古希を一か月後にひかえた老体で、テントやシュラフ等々を詰め込んだ、総重量10Kgを越える大型ザックを背負い、二日間で22Kmの登山道を何事もなく歩ききれるだろうかと、当初は不安を募らせたが、予想外の好天に恵まれ、何とも心躍る山行を堪能することができた。ただ、最後の最後で思わぬ事故を起こしてしまい、己の甘さを戒めるとともに、仲間二人には多大な迷惑をかけてしまったことを深く反省している。
二日前の天気予報では、九月十三日(金)、十四日(土)共に“午後より雨”だった。ところが初日の夕方に三時間ほど降られたものの、翌日は早朝より雲一つない青空が広がった。
十数年ぶりになるテント泊の行き先は、東京都最高峰の雲取山(2017m)にある【雲取山荘】。ここへは過去に二度ほど行ったことがあるが、深い森と石尾根の織りなす山岳美は飽くことがないほど素晴らしい。
今回の山行は珍しくソロではなく、山友のHさん、そしてモト・ギャルソン現役スタッフであるTくんとの三名パーティー。二人はともに三十代の若さなので、ペースメーカーは最年長の私にやらせてもらった。
雲取山荘までは大定番である“鴨沢コース”を使った。初日は丹波山村村営駐車場~七ツ石小屋~奥多摩小屋跡~小雲取山~雲取山~雲取山荘。二日目は山荘から巻き道を使って石尾根~ブナ坂~堂所と長く単調な山道をひたすら下っていく。
「おはようございます」
Hさんを三鷹駅で拾った後は青梅街道を西へとまっしぐら。村営駐車場へは八時十五分に到着。先に着いていたTくんが支度を終えた姿を現した。準備が整い出発したのは八時三十五分だ。
雲取山までの道のりに危険個所はほとんどないが、とにかく距離がある。特に七ツ石小屋まではダラダラと緩い上りが続き、意外や負担が大きい。今回はおしゃべりしながらの道中なので休憩ポイントの堂所まではあっという間だったが、一人だったらその距離がとてつもなく重く感じるはずだ。途中、蛇が出たり、大きな蛙が飛び跳ねたりと話題には事欠かなかった。それと登山道のいたるところにキノコが自生していて、Tくんはよほど好きなのか、その都度iPhoneを向けていた。
「白いのは毒っぽいのが多いんですよ」
意外や知っている。
もう少しで七ツ石小屋到着というところから徐々に傾斜がきつくなる。小屋の一部が前方右上に見えてきたのに脚が重く思うように歩が進まない。
「いやぁ~~疲れた、ここで食事にしよう」
テント場まで進むと、細長い板で作られたベンチがぐるりと設置されている。以前は無かったものだ。先ずは冷たい水で渇きをいやし、空になった水筒へ補給。木陰を選んで腰をかけ、おにぎりとパンにかぶりつく。雲が張り出し空模様がやや怪しくなってきたが、その分涼しくて気持ちがいい。一息付けたとき、あまりにも大量に汗をかいていることに気がついた。下着のパンツまでびしょびしょになり、立ち上がるとベンチがお尻の形に濡れる。さらに首にかけたタオルを絞ってみたら、タラァ~~と汗が滴り落ちた。予測より気温が高いこともあるが、やはり久々の重いザックに体が悲鳴を上げているのだ。
ブナ坂から石尾根へ出ると、防火帯に沿って伸びる登山道は開放感抜群。残念ながら富士山は望めなかったが、奥多摩小屋跡が見えてきたとき、
「そうそう、奥多摩小屋のテント場が復活するみたいですよ」
Tくんが思い出したように放った。
なるほど、ヘリポートの周りには何やら資材が置かれていて、テント場を囲むように養生シートが張られている。さらに驚きは、奥多摩小屋は跡形もなく、その跡地に真新しい建物と脇にはきれいなトイレが立っているではないか。近づくと説明看板があり、それによれば来月に開業する旨が記載されている。ここはロケーションが素晴らしく、特に夏の夕方以降には、富士山へ弾丸登山する人たちが頭につけるヘッドライトの光が数珠のように連なって見えるのだ。
小雲取山からは一気に雲取山頂上を目指した。
「避難小屋が見えた!」
頂上は避難小屋のすぐ隣である。疲れているはずなのに、ラストスパートではないがピッチが上がった。そして頂上のやけに立派な石碑を囲んで記念撮影。
「やったね。あとは小屋まで下るだけだ」
頂上は雲に覆われ展望は殆ど効かない。頂上に立つのはこれで二度目だが、いずれも同じ状況。相性が悪いのかもしれない。
記念撮影が終わると早々に頂上を後にした。標高差400mを一気に下る坂は緊張を強いられる。疲れた体に鞭を入れ、まだかまだかと下っていくと、ついに山荘が見えてきた。
「もうちょいだから気をつけていこう」
十五時。無事に雲取山荘へ降り立ち、三人握手を交わす。
「テント張ったらビールで乾杯しよう」
「いいっすね~!」
小屋の受付でテント設営代(@千五百円)を払い、テント場へ向かうと一番手前の一等地が空いていた
。さっそく各自作業に取り掛かる。それぞれのテントは、私がアライのライペン、HさんはMSR、そしてTくんはモンベル。テントの設営が初めてのTくんは、何やら取説書らしきものを開いている。
水場の脇のテーブルに陣取って、待ってましたの乾杯。染み入るとはまさにこのこと。あまりの旨さにうっとりするが、疲れた体にはアルコールがよく回り、すぐに酔いが回ってきた。
「あれ、雨か、降ってきたみたい」
これからだというところで、ついに雨ふりが始まった。
「ほら、あそこの軒下へ移ろう」
雲取山荘には軒がうまい具合に張り出ていて、その下にはおあつらえのベンチがある。横殴りの雨でもない限りここで休憩や食事ができるのだ。
「もう一本飲んじゃおうかな~」
Hさん、ピッチが速い。山荘の売店では冷えた350mlが五百円。そんな私も持参したウィスキーが止まらない。魚肉ソーセージ、カレーメシ、そしてHさんお手製のチゲ風肉野菜煮込みがアルコールをこの上なく美味しくさせるのだ。
ほろ酔い加減で腕時計を見るとちょうど十九時。
「この辺でお開きにしよう」
「は~い」
シュラフに潜り込むと、いったんやんだ雨が再び降り出した。さらに気温が下がるのではと心配したが、意外や暖かな夜になり、久々のテント泊にもかかわらずなんとか寝入ることができた。
翌朝は五時半に起床。テントから抜け出しトイレに向かうと、すぐに他の二人もやってきた。
「おはよう。撤収が終わったら、朝飯やって下山しよう」
「了解。それにしてもきれいな朝焼けですね」
「もうすぐ日の出だ」
ふと見上げれば、朝焼けの空には雲一つない。二人はすでにiPhoneを構えて太陽を待っている。
「わー、昇り始めた」
自然が作り出すオレンジ色のなんと美しいこと。シンプル極まる天空ショーだが、とにかく感動ものだ。
「ほんと、来た甲斐がありましたね」
「これもテン泊ならではだよ」
見る見るうちに空は明るさを増し、突き抜けるような青に取って代わっていく。
朝食はキノコのスープパスタとパン。それとHさんが入れたドリップコーヒーと豪華。しかも早朝の澄んだ空気の中だから、おいしさも倍増だ。
下山は、巻き道~小雲取山~石尾根~ブナ坂と最短距離で駐車場を目指す。
「足元びしょびしょ、ゲーターが必要ですね」
この界隈の巻き道はどこもクマザサに覆われ、おまけにたっぷりと朝露を含んでいので、膝から下はずぶ濡れである。おまけに地面はほとんど見えないので、岩や木の根に躓かないよう十分な注意が必要だ。細かなアップダウンが続き、スタート直後ということもあって地味に疲れる。それでも三十分ほどすると尾根が見え、道標のある小雲取山の取り付けへ出た。
「うわぁ~~すごい、絶景!」
まさに山岳美。石尾根からは富士山を中心に大菩薩や小金沢山稜がくっきりと見渡せる。自然に皆の歩は止まり、iPhone片手の撮影会が始まった。ブナ坂から先はゴールまで樹林帯歩きになるので、景色を撮影するならここが最後のチャンスになる。
美しい日の出に圧倒的な岩尾根からの眺め。昨日の曇り空や夕刻の雨を差し引いても大満足のできる山行になりそうだ。そしてさすが人気の山系だけあって、早朝から雲取山を目指して登ってくるハイカーの多いこと。奥多摩小屋に降りてくるまでに十人近くすれ違った。
「駐車場、出られるかな」
とは、Tくん。そんな心配が湧きたつほど次から次へとハイカーが現れるのだ。
ブナ坂へ入ると、あとは長いが単調な山道を下っていくのみ。
「あ~温泉入りたい」
「さっぱりしたいですね~」
この先、上りはないし難所もない。気分的にはすでに“おつかれさん”である。
ところがだ、この緊迫感のなさが思いがけない事態を引き起こしてしまったのだ。下るにつれ山道の傾斜はさらに緩み、心身へのストレスは小さくなっていった。
二日間の累積疲労と気の緩みがそうさせたのだろう、知らぬ知らぬうちに瞼を重くしていたのだ。歩きながらの寝落ち。左側の斜面へ足を踏み外し、体が宙を舞うまで夢の中だった。Hさんの話では、落ちた!と思ったら、回転しながら滑落していき、木の幹へ頭部をぶつけて止まったとのこと。今回の山行では先頭が私、次がHさん、そしてけつもちがTくんだった。よってこの滑落劇はHさんの目の前で起きたのだ。
運のいいことに、右目の横をしたたかにぶつけた以外に大きなダメージはなかった。Tくんがすぐに下りてきてくれ、
「大丈夫ですか! ザックは俺が持ちますから」
「ありがとう、でもこのままいけそう…..」
滑落地点の坂は傾斜が強く、這い上がるのは不可能と判断したTくんは、傾斜の緩いところまで誘導してくれた。おかげで自力で登山道まで戻ることができたのだ。
これまで二十年近く山を歩いてきて、一度の事故も起こしたことがなかっただけに、いつの間にか大きな慢心ができあがり、登山に絶対タブーな油断を招き、寝落ちなどというあまりに情けない状態を作り出してしまったのだ。
連休明けの17日(火)は、朝一で三鷹の脳神経外科を訪ね、頭部CTを含めた検査を行い、幸いなことに異常なしの診断をいただいた。
Hさん、Tくんには様々なフォローをいただき感謝の念に堪えない。