若い頃・デニーズ時代・番外編

<デニーズ>1号店20日で閉店 4世代で通う客「寂しい」
ー 毎日新聞 3/18(土) 9:32配信 ー

意味深長なニュースである。
デニーズ1号店である上大岡店のオープンは1974年。既に43年の月日が流れたわけだ。そして久々に聞く上大岡店の名は、アメリカンムード満点だった頃のデニーズを思い出すきっかけになった。
記事内には当時のメニュー写真も載っていて、その懐かしさに暫し釘付けである。

パンケーキを筒状に丸めて3本。これは“ピッグインナブランケット”という一品。
丸めた中身はスパイシーなポークリンクソーセージ。パンケーキのことをブランケット、つまり毛布と称したいかにもアメリカらしい雰囲気を感じるメニューだ。
ソーセージが入っているのにメープルシロップで食べるの?!と、当初は首を傾げたものだが、いざ賞味すれば、これが意外にいけた。アメリカンテイストからアメリカ文化を感じた一瞬だ。
その手前は“和風オムレツ”。人気メニューの代表格で、スタッフうけも抜群。二個の卵にカットしたポークリンクソーセージ、長ネギ、ほうれん草、そして醤油を少々たらし、軽く合わせてから、バターで焼き上げる風味豊かな一品。ご飯のおかずにも最高である。
和風オムレツの隣は定番中の定番“フレンチトースト”。普通の食パンを使いながらも、焼き上がりにホイップバターとメープルシロップを絡めれば抜群の味わいへと変貌。個人的に大好きなメニューだ。
そしてコーヒーの隣は“ストロベリーパンケーキ”。
アメリカ直輸入のストロベリーソースがたっぷりとかかった素材自慢の一品。甘さ控えめのソースはパンケーキとの馴染みが良く、飽きのこない味わいがナイス。
そもそもデニーズのパンケーキはクオリティーが高く、当時日本国内にも展開していたアメリカのパンケーキ&ワッフルのチェーン店「アイホップ・IHOP」の看板商品と較べても、勝るとも劣らないテイストがあった。ふわふわで風味高いのはアイホップのパンケーキ。これに対し、焼き面の香ばしさと食感の良さから、ホームメイドを強く感じさせたのがデニーズのパンケーキだ。
そんなデニーズの個性的なメニューも、競合各社との熾烈な競争からか、「全てのニーズへ対応しよう!」とばかりに、ラーメンや和食のモーニング等々、ポリシーから外れた商品であっても積極的に取り入れ続け、気が付けば看板商品と独自性は消え失せ、挙げ句の果てには、何ら他社と変らぬ平凡なメニュー構成へとすり替わっていたのである。
正直なところ、「麺・丼・膳」はデニーズに必用だろうか?!
レストランでは目の前に置かれた料理を単に食する行為だけでなく、その店の雰囲気も味わいつつが利用客の一般的心情。アメリカンチックなレストランで、クラブハウスサンドやフレンチトーストを賞味するすぐ隣のテーブルで、辛み味噌の香りを強烈に放った担々麺をずるずるっとやられたら、どの様な気分に陥るだろう。
昨今では海外旅行も一般的になってきて、一度くらいならハワイやグアム辺りを訪れたことのある方は多いと思う。その旅先で馴染みのDenn’yロゴを見かけ、本場のデニーズを体験したなら、日本へ戻って近所のデニーズへ入ったとき、誰しも微妙な違和感を覚えてしまうだろう。
昔懐かしの“デパート食堂”ならまだしも、デニーズはアメリカからやってきたレストランシステムなのだ。

若い頃・デニーズ時代 26

「おはようございます! 今度お世話になります、立川店の木代です」
「あっ、こんにちは。それじゃ事務所へどうぞ、マネージャーいますよ」

デニーズ田無店は新青梅街道の上り線沿いに位置する、小金井北店と同様の106型店舗である。
このタイプの特徴は何と言ってもオープンキッチンにある。キッチンメンバーの動きを客席から眺めることができ、そのビジュアル効果は普通のレストランにはない躍動感を作り上げるのだ。しかも当時主流となっていた149型と違って、ウェイトレスステーションがないので、店内は明るく開放感に溢れている。但、クックにとっては、調理をしている眼前に、常連客が並ぶカウンター席がこちらを向いているのだから、ディッシュアップに時間が掛かったときなどは、お客さんから発する厳しい目線をもろに受けなければならない。

今日は休日だったが、異動前の挨拶で田無店を訪れてみたのだ。
迷惑にならぬようアイドルタイムを狙ってきたが、窓ふきをするBHや、テーブルにワックス掛けをするMD達を目にすると、田無店の教育状況が分かるというもの。それぞれやるべきことをやるべき時間帯にやっている。マネージャーの努力が実を結んでいる証拠である。
しかしバックへと案内してくれたMDの髪の毛の色は、ちょっと、、、
せっかく感じがいいのに、まんま水商売と思しき茶髪では、デニーズのイメージにそぐわない。
ディッシュの脇をとおると、UMだろうか、黄ジャケを着た人がエンプロイテーブルでカレーを食していた。

「おはようございます!」
「おっ、木代か?!」
「はい。ご挨拶に伺いました」
「そうか、今飯食ってるから、5番でコーヒーでも飲んでろ」
「ました」
「今日は橋田もいるから、話しでもしてな」

これまで一緒にやってきた何れのマネージャーとも異なる強い個性を放っている。上西UMの第一印象はそれほどインパクトのあるものだった。
とにかく顔が怖い。パンチを当ててるし、目つきも“その筋”って感じだ。
バンカラ?!、子供大人?!、ヤンキー?!
どれともつかない特異な雰囲気だが、何れにしても、IYグループのイメージからは完璧に逸脱している。

「木代君? 橋田です」
「はじめまして。よろしくお願いします」

がっちりとした体つきの男性が、いつの間にか傍に立っていた。
私が田無店に異動すると同時にAMへと昇格する現UMITの橋田さんだ。上西UMとは180度違う第一印象が素直に笑える。彼らがペアを組んで田無店のオペレーションに励んでるなど、どの角度からみても想像がつかない。

「一緒に頑張ろう」
「ありがとうございます」
「だけど最初は“通し”だから大変だぞ」
「はい。覚悟しています」

そう、新米UMITには通しという洗礼が待っている。
デニーズの基本営業時間は7時から23時までの16時間だが、基本的にその16時間を早番(6時30分~15時30分)と遅番(14時30分~23時30分)の2シフトでカバーしている。ところがマネージャー職に成り立ての頃は、その業務をいち早く身につけようと、6時30分~23時30分、拘束17時間というを超長時間労働を、約1週間立て続けに行なうことが暗黙の習わしとなっていた。体力的にも精神的にもハードなことは言うまでもないが、皆、マネージャーヘ昇格した直後の気合を持っていたので、これも未来への布石と言わんばかりに取り組んだのだ。
昨今ではブラック企業なるものが大きくクローズアップされ、劣悪な労働環境が日本の社会に深く浸透している現況が明らかになってきたが、当時は「猛烈サラリーマン」なる言葉のニュアンスが多少なりともまかり通る傾向が残っていて、デニーズ社内でも、仕事は絶えずプライベートの上にあり、先ずは仕事ができなければ!の精神が当たり前のように通っていた。前述した早番、遅番も実は名ばかりで、早番の退社はディナーの準備を整え、且つ遅番の食事を済ませた後になるから、大体17時から18時。遅番も然りで、出社はランチピークのフォローと称して12時なのだ。よって各シフトは名目上拘束9時間実働8時間だが、実際は拘束12時間が毎日続いていた。
但、恐ろしいこポイントは、それがあたかも常態のように捉えられているところだ。
どんなにガッツのある者でも長時間労働が続けば、本人も気づかぬうちにやる気は減退していく。

ペーパーナプキンで口を拭きながら上西UMがバックから出てきた。

「いつからだっけ」
「3月1日からです」
「そうか、じゃまず1週間の通しから始めるか」
「ました。よろしくお願いします」
「家が近いから多少は楽かもな」

帰宅したら速攻で風呂へ入り寝るようだ。そうすればなんとか4~5時間は睡眠時間を確保できるだろう。

「橋田」
「はい」
「一日だけ、通し、付き合ってやれや」
「ました」
「すみません、よろしくお願いします」

この後、田無店へ届いている赤ジャケのサイズ確認をし、出勤しているアルバイトひとりひとりへ挨拶してから 失礼したが、これまでの異動とは明らかに異なる雰囲気に身は引き締まり、これからの仕事の大きさと責任の重さを反芻するのであった。
しかしそれは脇に置いても、茶髪のMD、まんまヤンキーのKH、そして上西UMから発するオーラが気になってしょうがない。
胸の内には不思議な印象が張り付いて、最初は小さかった不安の粒が、徐々に大きくなっていくのだった。

銭湯・三谷浴場

2月23日(木)、夕方。

「パパ、お湯が出ない!」

女房の一声に嫌な予感。実は2~3日前から給湯器が非常に怪しくなっていた。突如リモコンの電源が落ちたり、唸るような音が出たりと、寿命間近と思しき症状の連発だ。
昨年秋には二世帯住宅の親父側の給湯器が壊れて新品へと交換していたので、こっちもそろそろだと覚悟はしていたし、そもそも新築から既に20年、給湯器としての耐久年数はとうに過ぎている。

「裏に行ってコンセント見てくるよ」

もしかすると単純に接続が緩んでいるのかもしれない。駄目元でも一度は確認の必要がありそうだ。
給湯器は家屋の西側に設置されていて、その隣にはセントラルヒーティング用のボイラーが並んでいる。女房とふたりきりの生活になってからは、セントラルヒーティングは殆ど使うことがなく、今では無用の長物と化している。寒い冬もリビングのエアコン一基で十二分に快適なのだ。
さて、コンセントはロック式だったので、触ってもがっしりと固定されている。一応差替えもやってみたが、電源が入る気配は全くない。
これは素直に木場建設へ連絡したほうが良さそうだが、時計を見ると18時を回っている。取りあえず電話を入れたが、やはり誰も出ない。致し方ないので、連絡は翌日の朝一まで待つことにした。
そう、木場建設はうちを建てた地元の建築屋で、どの様な要件にでも素早く対応してくれ、実に頼りになる。

さて、お湯が使えないとなると困るのは風呂だが、目と鼻の先の三谷商店街には、私が子供の頃から営業を続けている【三谷浴場】なる銭湯がある。小学校へ上がるか上がらないかの頃だったか、自宅の木製湯船を新しいものに交換する間、まだ元気だった祖父に連れてってもらったことを覚えている。
浴室は大勢の利用客で賑わい、その中には近所のおじさんもいて、< きれいに洗うんだぞ >なんて声を掛けられたものだ。

「銭湯っていくらなの?」
「分かんない」

スマホでググると、あったあった、三谷浴場。

「460円だって」
「シャンプーや石鹸、あるのかしら」

これについては何も載っていない。

「パパが先に行って、様子見てきてよ」
「ああ、わかった」

50数年ぶりの三谷浴場に、ちょっぴり高ぶりを覚えた。好きで日帰り温泉はよく利用するが、銭湯となるとややニュアンスが違う。あそこは古そうだから番台かな?とか、知っている奴に会うかも?!等々、どうでもいいことを頭に浮かべながら、とりあえず小さいタオル2枚を持って出かけてみた。

のれんを潜ると下足場の両脇には靴箱が置かれ、正面左に男湯、右に女湯の入口がある。徐に男湯の引き戸を開けると、殆ど耳の高さから「いらっしゃい」の声が放たれた。
やはり番台だったのだ。無表情な年輩女性の顔が超至近距離に、、、

「じゃ、500円」
「石鹸お持ちですか? なかったら30円でありますけど」
「じゃ、下さい」

入浴料460円に30円の石鹸で、おつりが10円。ワンコインで済むところがいい。
そして建物は古いが、脱衣場も浴室も掃除が行き届き、清潔感に溢れている。銭湯はこれでなきゃ!
見回すと私を含めて客は4人。広々と贅沢に使えそうだ。
水の蛇口に湯の蛇口と、洗い場の配列は至極オーソドックス。シャワーは首のない固定式なので、体を洗って石鹸を流す際には桶の方がやりやすいかもしれない。
湯船へ向かうと、正面には銭湯お決まりの壁面画が迫る。大迫力ではあったが、ここは定番の富士山ではない。
豊富なお湯にそっと足を沈めると、「アちっ!」。
温度計は43度辺りを指しているが、脛がヒリヒリするほど熱いのだ。少しずつ慣らしながら時間を掛けて何とか下半身まで沈めてみると、たまらず汗が噴き出してきた。更に根性を入れて首まで浸かると、若干慣れてはきたものの、この状態では10秒がいいところだ。
一旦洗い場に戻ってクールダウン。ゆっくりとお湯だけで頭髪を洗う。私は洗髪の際、シャンプーを使うのは週に一度だけである。毎日使うと頭皮に痒みが出てくるのだ。色々と低刺激タイプのシャンプーも使ってみたが、やはりお湯だけで洗うのが一番。但し、たまにシャンプーをしないと、頭髪がとんでもなくごわごわになるのがちょっと、、、

ふと人が立ち上がる気配を感じ、何気に目をやると、さっきから体中を泡だらけにして念入りに洗っていた60代後半と思しき大男が、今まさに湯船に浸かろうとしていた。
熱いお湯に対して、どの様な反応を示すか気になるところだ。
と思いきや、すごい!
予想を裏切り、一気に首まで浸かってしまったのだ。私には到底できない芸当である。
恐らくかなり我慢をしているのだろう、見る見るうちに顔が赤らみ始めた。しかもその赤みが尋常でないからちょっと心配だ。あの歳では、無理をすればプッツンの可能性だってある。
その後一分近く頑張っていただろうか、湯船から上がってきた大男は全身真っ赤っか。
私と同じ色白だから尚更目立つのだ。

自宅まで徒歩2分と近いので、髪も乾かさずに三谷浴場を後にした。おもてに出ると冷え切った空気が頬を刺したが、体は寒さを跳ね返した。そう、銭湯の豊富なお湯は、確実に体を芯から温めてくれたようだ。これは温泉効果と同様で、家に戻ってからもぽかぽかが持続し、結構な間、汗が滲んできたほどである。
給湯器交換という大出費には参ったが、そんなことがあって久々に味わった銭湯は、これからの生活にちょっとした楽しみとして変化を与えてくれそうだ。

写真好きな中年男の独り言