピッチで行なわれる。

「下地さん、ピザ1シートとクレオール8個、あとは解凍バターとカットレモンやっといて」
「ました!」
「それと小田さん、ヘルプの人がディッシュやってるんで、代わってあげて。一段落したら食事入っちゃおう」

ディッシュ(ディッシュウォッシャー)の仕事は大きく分けて、全自動洗浄機を使ってスピーディー且つ大量に進めていくものと、ひとつひとつをブラシで仕上げるふたつがある。
前者の対象は主にフロントで使うグラス、カップ、プレート、シルバー等々で汚れの度合いは低い。これに対して後者はキッチンで使う鍋類、炊飯釜、インサート等になり、強力にこびりついた油やソースを落とすのは、家事に慣れている主婦でも容易ではない。
ディッシュの方々は不慣れのせいで仕事のピッチが上がらないのは致し方ないが、ここの作業を早めなければフロントのサービスやキッチンのプリパレに支障が出てしまう。よって何が何でも滞ることは許されない。こんな時はBHまたはクックがフォローするしかないのだ。

その時だ、すのこ磨きを終え、汗びっしょりになった村尾が戻ってきた。

「終わりました」
「OK、そしたら木代さんと下地さん、交替でブレーク入って」
「ました」

デニーズで良く飛び交う“ブレーク”という言葉。これは休憩を意味する。因みにトイレへ行く時は“一分”と言う。
労働基準法に準じて社員の一日の拘束時間は9時間。この中に15分間のブレークが2回、30分間の食事休憩が1回で実働8時間となる。

エンプロイコーナーは、ブレーク中の人、上がった人、そして出勤してきた人達でごった返していた。特にランチピークを味わったMD達が、幾千の経験者さながらに、初出勤してきたMDに状況を語る様は見ていて愉快だ。

「どうでした?!」
「もー、大変。焦ってミスだらけ」
「私なんかお客さんに料理が遅いって怒られたわよ」
「やだー、怖い!」

喋る方も聞く方も真剣そのものである。

「あら、木代さんもブレークですか」

アイスコーヒーを片手に西峰かおるが入ってきた。

「休めるときに休まないとね」
「私、いきなりジュウニックなんですよぉ~」
「そりゃ大変だ」

ジュウニックとはフルタイム勤務時間帯12時~21時の略語で、この他にもクンロク(9時~18時)、ジュウイッパ(11時~20時)などがある。

「西峰さんのお家は近いの?」
「自転車で5分位です」
「そりゃ近くていい。この辺は夜になると真っ暗になるから怖いもんね」
「それじゃ、送ってくれます?!」

この一言で場は一気に盛り上がった。

「もてるね!」
「女性に送ってくれますって言われたら、普通、断れないわよね~」
「おいおいおい」

その時だ、私と交替で下地がブレークに入ってきた。

「ずいぶんと盛り上がってるじゃない」
「今ね、西峰さんが木代さんに家まで送って欲しいって爆弾発言したところなのよ」

この直後、ほんの一瞬だが、下地の顔が曇ったのを見逃さなかった。
これは気まずい。

「じゃ、お、俺、ブレーク上がりますね」

今日からスタートだが、何だか色々ありそうな気配。
さっ、気合い入れ直してディナーピークと対決だ!