どうやら週明けから梅雨入りとなりそうだ。当分の間、鉛色の空を見上げながら「山、行きてぇ~な」となるのは必至である。だったらその前に一本、歩いてくるかと山地図を引き寄せた。
昨年八月の木曽駒ケ岳を最後に低山ばかりが続いていたので、たまには壮大な山岳景色でも拝んでみようと、選んだのは八ヶ岳連峰の硫黄岳(2760m)。
硫黄岳は十二年前の七月に山友のMさんと登った以来となる。その時は桜平まで車で行き、夏沢鉱泉を経てオーレン小屋でテン泊し、初日に硫黄岳、翌日には天狗岳を回り、2500m越えの山としては蓼科山に続く三座目だった。
山頂からの広々とした眺望と、赤岳を筆頭とする南八ヶ岳の山々が迫力を伴い眼前に現れたときには、ついに来たんだ!という実感に包まれ感動したものだ。それが強く脳裏へ焼き付いたのだろう、再び眺めてみたくなったのだ。
六月二十日(木)。雲が出るのは午後からとの予報だったが、朝の中央道から見た西の空はすでにガスが山々を覆い始めていた。標高の高い山なのでちょっと心配である。
今回のコースは十二年前とまったく同様とした。桜平から夏沢鉱泉、オーレン小屋、夏沢峠、硫黄岳、赤岩の頭手前分岐、オーレン小屋と、ぐるり一周する。
桜平の無料駐車場は三カ所あって、登山口に一番近い順から、上、中、下と称され、当然“上”が最も使い勝手はいいのだが、webで調べると平日でも満車のことが多々あるとのこと。どのサイトも六十台のキャパがある“中”を推奨していた。
その“中”へは八時少し前に到着。案の定、七割近く埋まっている。この様子では“上”に空きは期待できない。もっとも登山口までは徒歩で十五分もかからないので、それほど問題にすることではないのだ。
歩き始めると徐々に昔の記憶がよみがえってきた。山道と並行する鳴岩川の美しい流れは変わらずで、渓流撮りのみの目的で訪れても面白いかもしれない。
三十分もすると夏沢鉱泉が見えてくる。建物脇の大きな岩にザックを下ろし、甘いチーズパンを取り出し小休止。冷え冷えとした空気感に包まれ瞬く間に汗が引いていく。
大体のハイカーはここで一服を入れるようで、人影が途絶えない。しばらくすると下山してきた年配男性が隣に腰かけてきた。「お疲れさん」と声をかけると、互いの年齢が近そうなこともあって、ぽつりぽつりと会話が始まった。
「だんだんと雲が出てきましたね」
「昨日は快晴でしたよ。オーレンにテント張って、朝一に硫黄岳登って、今降りてきました」
「失礼ですが、おいくつです?」
「六十六です。七十五まではテント背負って歩き回るつもりです」
「いや~パワフルですね。自分は六十九なんですが、テン泊は十年くらい前からしんどくなってそれからご無沙汰ですよ」
この男性、自宅は同じ東京のあきる野市。よって奥多摩へはしょっちゅう出かけるが、北アルプスが好きで、その際も必ずテントを背負っていくという羨ましいほど豪快な人だ。
夏沢鉱泉からオーレン小屋までの林道はずいぶんと整備が進んでいた。場所によっては大規模な崩落があったのか、道そのものを迂回させ、景観までが変わっている。
オーレン小屋に到着すると、建物に少々のリニューアル跡が見られたものの、十二年前とほとんど変わらない雰囲気に懐かしさがこみ上げた。テン場は右手の一帯にも簀の子が設置され、より使いやすそうだ。登山中継点としては夏沢鉱泉以上に活気があり、テーブルコーナーは途切れることなく利用者が入れ替わる。隣では年配夫婦が山小屋の提供する料理を食していて、見た目からしてうまそうである。登山ルートに山小屋が含まれるときは、こうした利用方法もありだと思った。
オーレン小屋からは本格的な登山道になるが、ここも整備が行き届いていてとても歩きやすい。北八ヶ岳の特徴である苔の森は美しく、傾斜は徐々にきつくなっていくものの、おいしい空気を思いっきり吸い込めば、まだまだ力が湧いてくる。
ヒュッテ夏沢が見えてくると、同時に硫黄岳の荒々しい斜面が現れた。夏沢峠はちょうど北八ヶ岳と南八ヶ岳との境界になるという。ヒュッテの脇を抜け再び山道へ入ると、突如シカの親子が現れた。人間慣れしているようで、かなり距離を詰めて行っても平然と何かをついばんでいる。何とか5m近くまで接近すると、彼らが定める許容距離を越えたのか、静かに森の中へと立ち去っていった。
森林限界を超え、今度はガレ場が続いた。傾斜はさらに増し、呼吸が徐々に苦しくなってくる。そもそも夏沢峠の標高は2430mあるので、酸素濃度は平地の76%しかない。ちなみに富士山の五合目が2400mである。当然そこから先は更にしんどくなるので意識して深い呼吸に努めた。
頂上が近づいてくると、それまで歩いてきた道筋が見渡せる豪快な山岳風景が広がった。これを眺められただけでも来た甲斐があるというもの。立ち休みもかねて振り返っては幾度となくレンズを向ける。
頂上直下、最後のひと踏ん張りと鞭を打った。
硫黄岳の広く平らな頂上へ出ると、な、なんと大勢の若い子たちが屯っているではないか。それも半端な人数ではない。ちょうど男の子が二人近づいてきたので声をかけてみた。
「今日は林間学校なのかな?」
「そんな感じですね」
話を聞くと、彼らは東京のひばりが丘にある“自由学園”の中等部の生徒で、赤岳鉱泉に宿泊しているとのこと。八ヶ岳登山は学校の恒例行事らしい。
「しばらく休憩してるの?」
「いえ、そろそろ赤岳鉱泉へもどると思います」
おっとこれはまずい。先に出発しないと大渋滞に嵌ってとんでもないことになる。
「じゃ、おじさんは行きます」
「気をつけて」
実にいい子たちだ。この素晴らしい山岳景観は間違いなく彼らの脳裏にも強く焼き付き、かけがえのない思い出となるだろう。
急坂を下りきり、オーレン小屋への分岐を右へと折れる。周囲は深い森で、様相はまさに初夏。一番好きな山の季節だ。若葉が初々しい緑をこれでもかと見せつけ、溢れる生命力に圧倒される。
分岐から一時間弱で無事オーレン小屋へ到着。今回は右膝の状態もすこぶる快調で、余力を残しつつ桜平へ戻ることができたのは幸いだった。
改めて八ヶ岳登山の奥深さを確認できたとともに、充実感溢れる山行となったのは言うまでもない。次はルートを変えて天狗岳へトライしようか。