デニーズはタクシードライバーをはじめとする多くの個人常連客から支持を受けていた。その理由はカウンター席にある。
繁忙時、一人で四人掛けテーブルを占拠するのは、あまり居心地の良いものではない。その点カウンターは一人専用だから、どのような場合でも落ち着いて食事を楽しむことができる。カウンター席はデニーズの全店舗タイプで採用されており、他社にはない個性であり、また強みでもあるのだ。
デニーズのフロアが開放的に感じるのも、このカウンターが大きく影響している。
「あら、おはようございます」
「いつものね」
「はいかしこまりました」
そしてカウンターに腰掛けると、目の前にコーヒーメーカーやウォーターディスペンサーが設置されているので、そこを中心に動くMDに声を掛けやすい。更に田無店のような106タイプになると、オープンキッチンだから、ディッシュアップカウンターを挟んで、クックとMDのやり取りを間近で見ることができ、一人でも退屈することがない。
「いいかい三池さん。覚えることはたくさんあるけど、先ずはグリーティングだよ」
「はい」
「いらっしゃいませ、デニーズへようこそ!を元気に、ね♪」
新人MDの教育第一歩は“グリーティング”。
“いらいっしゃいませ”は簡単に発声できても、“デニーズへようこそ”はなかなか声が出ないもの。しかし三池洋子はよく順応した。笑顔にやや硬さがあったが、何を教えても覚えが良く、動きもキビキビしているので、近い将来、相当な戦力になるのは確かだろう。
「ずいぶんと慣れてきたね」
「そうですか」
「それじゃ、今日は食器の持ち方を練習しようか」
当時のデニーズでは、フロント業務に“トレイ”を使わなかった。ホテルも含め、大概の飲食店はトレイを使って料理や飲み物を運ぶのだが、デニーズではなぜかこれを素手のみで行った。
よってプレートやグラスの独特な持ち方をマスターしないと、運ぶときはもちろん、バッシングにも多くの時間が掛かってしまうのだ。
一般的に二つのコーヒーを運ぶのなら、両手にひとつずつと考えるだろうが、この持ち方では歩き出すとカップが揺れてコーヒーがこぼれてしまうことがある。ところが不思議、左手に二つ持って歩くと安定感が生まれて、結構な速度で歩いてもコーヒーがこぼれることがないのだ。これは水の入ったグラスでも同様である。
ソーサーやプレートを左手に二枚持つことは基本中の基本になり、これが確実にできるようになるまでは、何度も練習を繰り返した。例えば一番大きな10インチプレートを広げて二枚持つと、それはトレイ並みの面積となり、その上に9インチや5インチを重ねていき、更にシルバーやグラスも載せてしまえば、見事トレイ代わりになるのだ。
「うわ~、重たい」
「慣れだよ慣れ。がんばって練習しよう」
上手に二枚を持つコツは、この二枚を可能な限り水平にすること。水平にしなければ、ソーサーに乗せたコーヒーが不安定になり、急に立ち止まった時などは落としてしまう危険性もある。
MDは更に慣れてくると、左手に二枚どころか三枚のプレートを持つ。この三枚持ちをしっかりと安定させる為には二枚の水平が前提になるので、やはり基本は大切だ。
「塩原さん、すごいですね~」
「どうして」
「片手にシェーク二つですよ!」
シェークやソーダフロートをサービスする際はロンググラスを使う。
高さが15㎝もあって重心が高い恐ろしく不安定なグラスなのだ。こいつを5インチプレートに載せて左手に二つ持つのは慣れたMDでも怖いもの。
我々マネージャーでさえそう感じるのだから、新人MDが感心するのも無理はない。
追いかける目線に気づいたのだろうか、シェークをテーブルへ運び終わると、塩原早紀は我々がいる3番ステーションへとやってきた。
「三池さん、どう、慣れてきたかな」
「全然だめですぅ」
「木代さ~ん、ちゃんと優しく教えてあげなきゃ♪」
「おいおい、ちゃんとやってるって」
上西UMがいたころは、よく彼に連れられ銀行入金へ出かけていた塩原早紀。誰が見たって「UM」と「MD」の関係から逸脱しているその行動は、暗黙の裡に壁を作り、他のスタッフ達と表面上は和気あいあいであっても、側面では絶えず“特別なMD”という香りを放っていた。
これは職場の雰囲気に違和感を作り出し、敏感なスタッフは士気も下がる。況してこの状況をUM自身が作り出しているのだから、本当に困り果てた。
上西UMとのその後は分からない。しかし、一時期やや元気がないようにも見えたが、ここのところは彼女本来の快活さが蘇り、機敏な働きぶりを見せている。ヤンキー臭さも心なしか減って、自然な笑顔が店のムードを上げていた。
「三池さん、これからケーキカットするから教えてあげる。いいでしょ木代さん」
「もちろん。塩原さんはケーキカットが上手だからね」
「ありがとうございます。お願いします」
どうやらフレッシュな戦力が一人、定着しそうである。
こうして店は日々新陳代謝を繰り返していくのだ。
チーズケーキをペティナイフを熱湯で熱しながら、きれいにカットすることが好きでしたね!
それも同じです。きれいにカットできると無性にうれしくなりました。
私はペティーではなく牛刀を使っていました。