春を求めて・河津桜

春を求め、二月二十四日、二十五日と一泊二日の日程で、南伊豆そして西伊豆を旅してきた。
今冬はひときわ寒さが厳しかったので、その反動か、春の到来は待ち遠しく、河津桜の開花情報が耳に入ると、いてもたってもいられなくなったのだ。

今回の旅では些細なことに感動した。それは二日間続いた“無風”である。先回、先々回、そしてその前も、伊豆へ向かうと恐ろしいほどの強風が待ち受けていて、三脚が立てられない、潮風でレンズがべとべと、大海原の先の先まで白波が立ち、磯は荒れ狂う波しぶきで全く近づけないという散々な目にあっていた。ほのぼのとした伊豆には暫くお目にかかっておらず、それはとても寂しいことであり、花と緑がある優しい空気に包まれたいという願望は、それこそ恋心に近いものだった。それが今回の旅で思う存分叶うことができたのだ。

諸口神社の鳥居を狙おうと、船着き場に足を踏み入れた。待っていたのは、久々に見る戸田のコバルトブルー。陽光を反射する透明度の高い海は光に満ち溢れ、無数の小魚が群れをしている。その様に暫し見惚れてしまい、主人公にするつもりの富士山へなかなかレンズが向かない。今更だが、西伊豆の海は天下一品だ。

井田のミカンもそろそろ甘くなってきただろうと、無人販売所に車を止めた。大小とりどり七個で三百円。試食用もあったので、ひとふさ口に入れると、いかにもミカンらしい酸っぱさが広がった。二袋を買い求め、車へ戻ろうとしたとき、井田の入り口に河津桜が目に入ったので、ちょっと寄り道をすることにした。

始めて気がついたが、集落へ下る道沿いは立派な桜並木になっているではないか。間にぽつりぽつりと梅が入り、なんとも彩りがいい。見れば桜にレンズを向ける先客がいる。三十代と思しき小柄な女性で、構えるカメラはミラーレスのニコンZ。
「こんにちは」
どちらともなく声をかけ合った。
「ここ、初めてですけど、素敵なところですね」
彼女の車と思しきプリウスのナンバーは“大阪”である。そんな遠くから来たのであろうか。ただ、しゃべり方は完全な標準語だ。
「海の近くには菜の花畑もあってきれいに咲いてました」
「そうですか。僕もこれから菜の花を撮りに行こうかと思って」
ひとことふたことの後、互いに反対方向へと車を走らせた。
彼女の言っていたとおり、畑は鮮やかな黄色一色で眩しいほどだった。井田ならではのおしゃれな家をバックに暫しα6000のシャッターを切り続けた。それにしても暖かい。あちらこちらと立ち位置を変えていると、額に汗が浮いてくる。今回の旅では、南伊豆は下賀茂の河津桜並木をメインとしていたが、ここも負けてはいない。伊豆の春という題材を考えると、井田はバランスよくまとまっている。海、池、集落を囲む山々、そして桜並木と菜の花畑。おまけに可憐なミカンもいい脇役になっている。

下賀茂へは一年前の四月にソメイヨシノの撮影で訪れていた。今回初めてわかったことだが、青野川沿いには千本近くの桜があるが、ソメイヨシノは宮前橋から河口方面のみで、そこから先は河津桜だったのだ。これなら下賀茂界隈は二月から四月に渡って季節を愛で続けることができる。地元はうまく考えたものだ。
湯けむり橋を渡ると、道の駅の手前にあった小さな駐車場へ車を入れた。川沿いの遊歩道には平日ながら大勢の花見客で溢れている。さすがにメッカだけのことがあり、モデル嬢を使った撮影や、ワンちゃんの撮影、そしてブライダルの撮影も行われている。背の高くスレンダーな新婦が纏う、眼にも眩いウェディングドレスが印象的だ。ゆるやかな流れの青野川には鯉が群れ、桜のピンクを引き立てるように咲き誇る菜の花。ここにも噎せ返るような春があった。

今宵の宿は<下田伊東園ホテルはな岬>。下田港の真ん前に立つリーズナブルな宿泊施設。部屋は四人部屋とも思わせる広いもので、清潔さも十分であり、単に安いだけの陳腐な宿とは一線をかく。申し込みは素泊まりだったので、食事のレベルは定かでないが、温泉は好印象。たっぷりとしたお湯は肌触りもよくて、長く浸かっていても湯疲れがしない。露天にあった五右衛門風呂はややぬるめだったが、陶磁器の湯舟がひとり入るにはちょどいい大きさで、いったん目をつむるとあまりの気持ちのよさに、ついつい独占してしまう。案の定、私が出ると待ってましたとばかりに若い人が飛び込んできた。

一合ほどの清酒で気合を入れると、夜の街へと繰り出した。繰り出すとは言っても、夕食を兼ねた居酒屋探しである。ところが少々難儀した。想像以上にウィークデーの下田の夜は閑散としていて、印象としては“真っ暗”。サイトで調べた店はことごとく準備中。全国チェーン店の魚万もコロナの関係で三月上旬まで休店中だという。暗闇の中に煌々と看板を出していた地元の飲み屋があったので、さっそく入ってみると、小さな店内は満席状態。しょうがないので下田駅方面へ向かってみた。すると駅構内にチェーン店ではあるが、<さかなや道場 伊豆急下田店>を発見。営業中の看板も出ている。
この店、さかなや道場と称していても、メニューを見るとごくごく普通の居酒屋だ。決して魚介類へ特化しているわけではない。昼食は軽めだったので腹は確実に減っていた。ちまちまと刺身をつまむより、腹にたまるものをガッツリと胃に落としたいところ。むしろ普通の居酒屋で良かったのだ。
「この大盛焼きそばと鶏のから揚げください。それと大生」
店員の若い男性はとてもきびきびしていて対応もいい。
「はい、かしこまりました。少々お待ちください!」
まもなくして大生が運ばれてきた。良く冷えてるし、乾いた喉にはたまらない。先付の小さなミートボールを口に放り込んでいると、なんと“ロボット”が焼きそばを運んできた。
<お待たせしました。頭のボタンを押してください>
いくら効率化と言っても、これは味気がない。まっ、仏頂面の店員が運んでくるよりましではあるが、やはり機械化や効率化を考える場合、Situationを十二分に考慮することは重要だ。ただ、この焼きそば、思いがけぬおいしさである。運ばれてきたときは、「これ、全部食べられるかな…」と不安になったが、これまで食した何れの居酒屋のものより数段美味で、特に麺のうまさとキャベツの甘みが際立っている。お次の鳥からも文句なし。肉はとてもジューシー、味付けも醤油とニンニクを上手に使っている。下田まで来てこんなものをと言われそうだが、今回は大正解。もちろん大生は一杯で終わらなかった。

二日目も朝から青空が広がった。風も引き続きほとんど無いに等しい。こうなると無性に写欲が沸き立ってくる。この気象条件化なら絶対に“高通山”だろうと、カーナビへマップコードを打ち込んだ。
松崎町の最南に位置する高通山は、標高519mの低山ではあるが、伊豆の西南海岸が見渡せる景勝地であり、以前から一度は登ってその絶景を確かめてみたいと、常々思っていたのだ。
整備された広い駐車場へ到着すると、車は一台も見当たらず、当然人影も皆無。誰にも邪魔されずじっくりと山を楽しめそうだ。山行データは、上り三十五分、下り二十五分と、往復一時間のハイキングレベル。はやる気持ちを抑えつつ、登山口へと向った。山道へ足を踏み入れようとすると、なんと杖が準備されていた。一人でも多くの観光客に登ってもらいたいとの配慮だろうか。
歩き始めから上りが続き、平坦なところはほんのわずか。傾斜はそれほどきつくないが、その殆どが階段なので、下りがきつくなりそうだ。距離は少ないと言っても、雲見の烏帽子山と較べれば普通の登山に近いもので、観光気分でちょっと登ってみるかでは、顎が出ること間違いなし。もちろんハイヒールでは到底登り切れないレベル。ただ、原生林の森は清々しいことこの上なく、ここでも伊豆の持つ多面性を肌で感じられた。
文句のない眺めである。そしてこの頂上も、いるのは私ただひとり。眺めも、風も、陽光も、全て独り占めである。ひととおりの撮影を終えると、やや疲れが出てきたか、軽い睡魔に襲われた。突端のベンチに横になり、暫し目をつむる。すぐにうとうとしてきて、ほんの五分くらいだろうか、寝落ちしてしまった。目が覚めた時の気持ち良さったらない。登ってきてよかったと心の底から思った。

ベストコンディションに恵まれた今回の旅。数えきれないほど訪れている伊豆だが、その魅力は尽きることがない。むしろその度に何某かの発見があり、わくわく感は膨らむ一方である。
今回のヒートアップが冷めやらぬうちに、四月のソメイヨシノが待ち受けているのだ。


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