若い頃・デニーズ時代 90

「やめる? なんでだよ」

やはり菅村DMには意外だったようだ。普段から部下の胸中には無関心な人だから、この反応は予測どおりである。

「10年もやってきて先も見えたから、もういいかなって。違う仕事で心機一転したいんですよ」
「なに分かったようなこといってんだ」

素直な気持ちが全く伝わらないようだ。

「それにダイビングだ、バイクだって、そんな流行ものをやる会社は、危ないんだって」
「いやいや、何といわれても私なりに考えたことですから」

これで会話はお終いである。慰留の一言もなかったし、退職を決意するまでの経緯を聞いてくれるような優しそぶりも一切なかった。菅村DMの頭の中では、この時点で“木代不要”となったのだ。
まあいい。私もあなたに用はないし、あと1カ月半であなたの顔を見なくて済むと思うと、無性に嬉しくなってくる。エリアのメンバーの中にも、私のことを羨ましく感じる者が絶対いるはずだ。

正式な退職願を提出し、残るは残務と引き継ぎだが、その前にビッグイベントである年末年始が控えているので、次の仕事のことばかりを考えているわけにもいかない。やはり最後はびしっと決めて次の店長へきれいにバトンを渡したい。嬉しいことに宗川と辻井はよく動いてくれて、年末年始の人員配置に不安はなかった。

「マネージャーがやめちゃうんなんて、ほんま、寂しいですよ。なっ、ふみちゃんもそうやろ」

アイドルタイム。谷岡の寂しそうな目線が、ディッシュアップカウンター越しに届く。
先ほどから、早番の締め作業をふみちゃんと二人で進めている。

「もちろんやわ。私もやめよかな」
「あほっ、何いってんねん!」

この二人はほんとにいいコンビである。彼らがいれば平日のモーニング~ランチは鉄壁だ。

「そうだそうだ、谷岡。年明け早々に関西地区のクッキングコンテストがあるんだよ」
「ほんまですか」
「早めにメンバーを決めて報告しないと。センターはもちろんお前だけど、あとの二人のうち一人はKHを入れなきゃダメなんだ」
「そんならもう決まってます。ふみちゃんやろ、それは、なっ」
「なんやそれ。飯田さんや加藤さんだっておるやん」

それまでコメを研いでいた飯田さんが、いきなりひとこと。

「あかんあかん。私はおばちゃんやさかい、若いふみちゃんがやったらええ」

問題はあと一人。社員クックである辰吉か大金のどちらかを選ばなければならない。この人選は谷岡だけではなく、宗川と辻井からも意見を聞いてみようかと思っている。
クッキング能力は甲乙つけがたいが、仕事の丁寧さでやや大金に軍配が上がりそうだ。
クッキングコンテストとは、クック並びにKHの技術研鑽のために始められたイベントで、各ディスクリクト別に開催される。1チームはクック3名+監督(UM:私)の4名。監督はディッシュアップカウンター前で、タイムキーパー並びに盛り付け等々のチェックを行う。
マニュアル通りのディッシュアップタイムとポーション、そして盛り付けの美しさを競う。勝敗のポイントはセンターの能力にかかるところが大きく、つまりのこと、谷岡のハンドリング如何で優勝ももぎ取れるというわけだ。

結局のところ、メンバーはセンター谷岡、フライヤーはふみちゃん、そしてグリル板は大金となった。辰吉と大金はどちらも優秀な新人で、マネージャーたちの意見でも五分に分かれたが、最後は辰吉が大金に、

「お前が出ろ。俺は次でええよ」

と、簡単だがこれで決まった。

会場は年明けにオープンする「尼崎立花店」。西宮中前田からは目と鼻の先で、立地から考えても今後は強力なライバルとなるだろう。もっともここが開店する頃には、既に新しい仕事が始まっているのだ。

大学を卒業し、デニーズマンとなって10年目を迎えた今、こうして新しい道へ進もうとしている自分が何となく不思議である。辞める理由があっても、心のどこかにブレが残っているのか。
入社以来、辛いことや嫌なことは山ほどあったが、デニーズの仕事は好きだったからここまでやれたと思う。それに社会人としてずいぶん鍛えられたことには感謝している。
組織とは何か、人は百人百様、部下はよく見てやるべし、トレーニングの重要性等々、これからまだ長く続く社会人生活を前にして、デニーズで得られた知識や考え方は大いなる武器になることは間違いない。このスキルがあるからこそ、船出の決心がついたといえる。失礼だが、菅村DMだって反面教師と思えば、彼との出会いも勉強になったと解釈できるのだ。

いつものことだが、帰宅するとすぐに入浴、さっぱりした後はプシュッとプルトップを開ける。
一日の疲れがほろ酔いの力を借りて体から溶け出ていく。これがなければ一日が終わらない。一杯目はビールと決まっているが、二杯目からはウィスキーに代わる。
と、その時、電話が鳴った。

「はい、木代ですが」

受話器を取った麻美が、“いつもお世話様です”とかいっている。店のスタッフか?まさか菅村DMではあるまい。

「パパ、東海の青山さんだって」

青山さんって、あのDMの青山さんだろうか。
東海エリアの時は長らく坂下DMにお世話になったが、西宮転勤の直前にDMの異動があり、わずか1カ月だったが青山DMの下で勤務したことがある。青山さんは新卒の1年先輩で年齢も一つ上だから、何気に話が合った。それにやけに明るく面白い人なのだ。

「どうもお久しぶりです」
「どお、元気にしてる?」
「おかげさんでバリバリですよ」
「聞いたよ、、、やめちゃうんだって」
「そうなんです。もう転職先も見つけたし、後はこの年末年始をやっつければおさらばです」
「おいおい、なんかさみしいじゃない」
「私なりによく考えましたから」

なんだか青山さん、心なし元気がない。

「でもさ、いい判断だったかもしれないよ」

えっ?! 彼、何がいいたいのだろう。

「この頃さ、木代と同じような不満、そう、激しい出店ペースのあおりで異動が頻発してるじゃない。それでこの先どうなるかって悩んでる連中が結構いるみたいなんだ」

この後、淡々と話しが続き、最後の方では青山さん自身の心情までが飛び出してきた。
彼も現況には不安を抱いていて、びっくりしたことに転職も視野に入っているとのこと。出店ペースは衰えを知らないが、実はかなり前から既存店の前年割れが続出していて、分かりやすくいえば、新店の売り上げ頼りで、全社の前年割れを食い止めている状況にあるのだ。これま自転車操業といってもあながち間違いではない。UMだったらここ数カ月、会社の焦りが手に取るように分かっていたはずだ。
そんな状況の中、DM達には至極厳しいお達しがあった。
大勢いるUMの中で特に優秀な人物がDMへと昇格するのだから、DMは担当エリアの前年割れ店のUM代理となってオペレーションを改善し、前年対比100%以上の実績を示すこと。
これでは大東亜戦争末期の特別攻撃隊である。崖っぷちのお後なし。達成できなければ戻るな!である。
店回りと報告書だけで高給を得ていた、特にベテランDM連中には、カウンターパンチ並みの手痛いお達しだったことだろう。

「いずれにしても頑張ってな」
「電話までもらっちゃってありがとうございました。青山さんももうひと踏ん張り頑張ってくださいね」
「あははは、分かったよ、それじゃ奥さんによろしく」

彼のエリアだったら、もう少しの間デニーズに残っていたかもしれない。
しかし、それは今後の人生にとって正解なのか、果たして失敗なのか、、、
何れにしてももうすぐ新しい環境での生活が始まるのだ。


「若い頃・デニーズ時代 90」への2件のフィードバック

  1. 私は、約7年程のデニーズジャパン勤務でした。20歳台の青春時代に勤務した経験は、後の職業生活に役立つものでした。
    私の場合は、体調不良が退職理由でしたが、精神的苦痛も感じていました。

    1. 私も同じようなものです。勤務は10年間。23歳から結婚~第一子ですから、まさしく青春真っただ中でした。
      デニーズで学んだ最たるものは「組織運営」。現在の職場でも役立っています。今から思えば感謝です☆

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