大瀬崎

大瀬崎

小学生の頃、「きれいな海で泳ぎたいね」と、家族四人で西伊豆の大瀬崎へ出かけたことがある。
当時は静岡県の沼津に住んでいたので、海なら歩いて数分のところに千本浜と呼ばれる海水浴場があったのだが、ここは恐ろしく急深であること、そしてイマイチ水質が良くない等々で、地元民も含めて泳ぐ人は少なかった。

我が家には自家用車がなかったので、大瀬崎へ行くには沼津港と西伊豆を結ぶ龍宮丸という小型客船を利用した。
当時の西伊豆は道路事情もそれ程良くなく、まともな道が延びていたのは恐らく静浦あたりまでだと思われる。何れにしても、船に乗ってきれいな海へ行くというSituationには心が踊った。
海風をいっぱいに受けて疾走する小船。時々波頭に乗って上下動する様は、最初ちょっぴり怖かったが、慣れてくれば寧ろその揺れ自体が楽しくなり、船旅の爽快さに時を忘れたのだった。

大瀬崎の桟橋へ到着すると、待っていたのはびっくりするほど透明感のある海と、そこで群れなすコバルトスズメだ。
そして船から下りてじっくりと周囲を見回せば、別天地と言う言葉が最も相応しい景観に暫し見とれてしまう。
こんな大瀬崎との出会いから今日まで、既に数え切れないほど足を運んできたが、群生するビャクシンと富士山の織りなす景色、神秘の神池、美しく穏やかなビーチと荒々しい外海とのコントラスト、そして何より大好きな西伊豆に位置していること…
これらの要素に魅せられて、少なくとも年に一度はカメラを担いで立ち寄っている。

大瀬崎はスクーバダイビングのメッカでもある。空気タンクがずらりと並ぶビーチ側は、通年に渡って人の動きが見られ賑やかだ。対照的に外海側は見渡す限りごろごろとした岩ばかり。特に灯台の周辺は、いつ訪れても人影が少なく寂しいことこの上ない。
ところがだ。この外海が作り出す空間には一種独特な空気感が存在し、沖を眺めながら佇んでいれば、不思議と懐かしい40年代へ戻っていくような気分に包まれる。
子供の頃の記憶にある静浦の海がそうさせるのか、はたまた草むらに見つける古めかしい漂流物や投棄物に対してノスタルジックを覚えてしまうのか…

沖を行き来する漁船、そしてその背後には大きく優しい姿を見せる富士山。東京という現実から遠く離れたこの地に立つ度に心は和み、見る見るうちに緊張感がほぐれていく。

若い頃・デニーズ時代 15

「おはようございます!」

凄い。平日の午後2時なのに駐車場は殆ど満杯だし、フロントは来店客のひといきれが凄まじい。これがオープンラッシュなのか。
小金井北店では見たことのない光景に、“始まった”ことを実感する。

「木代さん、村尾さんブレーク入れるんで交代してくれる」
「ました!」

ランチピークはさぞかし凄まじかったのだろう、ウェイトレスステーションにもキッチンにも激戦の跡が伺える。ディッシュアップカウンターに目をやれば、まだチェックが5枚も立っており、西條さんと村尾はラインに張り付いたままだ。早番の応援スタッフは既に上がってしまったのか?!
一方シンクでは小田さんが2コン目の米をといでいる。
早く準備をしなければ。

「おはよう」

先を越されたか。同じ遅番の下地が既に着替えを済まし、エンプロイテーブルで上がったばかりのKH西さんと何やら話している。西さんはいつもほっぺが赤い健康的な主婦で、高校生と中学生の息子さんがいるとのこと。

「西さん、ランチはどうでした?」
「もう大変。わけのわからぬまま終わっちゃったみたい」
「そりゃご苦労さんです」

西さんには当面の間、仕込み、つまりプリパレを主体にやってもらうことになっている。昨日の開店前準備の段階で、トスサラダやコールスローそして米とぎまで、ひととおりの作業は経験していた。本人もあとはスピードアップだとやる気を見せ、我がキッチンの紅一点はやたらと逞しいのだ。

「村尾、バトンタッチ!」
「よろしく」

今日のBランチはビーフストロガノフとカニコロだ。どうりでフライヤーやホットテーブル回りが酷く汚れている。ランチ終了まであと一時間あるが、ストロガノフもこれだけあれば大丈夫だろう。カニコロの補充もバッチリだ。Aランチのミートソースもこれだけあれば問題ない。

「スリーBラン、アップ!」
「OK、それじゃ回りから片付けていこう」
「ました」

平日でもこのレベルであれば、明日、明後日の週末は間違いなく凄いことになる。ランチがない分、注文は多岐に渡り、プリパレの総量を予測するのは難しそうだ。今夜の分も西條さんから指示を仰がなければ。
ディッシュアップが全て完了すると、MDの動きから察してフロントは一段落したようだ。
さあ、ディナーへの準備を加速せねば。

「フライヤー、やっちゃいましょうか」
「そうだね、今のうちだね」

全自動フライヤー3機は油の劣化順に入替を行なう。魚介類のフライは油に匂いがつきやすいので、限界まで使ったら廃油して、それまでフレンチフライ専用に使っていた油を注ぎ入れる。熱せられた油を扱うこの作業にも細心の注意が必要だ。実は同期入社で調布店に配属された者が、廃油缶に油を移す際、相当量の雨水が溜まっていることに気が付かず、注いだ瞬間油が噴き上がり、腕と上半身の広い範囲に火傷を負ってしまうという事件があったのだ。しかも残念ねことに、彼はこれを気に退職してしまった。

「村尾さん、木代さんがフライヤーやったら大至急でスノコね」

こうしてアイドルタイムに突入すると、先ずは早番の締めの作業が行われていく。
グリル板磨き、チャーブロイラー磨き、そしてインサート交換等々。毎日毎度のことだけど、これをやらずして店は回らない。
同時に次のシフトへの準備も急ピッチで行なわれる。

「下地さん、ピザ1シートとクレオール8個、あとは解凍バターとカットレモンやっといて」
「ました!」
「それと小田さん、ヘルプの人がディッシュやってるんで、代わってあげて。一段落したら食事入っちゃおう」

ディッシュ(ディッシュウォッシャー)の仕事は大きく分けて、全自動洗浄機を使ってスピーディー且つ大量に進めていくものと、ひとつひとつをブラシで仕上げるふたつがある。
前者の対象は主にフロントで使うグラス、カップ、プレート、シルバー等々で汚れの度合いは低い。これに対して後者はキッチンで使う鍋類、炊飯釜、インサート等になり、強力にこびりついた油やソースを落とすのは、家事に慣れている主婦でも容易ではない。
ディッシュの方々は不慣れのせいで仕事のピッチが上がらないのは致し方ないが、ここの作業を早めなければフロントのサービスやキッチンのプリパレに支障が出てしまう。よって何が何でも滞ることは許されない。こんな時はBHまたはクックがフォローするしかないのだ。

その時だ、すのこ磨きを終え、汗びっしょりになった村尾が戻ってきた。

「終わりました」
「OK、そしたら木代さんと下地さん、交替でブレーク入って」
「ました」

デニーズで良く飛び交う“ブレーク”という言葉。これは休憩を意味する。因みにトイレへ行く時は“一分”と言う。
労働基準法に準じて社員の一日の拘束時間は9時間。この中に15分間のブレークが2回、30分間の食事休憩が1回で実働8時間となる。

エンプロイコーナーは、ブレーク中の人、上がった人、そして出勤してきた人達でごった返していた。特にランチピークを味わったMD達が、幾千の経験者さながらに、初出勤してきたMDに状況を語る様は見ていて愉快だ。

「どうでした?!」
「もー、大変。焦ってミスだらけ」
「私なんかお客さんに料理が遅いって怒られたわよ」
「やだー、怖い!」

喋る方も聞く方も真剣そのものである。

「あら、木代さんもブレークですか」

アイスコーヒーを片手に西峰かおるが入ってきた。

「休めるときに休まないとね」
「私、いきなりジュウニックなんですよぉ~」
「そりゃ大変だ」

ジュウニックとはフルタイム勤務時間帯12時~21時の略語で、この他にもクンロク(9時~18時)、ジュウイッパ(11時~20時)などがある。

「西峰さんのお家は近いの?」
「自転車で5分位です」
「そりゃ近くていい。この辺は夜になると真っ暗になるから怖いもんね」
「それじゃ、送ってくれます?!」

この一言で場は一気に盛り上がった。

「もてるね!」
「女性に送ってくれますって言われたら、普通、断れないわよね~」
「おいおいおい」

その時だ、私と交替で下地がブレークに入ってきた。

「ずいぶんと盛り上がってるじゃない」
「今ね、西峰さんが木代さんに家まで送って欲しいって爆弾発言したところなのよ」

この直後、ほんの一瞬だが、下地の顔が曇ったのを見逃さなかった。
これは気まずい。

「じゃ、お、俺、ブレーク上がりますね」

今日からスタートだが、何だか色々ありそうな気配。
さっ、気合い入れ直してディナーピークと対決だ!

ハンドクラフト

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「明日、仕事?」
「休み」
「じゃ、どっか遊びに行こうか」
「ディズニーランドは?!」
「勘弁してくれ」
「それじゃ、富士五湖で手作りがいいな」

3月18日(金)。女房とふたり、山中湖湖畔にある【クラフトの里・ダラスヴィレッジ】を目指した。
思い起こせば8年前。やはりこんな話の流れにより、同じく山中湖畔にある【アントヴ】という体験工房で、サンドブラストで仕上げるガラス工芸を体験し、それが夫婦共通の楽しい思い出として心に残ったのである。
そのアントヴではウィスキーグラスにイラストを画き、今でも宝物として大切に使っている。

「何作るの?」
「シルバー細工。パパは?」
「俺は陶器の絵付けでもやろうかな」

ダラスヴィレッジは、吹きガラスや陶芸などの本格的技術を要するものから、石鹸に柄入りナプキンを貼り付けるアートソープや万華鏡など、誰でも手軽に着手できるものまで、様々なコースを用意してある。
私がトライする陶器の絵付とは、あらかじめ選んでおいた陶器へカラーシールを貼り付けていき、完成したらスタッフに預けて後日釜で焼いてもらい、大凡2週間後に自宅へ届くという仕組みだ。
カラーシールはカッターやはさみで自由な形に切り抜くこともできるが、アルファベット、数字、そしてハート、星、花、動物等々のひな形カッターが用意されているので、絵心に自信のない人でも好きな絵柄を並べていくだけで、見栄えの良い一品を作ることができる。
darasu__makeカットしたカラーシールを水に浸すと、2~3分ほどで台紙が剥がれてくるので、空かさずピンセットでつまみ上げ陶器にレイアウトしていく。厄介なのは陶器とシールの間に必ずと言って気泡が入り込み、これを出来る限り抜かなければならない。何故なら気泡の部分は色が乗り辛いので、結果的にムラになってしまうのだ。
今回はロックを画いてみようと四苦八苦したが、お恥ずかしいことに似ても似つかぬ不細工犬となってしまった。しかし作業は楽しく、あっと言う間に一時間が過ぎ去った。

「どお? あら、いいじゃない」
「変な犬になっちゃった」

一方、女房は何やらウミガメの銀細工をこしらえて、ネックレスにしたそうだ。何れにしても、手作り品は作業も思い出の一部として残るので愛着はひとしおだ。約1時間少々遊べて、二人分の材料代込み込み5,000円強はとてもリーズナブル。しかもスタッフの方々は皆フレンドリーで、手ほどきも丁寧だからとても安心なのだ。

「あ~、お腹すいたね」

気が付くと午後一時を回っている。腹も空くわけだ。

「吉田うどんでも食べにいこうか」
「美味しいの?」
「分かんない。でも、この辺の名物らしいよ」

yoshida-udon工房を後に駐車場へ戻ると、湖畔はまるで春のような暖かさ。午後の空気感と相俟って心地よさはこの上ない。
出発して鎌倉往還を河口湖インター方面へ進んでいくと、木々の間から富士山が見え隠れし始めた。麓から頂上へ至るまで全て雪で覆われた真冬の姿は、寧ろ早春を演出して好ましい。
吉田うどんは河口湖インター手前にある【玉喜亭】でいただいた。
ふれ込みでは堅くコシの強い麺とあったが、実際はそれほどでもない。名古屋の味噌煮込みうどんのようなサプライズはなく、普通のうどん屋で出しても違和感はないレベル。
しかしここのうどんは料理としての完成度が高く、掻き揚げ、煮キャベツ、甘辛肉等々のトッピングはどれも丁寧に調理されていて、肝心な麺の食感は非常に良好だ。そして一滴残らず飲み干したくなる汁はリピーターの多さを想像させた。
但、敢えて一点挙げるならば、スリダネの風味がイマイチ。よく利用する河口湖の【ほうとう不動】のそれと比較すると、残念ながらやや個性に乏しいのだ。
料理にアクセントを与える甲州の名物スパイスだけに、もう一歩の工夫が欲しかった。

シーズン前の静かな山中湖。
しかしゴールデンウィークを皮切りに、鎌倉往還の交通量は一気に増えることだろう。

写真好きな中年男の独り言