裏高尾

高尾山山頂展望台

 ―山歩きでも始めてみようか。
 東京近郊在住の方がこう考えたら、最初に思いつくのは高尾山ではないだろうか。幾度となくマスコミに紹介されるほど人気が高く、アクセスも上々。おまけにケーブルカーありということで、経験と体力に合わせたコースがチョイスできるところが着目点だろう。もともと人気の山ではあったが、二〇〇七年にミシュラン・グリーンガイド・ジャポンで3つ星評価を得られてからは、人気観光地へと様変わりし、週末ともなれば大勢の人たちで山が埋め尽くされるようになった。これはこれで素晴らしいことだが、私の考える山歩きの楽しさといえば、やはり静かな森の中で自然に触れることに尽きる。
 ということで今回は高尾山も含めて、比較的ハイカーの少ない裏高尾を歩いてみようと計画を練ってみた。

 九月二十九日(水)。七時半に出発。旧甲州街道脇にある日影沢キャンプ場を目指した。
 到着すると平日なのにほぼ満車。少々焦りながらスペースを探し回ると、ラッキーなことに進入禁止の看板前に一台分だけ空いていた。最近の山歩き、駐車場にはついている。
 さっそくキャンプ場脇から“いろはの森コース”に入った。ここを使うと高尾山頂上まで最短で行けるが、高尾山の登山コース紹介にある〇号路等々とは異なる完全な山道であり、頂上まではひたすら上りが続く。

白い花

 頂上に到着すると強烈な太陽光に晒され、それまでの薄暗い樹林帯に慣れた目には少々きつい。半袖シャツは既に汗でびっしょりだが、気温自体はさほど高くなく、風が通るととても気持ちがいい。茶屋脇のテーブルに陣取り、麦茶で喉を潤す。
「ここ空いてますか」
 気がつくと真正面に年配の男性ハイカーが立っていた。
「どうぞどうぞ」
 見れば七十過ぎか、真っ黒に日焼けした顔が健康的だ。
「今日はいい天気ですね」
「明日から崩れそうなんで、きてみました」
「はは、私も同じです」
 予報によれば、明日から台風十六号の影響が出てくるとのことだ。三連休をずっと自宅に籠るのはやりきれないので、本当に今日は来てよかったと思う。アップルパイとエナジードリンクでカロリー補給をすませると、次のピークである城山へと向かった。
 今回の目標は高尾山、城山、小仏峠、景信山と裏高尾の縦走にある。長丁場だが、この頃連荘で山を歩いているせいか、体がしっかりと山慣れしていて不安はない。
 高尾山頂上からは延々と下りが続いた。この先登り返しは最低でも二度あるはずだから、気合を入れなければ。

 さすがにこの界隈は山道整備が行き届いている。殆どの坂は木の階段になっていて、スリップの危険も少なく、初心者でも安心して歩くことができる。ただ、意外や階段は上りも下りも足に負担がかかるので、私はあまり好きではない。アザミや野菊がいたるところに開花していて、夏の終わりをアピールしているようだ。

小仏城山

 一丁平の展望台へ到着すると、灰色の雲が青空を隠し始め、気温が急降下。若干だが風も出てきたので、汗でぬれたシャツが冷たくなり、薄ら寒くなってきた。
 周りを見回すと何人かのハイカーが小休止しているが、これまで歩いてきた山々で見かける人達とはちょっと人種が異なることに気がつく。先ず圧倒的に平均年齢が高い。若いカップルや家族連れもいないことはないが、七割方は高齢者だろう。そして高尾山というSituationからか、ハイカーのいで立ちが全体的に軽い。登山よりはハイキングといった装いで、ザックも小さいし、トレポを持っていても一本、靴はスニーカーまたはそれに近いものだ。もっともそういう私もザックはDeuter の15L だし、ズボンはジーンズ、靴も7年前に購入したColumbiaのハイキング用である。これほど気軽に歩ける山なのに、景色はいいし、コースも様々だから、人気があって当然なのだ。そして多数を占める高齢者達だが、登山の目的は恐らく健康維持ではなかろうか。単に体を動かしたいのであれば刈寄山のピストンでも十分だが、ここには味自慢の茶店もたくさん出てるし、その日のコンディションに合わせてコースも選べる、そして単独で歩いていて不慮の事態に陥っても、周囲は人だらけなので安心感がある。

 六十代後半ともなると体力低下は避けられない。臼杵山で張り切り過ぎて膝痛を起こした後はさすがに考えて
しまい、これからは膝に対し負担の少ない歩き方に徹底しようと念頭に置いた。
 上りでは絶えず軸足に重心を置いて、やみくもに大腿筋を使わせないこと、下りでも同じく軸足に重心を置き、膝にかかる衝撃を最小限に減らすのだ。これを楽な山行である霧ヶ峰から始めてみた。
 霧ヶ峰周回コースはもともとアップダウンが少ないので、どれほどの効果が上がったか体感はできなかったが、なんとなくやり方というか、絶えずこのようにに歩くのだという感覚はつかめた。これを生かして次の浅間嶺にトライすると、頷けるような効果が出た。浅間嶺もそれほどハードなコースではないが、山歩きには違いない。下山してみれば膝痛は一度も起こらなかった。ただ、頻繁に山へ入ると足も慣れてくるので、このレベルなら特に歩き方を意識しなくともトラブルは出ないのだが、それとはまた異なる安定感もしっかりと確認でき、松生山ではなく、もっと先の山までピストンしても平気だったのではという余裕も沸いたほどだ。この勢いに勇気づけられて訪れたのが今回の裏高尾である。

小仏峠から相模湖と中央自動車道

 城山山頂も大勢のハイカーで賑わっていた。茶屋もあるが週末ではなかったからか営業はしていない。ふと、右側のテーブルに目をやると、一丁平で見かけた三十代と思しき女性がストーブを出してお湯を沸かしている。彼女の歩くペースはわずかに私を上回っていて、途中の長い上り坂でパスされてしまい、時と共にその後姿は小さくなていった。やや悔しかったが、今回は歩き方の徹底も目的のひとつだったので、引きずられずにマイペースを守った。その際、まじまじと観察したわけではないが、きりっとした切れ目と通った鼻筋、そしてきれいに染め上げた栗色の髪と、一人で山歩きをする女性には珍しく、際立つ容姿を持っていた。ただ、ザックや登山靴は使われた感があって、初心者ではなさそうだ。
 その彼女、ザックの中から小さな袋とコーヒーミルを取り出すと、さっそく取っ手を回し始めた。女性ハイカーは、こと山食に関して凝っている人が多い。わざわざパスタを茹でたり、サラダを作ったりと、男性陣とはひと味もふた味も違った山の楽しみ方である。
 お湯が沸くと丁寧にドリップしている。ここまでは漂ってこないが、きっといい香りなのだろう。マグカップを口へ運び、一口飲んだ後の満足そうな横顔が何とも美しい。
 あまり見とれていると、誤解されそうなので、おにぎりひとつを頬張った後、縦走最後のピークである景信山へと向かった。

景信山

 城山から延々と下ってくると小仏峠に到着。景信山への上りが始まるのはここからだ。小仏峠はJR中央本線の小仏トンネルの真上に位置し、景信山の北側には馴染みの刈寄山が目と鼻の先にある。広場の真正面から山道が三方に分かれていて、左へ行くと相模湖、右へ行けば小仏バス停、そして景信山へは真ん中の急坂を上っていくのだ。
 木々の間から相模湖と中央自動車道がよく見える。

 これでもかと上りが続いた。しかし山道の整備が行き届きているので歩きやすい。とにかく一歩一歩進めば難しいことはない。この辺りまで来ると人影もまばらになり、静かな山歩きに浸れた。それにしてもさっきまでいた城山山頂の活況が嘘のように思われる。
 コーヒーを飲んだ後、彼女はどの辺りを歩いているのだろうか。ちょっとばかり気になった。
 
 景信山へ到着。頂上にはたくさんのテーブルやベンチがあり、人気の山であることがうかがえた。ワイワイと話声を発している若い五人組が今まさに出発するところである。その左側には太った女性が腹ばいになって本を読んでいる。更にその近くには年配夫婦二組が食事中だ。
 ここからの眺めもなかなかだ。百八十度の展望が広がっている。ただ、空気感は既に午後の気配であり、時計を見れば十三時を回っていた。ゴールまでは膝に厳しい下り坂が続くので、なんとなく気持ちが落ち着かない。これまでアップダウンを幾度も繰り返しているから、ダメージは間違いなく溜まっているはずだ。いつもの痛みが出たら最悪の下山となる。十二分に下半身のストレッチを行った後、早々に出発した。

冷や汗トラバース

 景信山からの下山は今回のハイライトとなった。
 歩き始めから急降下と呼ぶにふさわしい下りが続いた。ちょうど奥多摩は愛宕尾根の下りのようだ。意識して膝に負担をかけぬよう大腿筋で軸足を支える。歩き始めは路面が良かったので気持ち的には楽だった。しかも殆どのハイカーは小仏バス停へ向かうので、距離はあったが前にも後にも人の気配を感じ、なんとなく心強い。
 しばらく下っていくと右側に道標が見えた。ベンチが設置されていて、ずいぶんと年を取った男性がぽつんとひとり休憩中だ。右へ下ると小仏バス停、そしてまっすぐ行くと、今回の計画ルートである高尾の森作業小屋経由の小下沢林道へ至る道だ。右は開けた明るい道、一方こちらは鬱蒼とした森の入口といった感じで、おまけに、<滑りやすい下り坂>、<熊出没>と、注意書きまで張ってある。他の方と同じに右へ下り、小仏バス停からさらに旧甲州街道をひたすら東に歩けば、POLOが待つ駐車場へは戻れるはず。
 一瞬心が揺れたが、ここまで計画通りに進んでいるし、なにより体調がいい。ということで迷いを捨て、一心となって直進した。

 勾配はこれまでより急になり、一瞬の気も抜けない。背の高い草が道を覆い隠していて、ついつい足元の確認がおろそかになる。慎重に下っていても、ヅルっときてハッとすること屡々だ。それにしても長い。地図で確認すれば小仏峠から景信山ほどの距離しかないのに行けども行けども景色が変わらない。見通しが良くないので、稜線からどれほど下ったかも検討がつかない。道幅はどんどん狭くなり、ブラインドを左に回り込むと、岩が道を塞ぐように山側から延びていた。岩は滑りやすいので、ここをトラバースするには注意が必要だ。滑ったら最後、谷まで止まらない。恐る恐るクリアして更に下っていく。そのうちにせせらぎが聞こえてきた。谷に向かっているのだろう。暫く行くと小さな渓流が現れた。ここからは流れに沿う道になる。ゴロゴロした岩は濡れているので更に滑りやすい。気合を入れて慎重に進む。

清流

 おかげで心配した膝痛は起こる気配もない。ただ、急な下りの連続だから、腿と脹脛がパンパンになって悲鳴をあげていた。座って休憩できるようなところを探したが、どこにもそんな場所はなかったので、そのまま座り込む。ちなみに小仏バス停の分岐からは、ずっとひとり旅。
 五分ほど休んだ後、再び歩き出す。やや傾斜が緩んでくると、周囲を観察するゆとりが生まれてきた。この川沿いの道、なかなかのPhotogenicである。紅葉真っ盛りにでもなれば、腰を据えて撮影してもいいのでは。そんなことを考えていると歩も軽くなり、そのうちに前方が開けてきて、待ち望んだたっぷりした太陽光が射してきた。前方に見えるのが高尾の森作業小屋である。ここにもいくつかのテーブル、ベンチが置かれていて、一眼レフを持った年配男性と、老年夫婦が休憩中だ。あとはひたすら林道を歩き、中央自動車道とJR中央本線を潜ればそこがゴール。どっと安心感が溢れ出た。

 毎回初めてのルートを選んでいるのは、湧いてきた自信それとも冒険心なのか。わかっていることは、年を取ったこと。年を取れば残る人生は必然的に短くなる。しかもカメラを片手に野山を歩き回れる精神と体を考えれば、あと幾ばくも無いことに気がつく。要は自分で自分の尻を叩き始めたことなのだろう。
 以前のブログにも記したが、<今できること>と<今楽しむことが可能なこと>は大きな鍵なのだ。


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