若い頃・デニーズ時代 72

沼津インター店にとって年間最大の山場である“”旧盆ウィークも無事に終わり、しかもおかげで予想を超える成果をあげることができた。峠を越えた安堵感はひとしおで、スタッフ達の顔付にも、良い意味でのゆとりが戻ってきたように思えた。
9月に入ると朝夕では秋の気配を感じるようになり、気持ちは自然に次のシーズンへと切り替わって行った。
麻美との結婚準備も順調に進んでいて、暮れには結納、そして来年5月に挙式も決まり、人生の順風満帆を実感するのだった。

その日は中番(12時~21時)に入っていたが、珍しくジャストに上がることができて、同じシフトだった東海大軍団のSA嘉村、そしてクックの井上と、エンプロイテーブルで一服つけていた。

「今日は引くのが早かったですね」
「30分前から締めや補充ができたもんな」

井上がクック帽と前掛けを外して、好きなハイライトを胸いっぱいに吸い込んでいる。彼とは煙草の好みが合うようだ。多くの人が吸っているマイルドセブンは軽すぎて余り好みではなく、香りが良くて、パンチの効いたショートホープが一番のお気に入りだ。

「今日もそこそこ入ったんだろうけど、夏を超えると何だか楽に感じるよな」

嘉村がしきりに頷いている。口数が少なく、与えられた仕事はきっちりと責任をもって行うところは、東海大軍団の中ではピカイチ。彼なら卒業後どのような仕事についても人並み以上の成果を出せると思う。尤も、西伊豆の船主の御曹司なので、十中八九親父さんの仕事を継ぐのだろうが。

「マネージャー、独鈷の湯(トッコノユ)って知ってますか?」

その彼がいきなり口を開いた。

「ん? なにそれ」
「井上さんは、知ってます?」
「俺も知らないな」
「修善寺にある無料の露天風呂ですよ。川沿いにあるんですけど、東屋になっていて脱衣場もないんです」
「それじゃ周りからモロ見えじゃん」
「そうなんです。だから昼間は誰も入ってないです」
「混浴?」
「はい」

こんな話の流れだったが、何だか無性に面白そうな情報だったので、早速行ってみることになった。
もちろんメンツは言い出しっぺの嘉村、そして井上と私の三人である。

伊豆最古の名湯である修善寺温泉は、店から大凡30kmと距離的にはそれほど離れていない。因みに首都圏とここ沼津界隈を比べれば、その距離感は大分異なり、時間帯にもよるが、夜遅くだったら車で30分もあれば間違いなく到着する。東京で同じ距離ならその倍は覚悟しなければならないだろう。

国道から温泉街へ入ると、道は急に狭くなった。スピードを緩めて更に進んでいくと、間もなく左手に川、その先にホテルが見えてきた。
腕時計を見ると22時半を回っていたが、通りには浴衣姿がぽつりぽつりと目に付く。さすがに人気の温泉地だ。
車を適当な路肩に駐車させ、店から失敬してきたタオルを取り出すと、わき目も振らずに独鈷の湯へと直行。なるほど、嘉村の言ったとおり、川の畔に忽然と東屋が立っている。

「ほんと凄いところにありますね、これじゃ昼間は無理だ」

脇にある石段を降りていくと、暗い中にも独鈷の湯の全体像が分かってきた。

「おっ、ラッキー。誰も入ってないっすよ」

暗闇に乗じてさっさと衣服を脱ぎすて湯へ浸かった。3人だとのびのびできる広さがある。大人5人までだったら何とかなりそうな大きさだ。

「いや~~、きもちいいな」
「さいこうさいこう」

闇夜を照らすのは街路灯とホテルの窓から洩れる光だけ。そして目の前に流れる桂川の絶え間ない川音が、耳に心地よく響き渡る。これは何とも嵌るSituationだ。
からんころんと時たま届く下駄の音を聞くと、結婚したらこんな温泉でのんびりするのもいいかなと、柄にもないことを思ってしまった。

入る人が少ないのだろうか、湯は結構熱かった。
湯船から出ると足湯のように腰かけて、山の冷気に身をさらした。すぐに火照りが消え去り気持ちがいい。
うつらうつらしだした時、一つの下駄音がこちらへ近づいてくるのに気づき、反射的に耳を澄ました。音の厚みやピッチからして女性か、、、
ここが目的だったら気の毒なことだ。小さな露天風呂に男が3人も入っていたら引き返すしかないだろう。

「誰か石段を下りてきますね」

嘉村も気が付いていたらしい。
足音は躊躇なく近づいてくる。そして簡易脱衣所に足音の主が現れた。

「あら、先客さんね」

女性だ。暗い中、目を凝らせば、頭をアップにした“粋な御姐さん”って感じな人だ。
年の頃は40代前半だろうか。

「すみませんね、先にいただいちゃってて」
「いいのよ、大勢の方が楽しいじゃない」

その直後だ、彼女は踵を返すといきなり帯を解き、着ていた浴衣をスルッと肩から落とした。
呆気にとられた我々3人は、その後姿を見て更に呆気にとられたのだ。
肩からそのくびれた腰に亘って、牡丹だろうか、赤い花が連続して描かれているではないか。まさしくそれは本物の入れ墨であり、彼女が普通の女性とは明らかに異なることを意味していた。
浴衣を畳んで棚に置くと、前も隠さず湯船に入ってきた。
後からよく思い出せば、つり目で唇も薄く、かなりきつい顔つきではあったが、体は、無駄なぜい肉のない、むしろ年増女の魅力をこれでもかと発散する極めてエロいものだった。
私も若い。これほどの裸体を目の当りにしたら、本来は男が反応するだろうが、背中の花と、物怖じしない所作に圧せられ、情けないことに、まるで冷たい海にでも入ったかのように、これでもかと縮み上がっていたのである。

「お兄さん、水止めて」
「あっ、はい」

ここへ到着した時から、温泉の湯があまりにも熱かったので、脇にある水道の栓を開いていたのだ。

「こんなに温いんじゃ、入った気しないでしょ」
「で、ですね」

決して温いとは思わなかったが、そう返答するしかない雰囲気が漂っていた。見れば嘉村も井上も完全に茹っている。これはそろそろ引き際のようだ。
二人に目配せしてから、

「それじゃ僕ら、これで」
「あらそうなの、おやすみなさい」

3人とも前を隠しつつ、俯き加減に湯船から上がり、簡易脱衣場で手早く着込むと、逃げるように独鈷の湯を後にしたのだ。
石段を上がった左側の自動販売機でそれぞれ飲み物を買い、目と鼻の先に停めてある車へ向かう。
それまで寡黙だった3人だが、車へ乗り込んだとたん、一斉に口を開いた。

「ひょえ~~すごかったぁ~~」
「あの人、ヤクザの女ですかね」
「俺、ビビりましたよ」

彼女には圧倒されっぱなしだったが、この上ないいい経験だったことは間違いない。独鈷の湯自体をもっと楽しみたかったのも正直なところだが、それはこれからいくらでもできること。
入れ墨女のきれいな裸体を目の当りにできたなんて、これからの人生には十中八九ないことなのだ。

「今日は来てよかったっすよね」
「俺になんかおごってくださいよ」
「あはははは、わかったわかった」

嘉村のドヤ顔や、井上の楽しそうな表情を見ていると、やはり沼津に来てこれまでの流れが変わったのだと、つくづく実感したのだった。
さっ、明日も仕事。頑張るぞ!


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