バイク屋時代 32 大崎社長は強運の人

 社長の病気がリウマチと診断されたのは、ずいぶん後になってのことだ。
 この頃、国内におけるリウマチ治療は現在ほど進んでおらず、効果的な薬もなかった。これに対して米国はリウマチ医療の先進国だったので、社長の検査データを米国の大学病院へ送り、分析してもらって初めてリウマチだと判明したのだ。ただ、同国に様々な治療薬が出回ってはいても、日本では国の承認が下りてないため簡単には使用できない。そんな中、関東圏でリウマチ治療に積極的だった埼玉医科大学が、治験を行うという情報を聞きつけ、杏林病院を通じて問い合わせたのである。

埼玉医科大学病院と杏林大学病院

 大崎社長は強運の人。
 治験はややもすると万能の救済策と思われがちだが、実際に効果が表れるのはほんの一握り。ところが社長の場合、幸運なことに効き目があらわれ、痛みは残ったものの、進行にはブレーキがかかるという、願ってもない結果を得られたのだ。
 ただ、起床したらまず風呂につかり、体を十分に温めてから、手首、膝まわりの関節を少しずつ動かしていく。こんな日課は変わらず続ける必要があった。
 そもそもリウマチは現代の医学をもっても完治は不可能。症状を低減させ、生活に支障のない状態までもっていく“寛解”が限度なのだ。当時それに近いレベルまで回復したのだから、万々歳と言えた。ただ、ゴルフを普通に楽しめるようになるまでは、ここからおおよそ二十年を要した。

「やばいよ。ヤマハの所長がかんかんだってさ」
「えっ? どうしてですか」
 LTR調布の認可が下りて、開店準備は急ピッチで進んでいた。ところがだ、元の店であるYSP調布の社長が、ヤマハへ閉店報告を入れたタイミングがかなり遅かったらしく、うちが既に契約を完了させ、近々にハーレーの専業店として新たにスタートする間際になってやっと販社の耳に入ったようなのだ。当然ヤマハにも管轄エリアがあるわけで、知らぬ間に商圏に穴があき、しかもそこに競合メーカーの店が建つという最悪のパターンになったわけだから、かんかんにならないわけがない。
「そりゃやばいですね~」
「まあYSPの社長はやめちゃうわけだから、後のことはどうでもいいって感じだったんだろ」
「それにしても…」
「そうそう、週明けにヤマハ西東京の会議があるんで、木代くん行ってね」
「えぇぇぇぇぇ」
 針の筵。

 ハーレー騒動はヤマハだけでは終わらなかった。
 YSP撤退は突如湧き出た話だったので、大崎社長もこのチャンスはとにかくものにしようと、わき目も振らずに突っ走った感があり、本来なら踏んでいかなければならない様々なステップを端折っていたのだ。
 そう、もう一つの騒動とは、事前に行わなければならない、近隣二輪販売店への開店挨拶を、忙しさにかまけて後回しにしていたことで、同業者から非常識との声が出始めていたのだ。特に目と鼻の先にある〇〇府中オートが大憤慨の様子。この店は組合員ではなかったから、全く情報が入ってこなかったようだ。外装もほぼ完成し、Harley-Davidsonのロゴ看板を取り付けたその日に、煮えくり返った店主が乗り込んできた。
「おたくもずいぶんだね。業界の常識ってもんがあるんじゃないの」
「いや~、ほんとすみません、バタバタしてたんで」
「この辺の社長連中、みんなぶつぶつ言ってるよ」
 仏頂面のまま、なめるように店内を見回している。
「ちなみにさ、月何台くらい売る予定なの?」
「まだ何とも言えないですが、4台から5台売れればいいかなって」
「ほ~、そんなもんだ」
 府中オートの社長、急に仏頂面が緩んだ。
「まっ、がんばってよ」
「お騒がせしました。近いうちに顔出します」
「おう」
 踵を返すと、あっけなく帰っていった。
「嵐は過ぎ去りましたね」
「たぶんあの社長、売り上げが4~5台って聞いて安心したんだ。ハーレーの儲け幅を知らないからな」
「なるほど」
 ハーレーを5台売ったら、国産バイク20台分の儲けに迫ることを知っていたら、仏頂面は収まらなかったかもしれない。
 商談カウンターに戻り、缶コーヒーのプルトップを開けて一服つける。
 真正面に甲州街道が走り、左手には“東京オリンピック・マラソン折り返し地点”の看板。そして北方面は、広大な関東村跡地という荒涼とした風景。ついつい思う、果たしてこのロケーションで売れるだろうかと。YSP調布が撤退した理由がなんとなくわかるような気がしてため息が出る。それにモト・ギャルソンは創業以来、ずっと武蔵野市を中心として営んできた。近いとは言っても今回の店は調布である。
「社長、ここって、けっこう寂しいところですね」
「まあね。でも、ハーレーはエリア販売だから、知れてくれば絶対売れるよ」
 いやはや力強い。大崎社長はいつだってぶれないしポジティブだ。経営者はこのような性格じゃなければ務まらないかもしれない。
 そう、大崎社長はとにかく強運の人なのだ。
 LTR調布をオープンして一年ほどすると、関東村跡地に重機や多量の資材が運ばれ始め、なにやら物騒ぎなムード。聞けばサッカーをメインとして開催する東京スタジアム(現在の味の素スタジアム)の建設工事が始まるとのこと。サッカーの試合があればおびただしいほどの観戦客がやってくる。LTR調布はそんなファンで沸き立つスタジアムの目の前にあるのだから、人の目につくことは必至。これ以上効果を見込める宣伝は絶対になく、モト・ギャルソンにとっては強力な追い風になるわけだ。

 LTR調布はオープン直後より予想以上の成果を上げ続けた。売上はもちろん、既納客の固定化についても、チャプターと称するハーレー公認のメンバークラブの積極運用で、ツーリングをはじめ、クリスマスパーティーやボーリング大会等々の定期イベントも回を増すごとに盛り上がった。


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