依然としてデニーズの出店ペースは落ちなかった。
埼玉や千葉ほどではなかったが、東京地区にも新店オープンの波は押し寄せ、メールバッグが届けば、何はともあれファスナーを開き、貪るように人事異動と新店情報を探したものだ。
「おっ、出店予定に八王子があるぞ」
橋田UMが見入っている。横顔が真剣だ。
「しかもインストアだ」
インストアとは、独立店舗ではなく、テナントとしてビルの一階等に入るケースである。
デニーズの記念すべき1号店・上大岡店は、このインストアタイプだ。
「それじゃ、街中ですね」
「この頃じゃ八王子も賑やかになったから、結構入るかもな」
「3億行っちゃいますかね」
「そこまではどうだろう」
新店情報は話のネタとして一級品である。自社の躍進ぶりには心も躍るし、マネージャーやリードクックの人事に至っては、他人ごとではない緊迫感が伝わり、大いに盛り上がる。しかし、同時にデニーズという会社には安住の場所はなく、激しい出店ペースに伴う問答無用の人事異動に、身も心も委ねるしかないという厳しい現実も露わになる。
「なあ、木代」
「はい?」
「このAMに昇格した“峰岸”ってやつ、知ってる?」
「店はどこですか」
「新所沢だ」
「もしかしたら、そいつ、私の同期かもしれません」
これには驚いた。あの峰岸だとしたら、恐らく同期ではAM一番乗りだろう。してやられた感じだが、入社1年半で早くも我々の時代が到来したことが実感できて、寧ろ無性にワクワクする。
確か峰岸はUMITになるもの早かったし、一見暗そうなやつだが、上層部からの受けは良いのだろう。
「だけど君にもそろそろAMの話が来るんじゃないの」
「本当ですか!」
「人事の本田さんが言っていたけど、今の出店ペースに沿うように、早急な新店UM候補のリストアップが行われているそうだ」
「それは既存のUMから選ばれるのですね」
「そして既存店のUMが新店へ駆り出されれば、自ずとUMの席が一つ空く。そこを順次AMが昇格して埋めていくんだよ」
秋にオープン予定の八王子店。仮にここのUMに橋田さんが抜擢されれば田無店のUM席が空く。この時点でAMへ昇格していれば、ちゃっかりと私が後釜に座ることも有り得るのだ。
店の成功不成功、すべてに責任を負わなければならないUM。やりがいは大いに感じるところだが、反面、オペレーションへの不安も同様に大きい。
「だからね、同時に既存店UM候補者のリストアップも行っているんだ」
「なるほど」
「そう言えば、、、」
「なんですか?」
「話は全然変わるけど、噂によれば、上西さん、どうやら辞めたみたいだ」
「辞めたってことは、退職ですか」
「そう」
<デニーズ田無店 = 上西帝国>
当時を知る者だったら、誰に聞いてもこう答えが返ってくるだろう。
マニュアルで管理されたデニーズレストランの中にあって、あれだけ自由に立ち振る舞っていたUMは極めて珍しい。とにかく上西UMは、全くと言っていい程仕事をしない。普段はMDを相手におしゃべりをしているか、漫画を読んでいるか、はたまた外出しているかで、ランチやディナーのピークですらフロントに出てこない。たまに出てきたかと思えば、すぐに踵を返し、クリーンキャップを被ってキッチンへ入って、センターの真似事をしつつライスを盛る。
いてもいなくても全く同じ。いや、いない方が効率よく回った。
キッチンは豊田LCが2名の新卒クックとKH達を上手に使って、大きな問題も起こさずそつなく管理していたし、フロントは橋田さんと私とで、一日並びに一週間の完璧なマンニングテーブルを作り上げていたので、正直なところ上西UMが居なくても十二分な店舗オペレーションは可能だった。
よってそれをいいことに、自由奔放な毎日を送っていたわけだ。
良し悪しは別にして、あのやり方は自分で作り上げた田無店だから許された。他の店へ移動してもそのままだったら、間違いなく総スカンである。
この頃、常に感ずることがあった。
デニーズジャパンは1974年にイトーヨーカ堂が新規事業として創設した組織であるが、当然ながら小売業であるイトーヨーカ堂には、コックも含めてレストラン業務の経験者はいなかった。しかし、創設時期のスタッフの面々には、飲食業経験者やそれに付随するような仕事を行っていた人達が多くいて、アメリカから仕入れたマニュアルはあったものの、先ずは経験者を採用して実際に動いてもらい、一日も早く開店~営業という流れを作らねばならないという切羽詰まった状況が容易に読み取れた。
上西さんもその採用された一人ではないだろうか。彼らの中には、きちっとした社風の中で育まれた組織経験者は少なく、寧ろ水商売丸出しが結構いて、異色を放っていた。
彼らのことを云々言いたくはないが、幹部社員である某DM。まんまヤクザのようなテカリのあるスーツを着て店回りをし、
「かわいいMDにシカトされちゃったよ」
なんて、チンピラ口調も飛び出すあり様なのだ。
こんな人が将来取締役になるのだろうかと想像したときは、正直なところ気が滅入った。
しかし、この様な思いを持っている者は決して少なくなかった。なぜなら、誰も言葉には出さなかったが、いつしか私を含めるプロパー(定期入社組)とその他との間で、見えない壁が作り出されていたからだ。
更新を楽しみにしています。
私がいたのはもっと後ですが、自分の時代と重ねて読んでいます。
いつもお読みいただきありがとうございます。
私にとってデニーズ時代は正に青春でした☆
辛いことも多々ありましたが、一途に頑張ってこられたのは、若さありきだったと思います。