若い頃・デニーズ時代 85

赤ん坊ってのはドラマ作りの王様である。
夜泣きだ、ゲボだ、ミルクだ、おむつだと、我々夫婦に次から次へと初めての経験をぶつけてくる。慣れるまでのドタバタ騒ぎは正直なところ半端でない。8月に入ったある日、公園デビューも済ませ、やっと軌道らしきものが見え始めた頃、またしても新しいドラマを作ってくれたのである。

「ただいま」
「おかえり」

帰宅すると必ずベビーベッドへ行って絢子の様子を見るのが“お決まり”である。
今日も愛くるしい表情を見せてくれ、こっちもつられて目尻が下がる。
そして、そっと頭を撫でるのだ。

―あれ? ちょっと熱くないか……

「麻美。なんか絢子、熱っぽいぜ」
「ちょっとまって」

台所での手を休めて寝室に来た麻美は、すぐに絢子を抱き上げた。

「えーーなにこれ、かなり熱あるよ。どうしたんだろ」

おかげさんで病気らしきものはここまで一切なしだったから、初のアクシデントは我々夫婦を必要以上に慌てさせた。

「救急はたしか西宮病院だよな」
「たしかそう」

シフトは早番だったが、夏場に入ってからはディナーの客入りが上々で、日曜ということもあり、店を上がったのは21時を過ぎていた。近所の小児科は既にしまっている。

「行こう!」

さっき降りたばかりのセリカXXに、今度は家族3人で乗り込み、やや荒々しく発進させた。

「もっとおとなしく運転してよぉ!」
「わかったって」

不安に駆られる麻美は、かなり気が立ってるようだ。しかしそれはこっちも同じ。
西宮病院までは普通に走っても20分。慌てることはない。
無事病院に到着すると、急ぎ足で受付へ向かった。交代して絢子を抱く。やはりまだ熱い。
人気もなくやや薄暗い院内。数分もしないうちに40がらみのむっつりした医者が正面の通路から現れた。
すぐに処置室へ案内され、触診、そして聴診器を当てる。

「心配いりません。まちがいなく赤ちゃんが最初にかかる病気、突発性発疹です」

ものの30秒。実にあっけない。

「あ~、よかった」
「すごく元気そうだし、オッパイも飲むんでしょ」
「はい」
「それなら薬もいりません。そのうち全身に発疹ができますが、それが消えるころには熱も下がります」

まるで狐につままれたような展開である。
双方の親でも近所に住んでいれば、何かしらの助言をもらえたのかもしれないが、とにかく大事にならず良かった。

「なんか気が抜けちゃった」
「はは、ほんと」

夏を迎えてから売り上げは上昇の一途だった。
相変わらず平日ランチのMDは不足していたが、夏休みに入ってからは高校生や大学生が入れるので、ほぼ一日を通してマンニングテーブルに穴はなかった。更には新規採用も順調で、ひと月ほど前に採用した女子高生DLの楠田恵理子と、平日ランチのKHである加藤愛子の二人は、ずばり言ってめっけもの的人材だった。
まず、楠田恵理子は、愛くるしい笑顔がチャームポイントで、仕事の覚えは抜群に良い。彼女がいるだけでフロントに明るさが増し、ウェイティング時のぎすぎす感も和らいだ。しかも他のMDとの連携もしっかりできているので、新人ながらピーク時間帯の司令塔たる仕事ぶりを発揮していた。それと面白い点として、仕事中は完璧な標準語でコミュニケーションをとることだ。
聞けば関東圏に住んだことはなく、両親も関西人なのに、何故かイントネーションも完璧である。
現在高校3年生だが、女子大の付属高校へ通っているので受験はなく、そのまま上へ進学できるので、小遣い稼ぎのためにも、一応ぎりぎり卒業まで働いてくれるとのことだ。
そして加藤愛子。KHにしておくのが惜しいほどの美人である。美人にもいろいろタイプがあるが、ずばり彼女はクラブのチーママタイプ。背が高くスタイルも良く、第一印象は色香である。MDのユニフォームも似合うだろうが、それよりも間違いなく着物がベストマッチだろう。

「加藤さん、なんとかMDできないかな」
「あかんあかん」
「どうして」
「近所の知ってる人来るから、いややもん」

これの一点張りだ。しかし、KHとしても期待以上の仕事をしてくれるで、無理強いはしないようにしている。

「マネージャー、お電話です」
「どちらさん?」
「神戸の谷田さんです」

谷田さんとは珍しい。神戸住吉は発注管理が非常にうまく回っている店なので、物の貸し借りが殆ど発生しない。
他店UMからの電話は、その殆どが物の貸し借り関連である。

「おはようございます。谷田さんから電話とは珍しいですね」
「いやいや、それより今、大丈夫ですか」
「ぜんぜん」
「先日の会議で、DMが代わるって話があったじゃないですか」
「春本さんは確か新しいエリアへ行くとか言ってましたね」
「そうなんですけど、今度来るDMが相当やばい人らしいですよ」
「やばいというと?」

谷田UMの話によると、春本DMの後釜に入る菅村DMという人物、物凄く強権的な運営をすることで有名らしく、これまでのエリアで幾度も問題を起こしているようなのだ。谷田UMは関西きっての情報通であり非常に顔が広いので、あながち間違いはないと思われた。

「上には平身低頭と媚びへつらい、UM達には個性を封印させ、絶対服従を迫るそうです」
「なんだそりゃ、食えないやつだな」

1週間後には菅村DMの関西入りが決まっていて、同時にUM会議が予定されていた。
関西エリアに不穏な空気が一気に広がっていくのだった。


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